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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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六士先生の墓と飛虎将軍廟について

平成22年12月17日(金)

 「台湾の日本を知る」ことと「台湾で日本を知る」ことは歴史の回復であると前に書いた。
 そこで、四月と十二月に訪問した士林の六士先生の墓と四月に訪問した台南の飛虎将軍廟について書いておきたい。
 
 六士先生と飛虎将軍、共に日本人である。
 六士先生は、十八歳から三十代の小学校の先生で、一八九六年一月一日、芝山巖事件で殉職した。その名は次の通り。
 中島長吉先生、桂 金太郎先生、井原順之助先生
 揖取道明先生、平井数馬先生、関口長太郎先生
 飛虎将軍は、杉浦茂峰帝国海軍飛行少尉。
 六士先生も飛虎将軍も共に靖国神社に祀られている。

 まず、士林の芝山巖事件について。
 一八九五年六月十七日、日清戦争勝利により台湾を領有した我が国は、士林の芝山巖のお寺に小学校を造り六人の先生を派遣した。
 しかし、日本の統治が開始された直後の台湾状勢は極めて不安定で、日本から派遣された教員にも危害が加えられる虞があった。そこで、総督府は士林の六士先生にも、退去を指示した。
 ところが、六士先生は、子供達を教えるという教育者としての任務を続けるため、危険を承知で小学校から退去せず留まった。そして、一八九六年一月一日、現地民に殺害された。
 六士先生の死後、台湾の人々は、芝山巖に「六士先生の墓」を建てて弔った。
 また、その墓の近くには伊藤博文が揮毫した「學努官僚遭難碑」が建てられている。
 その後、我が国が大東亜戦争に敗れてから、蒋介石の国民党軍が我が軍の武装解除のため台湾に進駐し、大陸で共産党軍に敗れてから台湾に居座って今に至る。
 その蒋介石は、一九四七年の2・28事件からいわゆる白色テロを開始し、日本時代に育った三万人を超えるエリートを殺害するとともに、町々の「日本色」の一掃を図り、「六士先生の墓」も「學務官僚遭難碑」も打ち砕いて撤去した。
 しかし、士林の人々は六士先生を忘れなかった。
 李登輝総統の時代になり、六士先生の墓は元のところに再建され、「學務官僚遭難碑」も掘り出され復元されて元のところに建てられた。
 本年四月、北海道旭川の同志、宮司の鎌田告人さんらと「六士先生の墓」を訪れたとき、線香が供えられていた。
 我々が墓に手を合わせていると、後ろから台湾の老人が声をかけた。
「私は、毎日、ここにお参りして線香をあげているよ」と。
 そして、他の多くの亡くなった先生の名を刻んだ二つの碑のところに案内してくれた。その碑は二つとも割られたものを引っ付けて復元したものだった。その付近には、まだ日本文を刻んだ多くの石の破片が横たわっていた。蒋介石時代の破壊の跡だ。
 この度の十二月の訪問では、日本から線香を持参し、三十数名全員でお墓に線香を供えた。
 また芝山巖の麓で我々を出迎え、墓まで案内してくれたのは、「士林国民小学校友会会長」の林政毓さんら三名の方々だった。

 台南の飛虎将軍廟には、鎌田さん等と四月に訪れたが、この度は行けなかった。
 将軍廟は、台南市北西五キロの郊外にある。その場所に、昭和十九年十月十二日午前七時二十分過ぎ頃、地元で飛虎将軍と言われている杉浦茂峰海軍飛行少尉が墜落して戦死した。
 その状況は地上から見上げていた台南の人々により、次の通り伝えられている。
 午前七時二十分、台南上空で零戦と来襲したグラマンが戦闘を開始した。数を頼むアメリカ軍機に、衆寡適せず零戦が苦戦を強いられていた。
 一機の零戦がよく敢闘して敵を制圧していたが、「海尾寮」という大きな集落の上空で尾翼から火を噴き急降下してきた。
 しかし、墜落の途中でゼロ戦は機首を上げて上昇に移り集落の東側に向けて飛び去って空中で爆発した。その直前にパイロットは落下傘で機体から飛び出したが、降下途中でグラマン機の機銃掃射を受けて落下傘が破れ仰向けに畑のなかに地上に墜ちて戦死した。軍靴には「杉浦」と書かれていた。
 その後、第二〇一海軍航空隊分隊長森山敏夫大尉の協力で、戦死したパイロットの名は「杉浦茂峰」と判明した。
 戦争が終わり何年か経ってから、白い帽子と服を着た日本の若い海軍士官が枕元に立っている夢を見た人が部落に何人も現れた。そして、部落の人々は、その若い士官は部落への墜落を回避して飛び去り戦死した杉浦茂峰少尉に間違いないと話し合い、台湾人が謝恩の最高の表現とする祠を建てて永久に杉浦茂峰少尉の恩徳を顕彰することで衆議一致した。
 それが、杉浦少尉の戦死の地に建てられた飛虎廟である。
 廟守は、毎日タバコ七本に点火して神像と写真に捧げ、朝には「君が代」、夕方には「海ゆかば」を粛々と歌う。
(以上、「台南市海尾朝皇宮管理委員会隷属鎮安堂」作成のパンフレットによる)
 そして我々も、廟のなかで「君が代」と「海ゆかば」を合唱した。

 台湾の人々が忘れないで祀ってくれている日本人を、日本人が忘れ去っていて國も未来があろうか。

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