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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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毒餃子とコミンテルン(続2)

平成22年3月29日(月)

 この度、中共の警察が、二年前の毒餃子事件の犯人を捕らえたと発表した。捜査官は、犯人が「自白した」と述べている。
 そこで、その「自白」というものは、我が国においても、つい最近関心と同情を集めた冤罪事件において、如何に捜査当局によって創作されやすいものか明らかになったということをまず押さえておきたい。何しろ、この冤罪事件においては、被疑者の捜査状況がテープに録音されているにもかかわらず、虚偽の自白に至っているのである。
 次に、毒餃子事件が我が国内で被害者を出して騒ぎになったときに、中共政府が直ちに何を言ったかを思い起こす必要がある。
 中共政府は、「餃子への毒の注入は日本国内でなされた」と発表し、我が国警察の捜査結果を一切無視したはずだ。
 そうすると、奇妙なことに、その中共政府の主張を裏付けるかのように、我が国内のスーパーで、針によって毒が注入された餃子が発見された。
 以上の経緯を考慮すれば、中共政府の発表は、何れも政治的意図に基づくものと判断される。たとえ、犯罪の科学的捜査結果が出ていてもそれを認めるか認めないかは、全て政治的判断が優先する。つまり、中国共産党が、餃子への毒が日本国内で注入されたということを貫くという判断をすれば、それを事実として定着させるまで主張を変えない。しかるに、この度は、犯人自白と発表したまでのこと。
 よって、この発表に至る中国共産党の政治的配慮と思惑とは何かを考えるべし、とまず思う次第である。

 南京事件を考えていると、共産党の毒餃子事件犯人発表があったので、まず、毒餃子から書くことにした。何故なら、共通項があるからである。
 さて、南京事件とは1927年3月に起こった。犯行は、コミンテルンに指令された国民革命軍(正規軍)により行われた。被害者は、日・英・米・仏・伊・デンマークをはじめとする各国の在南京公使館員とその家族である。
 
 その前に、「連ソ容共」の方針に転換した孫文のもとで、中国共産党と中国国民党の国共合作が為された。その孫文死後、軍事力を掌握した蒋介石は、1926年(大正15年)7月、国民革命軍を率いて中国統一のために広東から北伐を開始する。
 中共は、コミンテルンの指示のもとに北伐を支持し、革命軍の戦果のあとに自己の勢力を扶植し拡張していく方針をとる。
 この北伐途上で、北伐軍は、日本をはじめ居留民と諸外国の権益を侵害する多くの不法行為をかさねる。
 北伐軍は、武漢に共産党主力の政府を樹立し、1927年1月に漢口や九江の英国租界を武力接収して上海に迫る。これに衝撃を受けた英国はじめ各国は、実力による上海の権益擁護措置をとったので上海での衝突は起きなかった。
 しかし、同年3月24日、晴天白日旗を掲げて南京に入城してきた国民革命軍は、各国領事館、学校、会社に乱入して略奪し婦人を陵虐した。これにより、英国人2名、日・米・伊・仏・デンマーク人各一名が殺された。
 この国民革命軍の略奪に対し、米・英両国軍艦は、避難民救援のため、揚子江に浮かべた軍艦から南京城内を砲撃した。これによって、略奪の拡大は阻止された。なお、我が国は幣原外務大臣の協調外交によって、この砲撃には参加しなかった。
 これが南京事件である。
 現在、1937年12月の日本軍の南京入城によって起こった30万人の虐殺が、南京事件と宣伝されているが、これは幻、つまり虚偽である。南京陥落前の人口二十万人、陥落後の人口二十余万人で増えている。その当時、中国人自身もそのような南京事件があったと主張していない。なかったからである。

 そこでこの本当の南京事件であるが、これこそコミンテルンの指令に基づく中国共産党の犯行である。
 この時、コミンテルンの実権を掌握していたスターリンは、「西守東進」の方針を決定し、中国共産党を通じて積極的に対支工作を進めていた。
 従って、国民革命軍首脳も、わが国に対して、「事件は革命軍内部の不良分子と南京共産党支部が通謀して仕組んだ」と伝えてきた。また、アメリカの南京領事デイビィスは、「疑問の余地なく事件を起こしたのは、国民革命軍正規兵である」旨本国に報告し、マクマレー公使も「外国人に対するこのテロと陵辱は、広東政府によって公式に支持され指導されていたのみならず、同政府によってあらかじめ準備されていたことに絶対的な確信をもっている」と国務長官宛て報告した。

 また、「蒋介石秘録」は、事件前年のコミンテルン決議に基づく北京駐在ソ連大使館武官に対する次のような秘密文書を引用している。
「あらゆる方策をもちいて、国民大衆による外国人排斥を引き起こさねばならない。この目的達成のためには、各国と大衆を武力衝突させねばならない。これによって各国の干渉を引き起こすことができたならば、さらに手段を選ばずそれを貫徹すべきである。・・・大衆が欧州の軍隊と衝突した時には、その機会を決して逃してはいけない。」
 ところで、現在中国は、この南京事件を次のように教えている。「帝国主義は中国での反動支配を守るために革命を破壊しようとした。3月24日、北伐軍は南京を占領した。その日の夜、イギリス、アメリカ、日本などの帝国主義は、狂ったように南京城内を砲撃し、中国軍民二千人余りを死傷させた」
(以上、主に中村粲著「大東亜戦争への道」を参照し引用した)

 ところで、この南京事件へ向けたコミンテルンの指令であるが、これこそ、以前に書いた「自国を敗北させること、戦争から内戦へ、内戦から革命へ」のコミンテルン決議そのものである。
 しかし、その「大衆が欧州の軍隊と衝突したときには・・・」という部分については、変更がある。つまり、衝突したのは日本だったからである。
 では何故そうなったのか。
 それは、前に書いた幣原協調外交の故である。すなわち、幣原協調外交は、支那への理解と同情を以て対処するという方針のもとに、無抵抗の姿勢をとり、英・米と共に断固として避難民保護の為に南京城内を砲撃しなかった。
 この我が国の外交姿勢は、コミンテルンと中国共産党に対する如何なるサインとなったのか。これこそ、我が国の国運が懸かったサインとなったのである。
 コミンテルンと中国共産党は、日本こそ、「リスクなく攻撃できる対象」、「攻撃してもリスクを負わなくてよい対象」だと判断したのである。よって、南京から北上した北伐軍の攻撃対象は日本権益に絞られたのである。

 そして、ほぼ十年後には、西安事件から第二次国共合作という中国内の状況変化と廬溝橋事件から上海事件という対日武力衝突が平行して起こるが、これこそ、南京事件以来のコミンテルンと中国共産党の一貫した革命戦略によるものである。
 南京事件に関するアメリカのマクマレー公使の国務省報告そのものが廬溝橋事件と上海事件に当てはまる。同じ、コミンテルン方針に基づく行動であるから当然であろう。
 つまり、「日本に対するこのテロは、中国共産党によって公式に支持され指導されていたのみならず、同党によってあらかじめ準備されていた」ということである。
 蒋介石による攻撃によって消滅しかかっていた中国共産党は、西安事件と第二次国共合作によって蒋介石の国民党軍をコミンテルンの方針のために使えるようになったのである。これこそ、コミンテルンの内戦から革命への戦略が具体化した瞬間である。
 廬溝橋事件と上海事件勃発前の兵力は、次の通り。
 中国国民党軍二百五十万人、百九十八個師団。
 中国共産党軍二十万人。
 日本軍三十万人、十七個師団。

 支那側は、内戦を繰り返していた戦時編制、我が国は平時の編成である。
 よって、この兵力数を観れば、東京裁判の訴因である「戦争の謀議」が何処で為されたか明らかであろう。その謀議は、支那側つまりコミンテルンによって為されたのである。
 
 さらに、この時、コミンテルン第七大会決議に基づく共産主義者の身分を隠してブルジョア組織のなかに潜入せよという指令は、我が国においてもアメリカルーズベルト政権においても、実行に移され実現されていた。
 ソビエトのスパイであるゾルゲと組んだ我が国の近衛内閣政府顧問に潜り込んでいた尾崎秀実は、共産主義者・コミンテルン工作員であり、日華事変の終結阻止、拡大継続を仕組んでいる。
 またアメリカルーズベルト政権には二百名のコミンテルン要員がいたとされる。日本に対する最後通牒ハルノートを書いた男、ホワイトは、コミンテルンの工作員であった。
 ここにおいて、歴史は、日華事変の拡大そして継続と日米対決路線が平行して進行し、中国共産党の権力獲得が実現する方向に向かう。

 毒餃子からはじめた今日の話が、コミンテルンの戦略実現で終わる事になる。話の規模が違いすぎると言うなかれ、
 相手は同じ中国共産党である。いかにも、参考になるではないか。

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