大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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「超凡破格の教育者」と呼ばれた人

平成18年10月18日(水)

 教育の再生が国民の重大関心事になり、新しい安倍内閣に於いてそれが重点課題とされた。
 教育は、一人一人の国民の人生の充実と幸せを願う作業であるとともに、国家と民族の活力ある繁栄と永続を確保する課題である。つまり、教育はまさに国家的最重要課題である。
 では、この教育は何処で行われるのか。
それは、一人一人の国民の家庭であり、家の近くの小学校の教室である。つまり、この教育という国家的課題の実践が行われる処は、我々自身と周囲、即ち、教育の「現場」は我々の身近にある。
 
 しかしながら国民は、いまだに、教育の改革や教育の再生の作業は、遙か東京の永田町や霞ヶ関の官僚機構のなかで行われるような感じがしているのではないか。
 それも無理はない。政府が改革を言うときにきまって造る組織に有識者による「審議会」というものがあるが、教育改革においても、そのメンバーには教育の「現場」に生きたことのない「有識者」や学者や一定の組織に属する人が選抜されるからである。
 
 私は何時も、何故真の現場に生きる教育者から、教育再生のための実践的叡智を集めないのかと残念でならないのだ。つまり、あの学校のあの教室で、何時も目が輝き生き生きとした子供達に囲まれていた先生が、何故審議会のメンバーにならないのか。
他の審議会はどうであれ、教育の分野こそはこの現場の先生に思い至らなければ、まさに仏造って魂入れずになってしまう。
 
 そしてこの様な思いのなかで、私は何時も、二十歳代の時にご縁をいただいた徳永康起という「超凡破格の教育者」といわれた実践人のことを思い起こす。このような方が、政府の「教育再生」の中心に座られたらなーと。

 私は、二十歳代の後半に、森信三先生のご指導を受け、森先生が「超凡破格の教育者」といわれた徳永康起先生と知り合った。
 徳永先生は、戦後三十歳代半ばで熊本県下最年少の校長になられ七年間つとめられたが、校長では真の教育が為しがたいと見極められ、自ら降格を申し出て平教員になり、八代市の大田郷小学校五年五組の五十一名の担任になられた。昭和二十八年四月のことである。
 二年間徳永先生の元で学んだこの五十一名の生徒達は、昭和三十年三月に卒業するが、直ちに恩師とともに五木会(ごぼくかい)をつくる。
 そして、卒業後十五周年の昭和四十五年に、恩師との交流を本にまとめる。この本は、「教え子みなわが師なり」と題して出版された。
 私は、昭和五十三年一月二十二日に徳永先生からこの本をいただいた。その表紙の裏に、先生は「教師ならば、当然なすべきことのホンノ一部をしたにすぎませぬ」と書かれていた。

 この「教え子みなわが師なり」の末尾に「徳永先生と五木会」を書いた植山洋一さんは、
「初めて接する師の教育は、私たちにとって異色のものであり、かつ、私たちの心をとらえ引きつけられる不思議な力をもっておられました」と回顧し、さらに、卒業後の師との「命の呼応」として顕著なのはハガキで、「私たちが師に届けるハガキよりも、師から届くハガキのほうが多かった」と言う。
さらに、植山さんは書いている。
 「私たち五組には、恵まれた家庭に育った者が少なく、学校のみならず家庭にまで及ぶ難題が多かった」
「思い出は時がたてばたつほど美しい詩となる。大田郷時代をふりかえってみますと、楽しかったこと苦しかったことのすべてが私たちの心を暖かく包んでくれます。これというのも、今日までの十七年間、師がいつも大田郷をふりかえることによって、人生いかに生きるべきかを教え励ましてくださったからに他なりません」

 教育の成果、教師の力量、とはどこで問われるのか。おもしろい授業をする、受験の為になる、という「その場」だけのことではあるまい。自分の播いた種が、十年後また三十年後の教え子達の将来にいかに開花していくかであろう。従って、森信三先生は言われる。
「教育の真の勝負は、教師がその教え子を手放してから、十五年辺から始まる」と。
 従って、「教え子みなわが師なり」の刊行は、この「教育的真理の顕著なる一実証」である。実は、これこそ真の偉業なのであるが、その根底にあるものについて、徳永先生は次のように書くだけである。
「愚鈍な私には、華やかな(終戦直後の)新教育の理論も実践も何一つ判らなかった。だが教職についた時、母がさとした、人さまの子を大事にするように、の一語は万巻の教育書以上のものであった」

 私が、出会った頃の徳永先生は、既に教職を定年退職された後であったが、容貌魁偉で胸幅が厚い縄文の偉丈夫であった。何処かで会ったことがある顔だとしきりに思った。そして、とうとう思い当たった。奈良の東大寺戒壇院にある「広目天像」にそっくりなのだ。
 私に、「教え子みなわが師なり」を贈ってくださった数年後に徳永先生は亡くなられたが、本に次のメモが挟まれていた。
「最後の、『徳永先生と五木会』を書いた植山洋一君は、母思いで実に素晴らしい生をしています。現在自衛官一尉です。そのほか、筆舌につくせぬ苦労のなかをすっくと生きてきた子が沢山います。だからこそ、教え子みなわが師なり、です」

 さて、この植山洋一さんは、自衛隊の少年工科学校に学び、回転翼(ヘリコプター)のパイロットになる。そして、大阪の八尾基地にいたこともあるので、堺市の我が家の上を飛んでいたはずだ。しかし、その頃はお互いに名前は徳永先生から聞いて知っていたが会っていなかった。しかし、後に会うことをえた時には、まさに旧知の如く懐かしかった。

 十月十五日の晩、帰宅すれば、植山さんのお母さんが亡くなられたとの知らせがあった。徳永先生が「母思い」と言ったそのご母堂である。
 私は、翌十六日午前の私の裁判「論告求刑」に出廷してから八代に行きお通夜に出席させていただき、五木会の方々や徳永先生の娘さんご一家とお会いした。
 植山さんのご母堂のお引き合わせだと思う。
 そして、八代から東京に戻って、改めて徳永康起先生を偲び、教育の本質を思い、本通信を書いた次第である。

 なお、私は、硫黄島の戦いを主導した栗林忠道中将を書いた「常に諸氏の先頭に在りー陸軍中将栗林忠道と硫黄島戦」(留守晴夫著、慧文社)を読了した処である。
 軍人においては、戦場における勇戦敢闘は何よりの名誉でなければならず栗林中将は硫黄島において実に立派にその任務を果たした。しかし帝国陸軍という組織においては、戦場における勇戦が至上の名誉として評価されることはなく、反対に、第一線に赴かせることが懲罰であるとされていた。例えば、高級将校は「言うことを聞けないならニューギニアの第一線に放り出すぞ」と部下を脅すというのである。
そして、「第一線に征くことが懲罰となるような国軍が弱体化するのは当然のこと」となった。
 つまり、軍隊という組織においても、「現場」から離れて仕事をするのが出世とされていたのである。現場即ち第一線で負ければ国全体が敗戦国となるのに、である。
 
 しかし、これはあの当時の帝国陸軍だけのことであろうか。現場から離れ、また、現場を経験しないのが「有識者」とされる教育界はどうであろうか。人事に於いて、我々日本人の現場軽視という亡国に至る錯覚もしくは宿命的弱点が、教育改革の分野においても、未だに根強く続いているように思える。
 
 真の人材を活かせるか否かに国家と民族の将来がかかっているとするならば、中将でありながら、常に諸子の先頭に在って勇戦奮闘した栗林忠道や、校長でありながら五年五組の現場に戻った徳永康起という人材に目を向けて評価する中に、我が国の改革と再生の糸口があるように思えてならない。
 
硫黄島戦のことについては、また後日触れたい。
 硫黄島に関しては、アメリカ人が一貫して強い関心を持ち、日本人は忘れているのだ。この奇妙な現象こそ、我々をおおっている戦後日本の「空気」なのである。

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