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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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松尾敬宇海軍中佐、二十六歳

平成22年2月20日(土)

 二月十五日、熊本の同志のお引き合わせで、山鹿市にある松尾敬宇海軍中佐の実家をお訪ねした。畑を左右に見下ろす緩やかな登りの細い道の両側には、樹齢百年を越えると思われる蕾をふくらませた梅の木が五十メートルほど植えられていた。
 その梅の垣根にかこまれた道を抜けると広場があり松尾中佐の家があった。木造の古い普通の民家だった。

 玄関でお迎えいただいた奥様は、松尾中佐とそっくりだった。中佐の姪御さんだという。
 仏前にお参りした後、私たち一行は、座敷をお借りして、松尾家の自家製漬け物で持参したお弁当を戴いた。
 床の間には、松尾中佐の母、まつ枝さんの書の軸が掛けられていた。
「君のため 散れと育てし花なれど 
    あらしのあとの庭 さびしけれ 母まつ枝 九十才」
 その庭を見ると、息子の中佐も横に立ったであろう樹齢二百年を越える紅梅や五葉松が苔の上に立っていた。
 座敷の鴨居には、異様に長い槍が三本掛けられていたが、これは松尾家が菊池の武門の家であることを示していた。
 御当主の説明によると、長男は家を継ぎ、次男は軍人として国家のために戦うのが、松尾家の伝統だと言われる。
 その槍の左側には、母のまつ枝さんが、八十三才の時に、シドニー湾を訪れたときの漢詩風の詩が達筆で書かれていた。解読していくと、勇士逝きて二十七年の後、息子の散華した湾に立った母のことが歌われている。その中段に、「母泣かず 聴者皆泣き涙を払う」とあった。
 まつ枝さんは、まことに気丈な母であったという。
昭和四十三年四月二十八日に、シドニー湾の絶壁に立ったとき、狭い湾口を見つめて
「よくもこんな狭いところを抜けてシドニー湾を襲撃したものだ。母は、心から誉めてあげますよ」
とつぶやかれたという。
 そして、ご母堂は、松尾艇が沈んだところに自宅の庭に咲いた花を献花し、菊池神社の御神酒を注いだ。
 
 キャンベラのオーストラリア戦争記念館には、十万人のオーストラリア戦没兵士の名が刻まれている。その中に、日本の特殊潜航艇乗組員の遺品が、「この勇気を見よ」と書かれる中で展示されている。その記念館の庭には松尾中佐の乗り込んだ特殊潜航艇が展示されている。案内されたご母堂は、その潜航艇を愛おしく撫でた。
 「愛艇に 四つの魂生き生きて 父を呼ぶ声母を呼ぶ声」
「わが子の霊 生きてあるらしかの艇の 
            かたへに母はおらまほしく思う」
 
 まつ枝さんのオーストラリア訪問は、オーストラリア国民に深い感銘を与え一行は国賓並みの待遇を受けた。オーストラリア人にとって、お母さん、という日本語は松尾中佐の母をさすようになったという。
 そのまつ枝さんが、オーストラリアのメディアから取材されて、「戦争は悲惨ですから二度とすべきではありませんねえ」という質問を受けた。その時、まつ枝さんは、一言もその質問に答えなかったという。同行の、菊池一族の人は私にこう解説した。
「また闘わねばならないときがくるとすれば、私は再び息子のような勇士を送り出す、それが日本という国だ、まつ枝さんは、このように答えたかったのですよ」

 松尾まつ枝さんの次男松尾敬宇は軍神と言われている。
 松尾敬宇は、大正六年七月二十一日、熊本県山鹿市に生まれた。昭和十三年九月二十七日、海軍兵学校を卒業した(六十六期)。
 昭和十六年十二月八日、真珠湾に対する第一次特別攻撃隊に指揮官付として参加した。
 昭和十七年三月、第二次特別攻撃隊編成にともないそれに参加し、昭和十七年五月三十一日16:21、特殊潜航艇艇長として都竹正雄二等海曹とともにシドニー湾に向けて母艦伊22潜水艦より出撃、翌六月一日未明05:20、シドニー湾内突入に成功して、同湾内にて散華、享年二十六才。
 死後、大尉から中佐に特進。

 松尾中佐の生まれ育った地は、鎌倉期の豪族菊池一族の領地であり、松尾家も菊池一族に入る。菊池一族は、建武年間に南朝の武将として足利と戦い「菊池千本槍」が有名である。
 松尾大尉は、第二次特別攻撃隊出撃にあたり、父松尾鶴彦に家に伝わる「菊池千本槍」を所望し、出撃直前、呉でそれを拝受し出撃していった。
 特殊潜航艇は、魚雷を二つ搭載して密かに敵艦に近づき奇襲する兵器である。しかし、開発途上であり、波で揺れる中で潜望鏡の限られた視野の中で敵艦に狙いを定めるのは容易なことではない。しかも、潮の流れ敵艦の速度等を勘案して発射角度を決めるのは、全て艦長のとっさの暗算に頼る兵器である。
 そこで、シドニー湾に入った松尾中佐は、敵艦に体当たりをして確実に沈めようとして、艇を浮上させハッチを開けて外に身を乗り出して都竹兵曹に艇の方向を指示していた。その時、菊池千本槍を手に持っていたと伝えられている。
 松尾敬宇大尉の一首
「散りぎはの 心安さよ山桜 水漬く屍と 捧げきし身は」
 また大尉は、五月二十七日、海軍記念日に遺書を書く。
「何等心に残ることもなく散る身を感謝しつつご両親様のご長命と皆様のご幸福を祈りてお別れ申しあげ候」
と結ばれているが、追伸として、同じ艇に乗り込み突入する都竹正雄兵曹のことに触れ、彼のご両親にまことに申し訳ない次第であるので、父上にはお訪ねの上よろしくお伝えくだされたく候と書き添えている。まことに、情の濃い真の武士である。

 この松尾大尉の戦いぶりを見たオーストラリア海軍は、昭和十七年六月五日、松尾艇と湾内入り口で防潜網に引っかかって自沈した中馬兼四大尉と大森兵曹の乗った中馬艇を引き上げ、四人の遺体を海軍葬を以て弔い、彼らの武勲と勇気を讃えた。
 松尾宅で、その海軍葬の録音を聞かせていただいたが、捧げ銃の号令と弔銃の発射のもとに行われた厳粛な葬儀であったことが分かった。
 海軍葬を行ったシドニー要港司令官ムーアヘッド・グールド海軍少将は、次のように述べた。
「あの鉄の棺桶のようなもので出撃するには、最高度の勇気を必要とする。・・・これらの勇士は最高の愛国者である。果たしてオーストラリア人の幾人が、この日本の勇士の千分の一の覚悟をもっているだろうか」

 なお、松尾艇(母艦、伊22潜水艦)とともに出撃した特別攻撃隊は中馬艇(母艦、伊27潜水艦)と伴艇(母艦、伊24潜水艦)の三艇である。そのうち、松尾艇と中馬艇が引き上げられたのであるが、シドニー湾に入って戦果をあげて脱出した伴艇の行方はながらく分からなかった。母艦は六月三日まで帰投を待っていた。その伴艇は、平成十八年十一月二十六日、シドニー湾沖5.6キロの地点で地元のダイバーによって発見され、十二月一日、特殊潜航艇と確認された。
 乗組員、伴勝久中尉、芦辺守一曹。

 今、二月十五日の松尾中佐の実家の情景を思い浮かべて書いてきた。軍神の実家をお訪ねしたのは初めてだった。まさに、質素で奥ゆかしい、当時のままの軍神の実家だった。
 そして、今も、日本と日本人の誇りと武勇を証しする家だった。
 歴史は、過去のある時点のことではなく、今であり、未来であり、私自身である。歴史を回復することは自分を回復することだ。

 松尾中佐の生まれ育ったところから、東に阿蘇の外輪山を越えて六十キロほど行けば、日露戦争の軍神、広瀬武夫海軍中佐(慶応四年七月十六日生、明治三十七年三月二十七日散華)の生まれ育った竹田市がある。この広瀬中佐も菊池一族の出だと聞く。
 海軍を目指した松尾中佐は、必ず広瀬中佐を敬仰していたはずだ。
 なお、現在、海上自衛隊のトップである赤星慶治海上幕僚長も菊池一族の出だ。
 彼の志の中にも、広瀬中佐と松尾中佐の両軍神の心意気が文字通り血に根ざして生きていると思う。

 松尾中佐のご実家に訪問できたご縁を与えてくれた熊本の愛国の同志と、暖かくお迎えいただき、中佐のお墓の前で、いつまでも豆粒のようになるまで手を振って我々を見送ってくれた松尾家の皆様に心からお礼申し上げます。

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