大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

  • 西村眞悟 Facebook
  • 西村眞悟 twitter
  • 西村眞悟 RSS
西村眞悟の時事通信
  • HOME
  • 西村眞悟の時事通信

本日の産経抄、そして歴史散策から学ぶもの

平成22年3月26日(金)

 歴史散策について書こうと思っていたところ、手にした本日(平成二十二年三月二十六日)の産経抄に大笑いしてしまった。
 本日の産経抄。まことに傑作。見事である。短い文章ではあっても、落語、俳句、狂歌、川柳と続く江戸期以来の遊びと文化の蓄積を踏まえねば生み出されない。
 本日の産経抄は、財源の裏付がないのに手当をばらまく鳩山政権の姿を、若旦那が夢中になっている吉原の花魁の啖呵で締めくくった。これだけは鳩山総理の口から聞きたきゃーねー、と。
 この花魁は、若旦那だけではなく、大工の棟梁や経師屋の清さんにも、年季が空けたら夫婦になるという約束を書き付けた「起請」を渡していた。これを知って怒って問い詰める三人に対して、花魁はこう言うのだ。
「あたしたちはねえ、客をだますのが商売なんだ」

 鳩山政権のしていることは、この花魁の起請と同じだ。だから大笑いだ。
 また産経抄は、この締めに至る前に、昨日発売の「週間新潮」の記事に触れている。
 中井国家公安委員長が、「色っぽいこと」をしているところをすっぱ抜いた記事だ。そして思い出すのは、麻生内閣の時の鴻池官房副長官のことだという。その時の野党幹事長の鳩山由紀夫氏は、鴻池氏に辞任を求めたはずだ、と。
 
 実は、この記事の出る二日前の深夜、週間新潮の記者から、「中井さんと親しいとお聞きしたので」ということで、中井氏の銀座での飲み方やらの問い合わせがあった。確かに、中井さんとよく飲んだ。銀座で飲んだら、中井さんに限らず、僕も「いいこんころもち」になる、当たり前やないか、と答えた。すると、いいこんころもちになる、というところを記事にするという。「あかん」と言って断った。
 
 この中井さんは、私と同じ民社党出身だ。駆け出しは、春日一幸委員長の時。選挙資金が足りなくなって、三重から名古屋の春日さんのところに駆け込んで、資金をくださいと頼んだ。すると、春日さんは、「こら、子どもと金は自分で作れ」と言った。その春日さんも、「色っぽいこと」をよくしていた。
 春日さんのことを思い出せば、民社党が懐かしい。民社党という惜しい政党を解党してしまった。これから同じ志の愛国の政党を創らねばならない。

 さて、この週間新潮の取材を受けたのは、三月二十三日の深夜であったが、この日の午後、私は京都にいた。横浜の親しいご夫妻が、身内の結婚式で大阪に来て二十三日は、京都に泊まるという。そこで、私は、午後に時間を空けて案内することにした。
 お二人の希望は、私がかつて話した黒谷の岡本陸軍歩兵中尉の墓に参ることだった。今年の一月、私の説明したところを幾ら探しても見つけることができなかったという。
 そこで私は、この友人の体のハンディを考慮して、まず伏見の明治天皇の御陵に参り、次に麓の乃木神社に参ってから、黒谷の金戒光明寺境内の岡本中尉の墓を訪れることにした。
 岡本中尉は、第三軍に属する将校で、乃木希典軍司令官の下で旅順要塞攻撃に参加して旅順の小東溝附近において、明治三十七年八月二十日、二十六才で戦死した。
 その軍司令官であった乃木さんを祀る乃木神社には、第三軍の司令部に使われた農家が移築されて保存されている。
 そして、その乃木希典が、忠誠を誓い、その忠誠が命に勝る価値があることを殉死によって示した天皇が明治天皇である。

 我が国が甦るには、国難に立ち向かった明治の精神に学ばねばならない。明治天皇と乃木希典そして若き岡本中尉は、天皇の国の忠誠の絆で結ばれているように思う。
 この公への忠誠の絆に、日本の国体の姿と強さがある。
 黒谷の雨の中に、二十六才で戦死した
 陸軍歩兵中尉従七位勲六等功五級 岡本經忠之墓
が建ち、横にそれぞれ八十六才と八十三才まで生きた両親
 従七位 岡本經邦
  妻  岡本鶴江 之墓
が並んでいた。学生時代にこの墓に出会い、今また深い感慨に打たれる。
 岡本中尉の墓に参ってのち、会津藩士の墓に参る。
 そして、北の真如堂の本堂に初めて入った。お寺の人が丁寧に説明してくださった。真如堂の庭は借景と共に見事だった。そこで思わず白状した。
「このような見事な庭があるとは今まで知りませんでした。学生時代は、酔っぱらえば、深夜に真如堂の鐘付堂に登って、ゴーン、ゴーンと勝手に鐘をついていました。申し訳ありません」
(ついでに。我々学生寮生は、真如堂の鐘と大文字山麓の法然院の鐘も深夜につきにいっていた。法然院では、ついに小坊主さんが木刀を持って追いかけてきた。)

 この横浜の友人夫婦を午後五時に京都駅に送ってから、川端二条の「赤垣屋」に行った。八尾の同志である三宅博氏の入学祝いとニューヨーク行きの壮行会だ。若王子の憂国の絵描きご夫婦も参加した。この赤垣屋には二十才前の山岳部時代から行っている。その時は、五百円もっておれば腹一杯食べて飲めた。
 その時は主人夫婦と息子さんが働いていた。今は、その息子さんがおっさんになって頑張っている。
 学生時代は、この赤垣屋でみんなで飲んでから表の加茂川で小便する。小便しているところを加茂川に落とす。落ちた者は、自分の小便と人の小便の混じった水に顔をつける。むちゃくちゃな時代だった。
 時は去り、赤垣屋の亭主も私もおっさんになり、値段も五百円で食べ放題飲み放題とはいかなくなった。

 この三月二十三日の京都散策に加えて、昨年晩秋、若狭和朋先生の案内で訪ねた関ヶ原について述べておきたい。
 慶長五年、西暦一六〇〇年九月十五日の天下分け目の戦いである関ヶ原の合戦は、動員兵力において当時の世界陸戦史上最大規模の合戦だった。詳しく調べていないので自信がないが、欧州では、二百年後にナポレオンが出現するまで、これほどの規模の会戦はなかったのではないか。
 
 明治初期に日本に来て陸軍将校を教育したドイツ人メッケルが、参謀旅行として関ヶ原を選んだと聞いていたので一度関ヶ原を観たいと思っていた。
 メッケルは、地形と両軍の布陣を観て西軍勝利と判断したという。地図を見れば西軍有利は明らかだ。しかし、現実に関ヶ原に立ってみると、地図では分からないことが分かる。私の場合、それは徳川家康という人物であった。
 石田三成が陣を敷いた笹尾山から、家康の最後の陣地である陣場野を眺めたとき、身に染みるというか圧力として覆い被さってきたのは、徳川家康という人物の並々ならぬ胆力だった。
 私は、家康の胆力に圧倒された。身の毛がよだった。
 地形と西軍の布陣から言うならば、家康は虎の大きく開いた口の中に入ってきて陣を敷いている。三成に1・5の視力があれば、彼は家康の表情まで見たと思う。
 私は、笹尾山に立って思った。石田三成が家康本陣に向かって突撃命令を下して全軍を一挙に低地にいる家康に雪崩れ込ませておれば、どうなっていたかと。事実、後刻、島津義弘は、千五百名で家康本陣に向かって退却し、その本陣を突き抜けて烏頭坂から伊勢街道に抜けている。
 家康も当然、この地形上の不利を承知していただろう。如何に、南宮山の毛利が動かず、松尾山の小早川が寝返るはずだと分かっていても、胆力がなければここまで入り込めはしない。
 関ヶ原を制したものは、家康の胆力だと現地で思い知った。
 大阪は太閤ひいきで、家康の評価は高くない。堺の南宗寺には家康の墓がある。大阪夏の陣で家康は真田幸村に攻められて死んだというのである。堺で育った私は、自然と家康は狸親父だと思っていた。しかし、関ヶ原で、家康は野戦軍の雄として天下を獲ったのだと思い知った。
 その鍵は、自分と部下を死地に赴かす胆力である。そこに活路が開けた。

 現在、我が国家の再興がなるか否かの時。
 その成否を決するのも、政治家の胆力である。政界地図とマスコミ世界の上での有利不利の判断を越えて、少数であっても胆力を信じて、真の保守の勢力結集に乗り出すときが迫っている。
 ここに活路がある。関ヶ原の活路と同じだ。

新着記事

  • 令和1年6月25日(火)
    六月二十八日と二十九日、大阪でG20が開催される。世界の主要国G7にEUとロシアが加わり、さらにインドや中国そしてオーストラリア、韓国、ブラジル、メキシコ、インドネシア、南アフリカ、トルコ、サウジアラ…
  • 令和1年6月19日(水)
    平成二十八年八月八日、天皇陛下(今の上皇陛下)は、国民に対して譲位の御意思を表明された。その御意思に沿って同三十一年四月三十日の御譲位と翌五月一日の皇太子徳仁親王(今上陛下)の践祚がなされ、そして本年…
  • 令和1年6月7日(金)
    諸兄姉もご覧になる産経新聞の三つの論考を指摘して、現在の日本国民である我々が「内と外」の両面で直面している文明的課題と日本人に求められる決意と国策を述べたい。三つの論考とは、産経新聞の令和元年五月三十…
  • 令和1年6月4日(火)
    産経新聞は六月二日と三日の朝刊に「勇気の系譜 使命」という欄を設け、昭和二十年一月に、死を覚悟して沖縄に赴任した島田 叡(あきら)沖縄県知事の事績を紹介している。島田知事は、大阪府内政部長であったが……
  • 令和1年5月18日(土)
    丸山穂高衆議院議員が、北方領土の国後島へのビザなし交流訪問団に参加して、宿泊場所の「友好の家」で、訪問団団長の元国後島民の大塚小弥太さん(八十九歳)に、「戦争で奪われた島は戦争で取り返すしかない」とい…

アーカイブ