大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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堺自慢と御霊参拝のこと

平成22年6月14日(月)

 ここ十日間ほど、東京と大阪の往復と各所への外出以外の時間は、ほとんど原稿を書いていた。それで、この時事通信を書けなかった。
 原稿は、未だ完成していないが、次の「正論」と「WILL」に載せていただけると思うので是非ご一読いただきたい。
 そこで、原稿書きの峠を越えた今夜、ここで、私の生まれ育った堺や周辺の自慢をしてみたい。
 戦国時代の「堺幕府」については、堺の尊敬する郷土史家である桧本多加三先生から教えてもらった受け売りである。

1、天皇陵
 まず、堺の三国ヶ丘周辺には南北の線に沿って仁徳天皇陵を中心に北に反正天皇陵、南に履中天皇陵がある。仁徳天皇は履中天皇と反正天皇の父で北の反正天皇陵から仁徳天皇陵を経て南の履中天皇陵まで歩いて四十分である。これら三つの天皇陵は共に南を向いている。
 この天皇陵から東にJR阪和線の線路を隔てて、いたすけ古墳、御廟山古墳、にさんざい古墳という三つの大型古墳があるが、三つとも東を向いている。
 都市中心部の丘に、三つの天皇陵がある都市は堺だけである。よって堺市は、このありがたさをもっと生かした都市創りをしなければならない。
 つまり、三つの天皇陵を含む都市公園ゾーンをつくり古墳博物館と中世南蛮美術館をつくるのだ。そうすれば、中世の自由都市堺の遺構と合わさって世界から堺を見に来るだろう。
 しかし、堺市行政は、何の問題意識もない。市長に言っても効き目がない。履中天皇と仁徳天皇との間の昔からある空き地が分譲され、御陵の堀を個人が占有するようにどんどん家が建ち始めても知らん顔だ。
 それに加えて、堺市には反天皇の職員組織があるのだろうか。最近は、仁徳天皇陵を「仁徳陵古墳」とか「大仙古墳」とか読んだり印刷したりして「天皇」という文字を堺市作成の文書から削り始めた。
 これは、無礼千万な犯罪的な「歴史の改竄」である。
 同志の市議会議員も質問で質すのであるが、「天皇陵という証明がない」とか「陵という字は、天皇陵のことを意味するのでいいじゃありませんか」とか屁理屈を並べるらしい。
 
 それでいて堺市は、この天皇陵群を世界遺産にするよう働きかけている。
 私は、これには反対である。天皇陵は「遺産」ではない。
 今に続く万世一系の天皇陛下の御先代の天皇の墓である。
 それをだ!他の世界各地の「遺産」のように、毛唐の学者がどかどか踏み入って「学術調査」などさせられるものか。世界遺産になればそうなるのだ。
 左翼系学者は、天皇陵に調査にはいるために、ことさら、呼び方を工夫し、天皇という字を取って単に「古墳」と」呼ぶようにしむけていると聞いた。
 昨年十二月、韓国で仁徳天皇陵を学術調査をすれば、日本の王朝は朝鮮から来たことが分かる、などと向こうの大学で言った与党の幹事長がいた。
 この者には、災いがある。天皇陵を汚すな。
 この者、昨日、南紀の熊野古道をマスコミを連れて歩いていたようだが、日本の古道を汚すな。日本の歴史を汚すな。

2,ものの始まり
 「ものの始まり何でも堺」という堺音頭の文句がある。はじめに聞いたときはほんまかいな、と思ったが、まず次に列挙しておこう。
 堺から始まったもの、近世の、お茶、歌舞伎、鉄砲の大量生産、現代の、水族館、少女歌劇、初めての私鉄運行、初めての民間航空機による旅客輸送会社の営業、が思いつく。
 それに加えて、十文字切腹、十河額が堺初である。
 
 一五三二年、三好元長は堺の顕本寺で、裏切った配下の木沢長政や一向宗徒十万人に囲まれ、怒りに怒って、介錯なしで腹を十文字に切り裂き、内蔵を天井に投げつけて血塗りの天井にした。
 これから、十文字切腹が「流行る」
 坂本龍馬の盟友、土佐の武市半平太の切腹や、明治初年の堺事件における土佐藩士の切腹は、全て十文字切腹である。
 十河額(そごうびたい)は、初めて月代を剃る髪型。
 十文字切腹の三好元長の息子である十河一存は、「鬼十河」と恐れられた天下無双の豪傑であったが、兜をかぶれば蒸れる前頭(月代)を剃って戦場に出た。それからというもの、敵は十河一存が兜を脱いで剃った月代を見せるだけで恐れて遠ざかったという。
 これが流行りだし、後に月代を剃るのは浪人ではない高給武士の身だしなみとなって明治維新にまで至る。

3、堺幕府
 戦国時代を治めたのは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康であるといわれる。しかし、この三人の時代は、一五六〇年の桶狭間の合戦で織田信長が今川を討ち取ってから一五六八年に将軍足利義昭を奉じて京都に入って始まる。
 では、それ以前、一四六七年から始まる応仁の乱以来百年近くの間、我が国はどのように統治されていたのか。特に、応仁の乱後期の京都が焼け野が原になってからは?
 少なくとも、織田信長が入京する前の二〇年間は、天下をまとめていたのは堺に本拠を置く三好一族でありそれを支える堺の三六人の豪商つまり会合衆(えごうしゅう)である。
 その頃、京都は焼け野が原だった。他方、堺は海外貿易で栄え、ヨーロッパの宣教師は堺を東洋のベニスと呼んだ。
 一五二七年、十文字切腹で「有名」になった三好元長は、足利義継(十六歳)と細川晴元(十三歳)を擁して堺に入り、北部に「海船館」という城郭を造って会合衆に支えられて幕府の実権を握った。そして、足利義継が堺公方と呼ばれ海船館が堺幕府となった。
 三好元長は、一五三二年、無念の死を遂げるが、息子の三好長慶が徐々に実力を蓄えて十年後の一五四二年に父の仇、木沢長政を討ち取って会合衆の支えの元に堺船館によって天下の実権を握る。
 以上、戦国期には、京都は機能せず、織田信長の台頭までは、海外貿易で巨利を得た堺の豪商と三好一族による堺幕府が、天下を動かしていた。

4、それからは
 豊臣秀吉によって、堺の豪商は、大阪城の周囲に持てる富と共に強制的に移住させられる(堺町の誕生)。
 とは言え、一六〇〇年九月、関ヶ原の合戦で敗軍の将となった島津義弘主従数十人が堺に逃げ込んできたとき、堺衆は、天下の覇者が徳川家康になったのを知りながら、島津主従を船を仕立てて薩摩に送った。
 堺には、未だそれくらいの力と気概は残っていた。仮に、堺衆が勝者となった家康に媚びて、島津義弘を薩摩に送らなかったならば、二六〇年後に明治維新があったかどうか分からない。少なくとも、維新の立役者を薩長土肥というが、ここから薩が抜けていて西郷さんも登場しなかったかもしれない。
 その後一六一五年、大阪城落城の大阪夏の陣によって、堺は灰燼に帰す。
 一七〇三年、今の大阪市内を北上して度々氾濫していた大和川が柏原から真西に付け替えられ、堺の北端の大阪湾に流れ込む。この大和川が運ぶ土砂によって、堺の東洋のベニスといわれた港は埋まり貿易港としての機能は消滅する。
 
 昭和四三年、共産党の馬鹿大阪知事の時代に、自由都市堺の象徴であった旧堺市を取りまく環濠(土居川)が埋め立てられ、その上に阪神高速道路が建設される。これにより、二〇年前の戦災に加えて旧堺市内の中世を偲ばせる町並みの崩壊が加速される。
 さらに多くの古墳が宅地開発、道路開発によって消滅する。
仁徳天皇陵をはじめとする天皇陵の回りに宅地開発が急速に進む。
 それどころか、既に述べたように、アホな堺市政によって「天皇陵」の名が消されようとしている。この堺市の職員には、反天皇の左翼的組織がある。
 よって、反天皇の小沢一郎氏が、もうすぐ行くところがなくなって、ふる里に来たような顔をして堺の左翼組織を激励に来るのではないか。

 以上で、私の「堺市」自慢ではない「堺」自慢を終わります。 最後に、この新緑の候、私が、寸暇ができたときに参ってきた三カ所を述べておきたい。
 四月、イスラエルで神奈川県議会議員の小島健一さんから、香川県坂出市白峰の崇徳天皇陵に参ることを勧められた。
 そうだ!と思った。
 崇徳天皇は、一一六四年、九年間の讃岐流罪の果てに亡くなった。自分が写経したお経も京都に入ることを拒否され天皇は、怨霊となられたという。
 それ故、明治天皇は明治維新に際して、崇徳天皇を慰霊され、昭和天皇も、八百年祭に当たる一九六四年の東京オリンピックに際して崇徳天皇陵に勅使を派遣されて天皇を慰霊されたと教えられた。
 時あたかも、海外に在住して頑張っている日本人が、顔を上げて街を歩けないような惨めな総理大臣がおり、与党幹事長は天皇の「権威」を蔑ろにした無道の者である。我が国の権威は地に落ち、他国に軽蔑されるに至っている。深く、危機を感じる。
 そこで、一挙に讃岐に走って白峰の崇徳天皇陵に参った。
 そして、どうかお鎮まりください。その無念の御霊をもって、どうか日本をお守りくださいと祈った。
 また、二上山の雄岳の上にある天武天皇の皇子である大津皇子の御陵に参った。大津皇子は、万葉集にすばらしい歌を遺された若い文武に秀でた皇子であったが、あらぬ謀反の嫌疑をかけられ死罪となられ二上山に葬られた。
 その雄岳の上の皇子の御陵の前で、その若き荒ぶる御霊に御国を守り給えと祈った。
 さらに、河内の葛城山麓の弘川寺にある西行法師の墓に参った。そして、声を出して言った。
「西行さん、名誉ある御所警護の北面の武士佐藤義清(のりきよ)さん、貴方と同年代の崇徳天皇陵に参ってきた。雨月物語によると貴方も白峰の崇徳天皇陵に参っておられる。どうか、再び崇徳天皇に会われて、御国を護り給えとお伝えください」
 すると、花のもとにて春死なむと言った西行さんが愛した桜の青葉が目に染みて妙に心が落ち着いたのだった。

 他にも、歴史のなかにある聖所を訪れた時のことを語りたいと思うが、今夜はここで擱きたい。これ以上書くと、「あやしゅうこそ、ものぐるおしけれ」というようになってしまう。

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