大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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今こそ、北京及び主要都市に届く核弾頭ミサイルを保持する時だ

令和4年4月25日(月)

まず冒頭に、現在(令和四年四月)進行中のロシア軍のウクライナに侵攻で始まった戦争が、
我らに与えている教訓について記しておきたい。
ウクライナはソビエト崩壊後には世界第三位の核兵器備蓄国であり
現在中共が動かしている空母も保有していた。
ところが、二十八年前のブダペスト覚書(メモランダム)によって、
ウクライナはロシアに対して核を放棄し軽軍備となる代わりに
ロシアを含む欧州安全保障協力国がウクライナの安全を保障することになった。
しかし、現在、
ロシアがウクライナに侵攻している。
仮に、ウクライナにまだ核があればロシアは侵攻しただろうか?ロシアの侵攻はない!
ウクライナの核が、ロシアの侵攻を抑止するからだ。
これが、我が国が噛みしめるべき切実な教訓だ。
しかるに、自らを顧みれば、
我が国は、ブダペストの覚書に基づくウクライナの軽武装化どころか、
そもそも武装を放棄して、
北から核を保有するロシアと北朝鮮と中共に囲まれながら
何処にも存在しない「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」すれば
平和が維持できると盲信して、ユーラシアの東の海上に寝転んでいる。
これ、異常であろう。
即ち、「日本国憲法」が異常で無効なのだ。

さて、我が国とドイツは、第二次世界大戦において、
共に一九四五年(昭和二十年)に連合国に降伏して被占領下におかれた。
そこで、共に敗戦国となって連合軍に占領された我が国とドイツ(西ドイツ)を対比した上で、
「核兵器」に関する現在の深刻な脅威の克服という課題に如何に対処するか、
その決断を述べる。
そこでまず、この課題を前にして、我が国とドイツを対比する訳は、
「戦後日本」という「特殊なビンのなか」だけの議論に入り込むのを避けねばならないからだ。
まことに我が国は、「戦後日本」から脱却した思考と胆力を以て決断しなければならない課題に直面しているのだ。
しかし、この「戦後日本というビンのなか」では、何十年議論しても空論に終わる。
いや、議論ができるならまだいい。
議論などできないで思考停止の「騒ぎ」だけが起こることを、私は経験で知っている。

平成十一年、防衛政務次官に就任した私には、
二年前に尖閣諸島の魚釣島に上陸視察しているので関心が集まった。
そして、ある週刊誌の対談で、
「集団的自衛権の行使は当然、核を持つかどうか国会で議論せないかん」と語った。
すると、翌日から、
私の居場所にマスコミが詰めかけて防衛庁庁舎内思考停止の大騒動となった。
閉口し困り果てた官房長官が、私に
「頼むから、総理に平穏に所信表明演説をさせてやってほしい」と言うので、
私は記者会見をして、防衛庁を去ると官房長官に明言した。
その後、防衛庁から
退任に際し、栄誉礼を受けるか否かの確認があり、
野党の一部から栄誉礼に反対の声が上がっていると伝えられた。
私は、軍隊に対して指揮命令権を保持する者が
夜逃げのようにこそこそ去れるかと明言し、
記者会見を済ませ、玄関前で、
銃を捧げて整列する隊員の栄誉礼をうけて防衛庁を去った。
まことに、亡国の「騒ぎ」と言わざるを得ない。
よって、この「騒ぎ」の「正体」と「対策」を、
これから書き始める本稿の最後に述べて、筆を擱(お)くことにする。

戦後長くドイツの首相を務めることになるアデナウアーは、
敗戦直後に、「ドイツは敗れたが、精神は屈していない」と明言した。
日本の戦後長く首相を務めた人物に、斯くの如き明言は無い。
ここから日独には、次の相違が生まれた。
即ち、戦後の西ドイツには、日本のような「憲法」はない。
ただ、ドイツ連邦共和国の「基本法(ボン基本法)」があるのみだ。
その理由は、ドイツ人が連合国に対して、ハーグ陸戦条約に基づいて被占領中に「ドイツの憲法」を制定することはできないと強く主張したからである。
さらに、ドイツ人は、ボン基本法に
「占領中に制定された法律は、占領解除後は無効とする。」という一項を入れた。
この一項は、アデナウアーのあっぱれな明言通り、
独立を回復した後に、精神は屈していないドイツ国民が、
自由な意思によって国家の基本的事項を決定するという強烈な意思表示である。

このドイツに対して我が国は、我が国を占領統治しているマッカーサー元帥を頭目とする
GHQ(連合国最高司令官総司令部)の民政局職員が、
昭和二十一年二月に書いて、
同年の明治天皇の御誕生日である十一月三日に公布し、
次ぎに、日本を裁いている極東国際軍事裁判(東京雄裁判)の開廷一周年記念の日にあたる
昭和二十二年五月三日に施行した「日本国憲法」を、
あたかもマッカーサーに与えられた「不磨の大典」の如き「日本の憲法」と
思い込んで今日に至っている。
GHQが、この「日本国憲法」を書いた目的は、
日本が二度と再び強国にならないように「ビンに入れて蓋をしておく」ためだ。
このドイツと日本の違いは、
何度も敗戦と被占領を経験したドイツ人と、
初めての敗戦に直面した日本人との差からもたらされた。

とはいえ、この日本とドイツが、ともに被占領状態から脱して独立国となってから、
奇妙なことに同じ年に同じような事態に遭遇し、その度に、両国の違いが際立った。
そこで、まず、同じような事態に対する日本とドイツの対応の差を見ることにする。
そうすれば、脱却すべき「戦後日本」の中身が見える。
それは一九七二年(昭和四十七年)と一九七七年(昭和五十二年)のことだ。

まず一九七二年二月、日本では、一丁の猟銃を持っただけの赤軍派によるあさま山荘事件があり、
警官二名が殉職し民間人一名が射殺された。
そして、同年五月、西ドイツで開催されたミュンヘンオリンピックで、
パレスチナ武装組織の「黒い九月(ブラック・セプテンバー)」が選手村を襲い、
イスラエルの選手とコーチ十一名を殺害した。
この日本とドイツの両事件には、
両国ともに警察力で対処しようとしたが、
テロリストを速やかに制圧できずに長期化し、被害が拡大した。
そこで、西ドイツは同年九月に、
軍隊にテロ対策専門の特殊部隊である国境警備軍(GSG9)を創設する。
しかし、我が国がテロ対策専門の特殊部隊を自衛隊に創設するのは、
遙か三十二年後。二〇〇四年(平成十六年)の特殊作戦群創設まで待つことになる。

さらに、このミュンヘン事件で自国民十一人を殺害されたイスラエルの対処を観ておかねばならない。
この時のイスラエル首相は、イスラエル建国闘争の女老闘士ゴルダ・メイヤであった。
彼女は、直ちに「神の怒り作戦」を発動し、
パレスチナキャンプを空爆して二百名ほどのパレスチナ人を殺害し、
モサド(諜報特務庁)に、ブラック・セプテンバーの「絶滅」を命じた。
後にイスラエル首相となるエフード・バラックは、
特殊部隊を指揮してベイルートに潜むテロリストを殺害する特攻作戦を遂行した。
モサドは、欧州全域に散らばって潜むブラック・セプテンバーのメンバーを次々に突き止めて殺害し、
五年後の一九七九年に、遂に頭目であったサラメを殺害した。
この時、ゴルダ・メイヤは既に亡くなっていたが、
彼女が示した、テロを実施した犯人を地球の果てまで追いかけて必ず復讐する
というイスラエルの厳とした姿勢によって、
以後、ユダヤ人を標的にした国際テロは起こっていない。
このこと、テロ対策の鉄則であるから記憶し、実践しなければならない。
ところが、
二〇一三年(平成二十五年)一月十六日、
アルジェリアのイナメナスにある石油関連施設が、イスラム過激派勢力に襲撃され、
日本人石油技術者十名が殺害された。
その数日後に、我が国の国会では、総理大臣の所信表明演説が予定されていた。
私は、安倍総理が、所信表明において、
イスラエルのゴルダ・メイヤの如く怒り、復讐を誓えば、
海外にいる多くの日本人に対するテロが抑止され安全が確保されると期待した。
しかし、総理からは被害者への追悼とテロへの怒りの表明だけで、
復讐するとの言は無かった。

次ぎに、一九七七年九月から十月の間に、
日本では日本赤軍による日航機ダッカハイジャック事件、
西ドイツではパレスチナ解放人民戦線によるルフトハンザ機ハイジャック事件が起こる。
我が国の福田赳夫首相は、
「超法規的措置」としてバングラディシュのダッカに着陸している犯人の要求を総て飲んで、
十月一日、服役もしくは勾留中の過激派の面々と身代金六百万ドルを犯人に引渡して人質全員を解放してもらった。
これに対して、西ドイツのヘルムート・シュミット首相は、
犯人の要求に一切応じることなく、十月十八日、GSG9をルフトハンザ機が着陸しているソマリアのモガジシオに送り込んで機内に突入させ、犯人三人を射殺し、一人を逮捕して、人質全員の救出に成功した。

なお、この福田首相の決断は、「超法規的措置」ではなく、
西ドイツのシュミット首相とは、決断の内容は正反対であるが、
同じ「超法律的な法規的措置」である。
その法規的根拠は、憲法にある「行政権は内閣に属する」だ。
そもそもアメリカの大統領やロシアの大統領は、
「行政権は大統領に属する」と「大統領は軍隊の最高指揮官である」という二つの原則によって、
軍隊にオサマ・ビン・ラーディンを殺害させたり、
ウクライナに侵攻したりしている。法律をつくってやっているのではない。
ドイツや日本の総理大臣も、この大統領と同様の権限をもっている。

伝聞であるが、日本政府は、
日本とは正反対のGSG9によるハイジャック犯人射殺という行動に驚愕したのか、
西ドイツ政府に対し、シュミット首相が、GSG9をルフトハンザ機内に突入させて犯人を射殺する命令を発した法的根拠を問い合わせたという。
西ドイツ政府からの回答は、「GSG9をモガジシオに着陸しているルフトハンザ機に突入させてはいけないという法律がないのでした。」であった。
これが軍隊を動かす原則(ネガリスト)の表明であり、西ドイツ政府の回答は簡潔で正しい。
即ち、軍隊は、「法律が明確に禁じたこと以外は総てできる」というネガリストの原則で動く。
これに対して、警察は、「法律に書かれていること」はできるが、書かれていないことはできないというポジリストの原則で動く。
このこと、テロ対処において明確に認識していなければならない。
以上の通り、「戦後日本」と「西ドイツ」の戦後における出発点の違いから、
両国間には、テロ対処において目に見える明らかな行動の相違があった。
だが、次ぎに述べる「核の脅威」への対処こそ、
目に見えない最大の相違である。
それが目に見えなかった理由は、
我が国の政治と言論界が、遠いヨーロッパのことは無関係と無視したからだ。
我が国の福田赳夫首相をはじめとする政界と言論界は、
ソビエトの核の脅威を見れども見えず、不作為を決め込んだのだ。
しかし、実は、当時、我が国も西ドイツと同様にソビエトの核の脅威に晒されていた。
ソビエトのSS20は、同国内の四十八箇所の基地に配備されていたが、
その三分の一の十六基地にはSS20がアジア・アラスカに向けて実戦配備されていたのだ。
そして四十五年後の現在、我が国は、ロシアの核の脅威に加えて、
さらに急速に増大した中共の核の脅威と北朝鮮の核の脅威にさらされている。
そこで、
この核の脅威から、国家と国民を如何にして守るかという死活的に重要な課題に対して、
西ドイツのヘルムート・シュミット首相が、一九七七年十月から開始した実践と、
その時起こったヨーロッパにおける反核運動の実態と黒幕を記す。
ソマリアのモガジシオで、GSG9にルフトハンザ機ハイジャック犯人を射殺させた十日後の
十月二十八日、シュミット首相は、ロンドンで開催された国際戦略研究所主催の講演会で演説し、
ソビエトが実戦配備した中距離核弾頭ミサイルSS20の脅威に対する最初の警告を発した。
SS20の実戦配備開始は一九七七年であるが、
シュミット首相は、その開発段階からSS20に注目していた。
SS20は、ヨーロッパの総ての都市に届くが、
当時のNATO西ヨーロッパ諸国のミサイルは、モスクワに届かない
旧式のオネストジョンやナイキハーキュリーズであったからだ。
従って、ソビエトが配備したSS20とバックファイヤー爆撃機の総核戦力は、
西ヨーロッパを圧倒するに至っていた。
よって、シュミット首相はロンドンで次のように演説する。
①政治的、軍事的バランスは、われわれの安全保障にとって死活的に重要である。
バランスを重視しないでよいというのは幻想に過ぎない。
②バランスの維持は、われわれの安全保障の必要条件であるだけでなく、
東西デタントに実りある進歩をもたらすためにも必要である。
③われわれが認めねばならないことは、厄介な兵器競争と効果的な軍備管理との間には、
あまり差がないというパラドックスである。
このシュミット首相のロンドンでの演説を起点として、アメリカとNATOは、
二年後の十二月、ソビエトとの戦略ミサイル制限交渉を進めると同時に、
SS20に対抗できるモスクワに届く中距離核弾道ミサイルパーシングⅡを配備するという
「NATOの二重の決定」をする。
その上で、米ソのINF交渉が開始されるが、
同時に、軍事的バランスの回復のためにアメリカは西ドイツにモスクワに届く命中精度の高いパーシングⅡを配備する。
このようにして、東西の軍事バランスが回復された四年後の一九八七年十二月に、
アメリカのレーガン大統領とソ連のゴルバチョフはINF条約(中距離核戦力全廃条約)に署名し、
米ソのSS20やパーシングⅡという中距離核弾頭ミサイルは廃棄された。ヨーロッパにおいてはシュミット首相のシナリオ通りになったのだ。
しかし、アジアにおいて、米ソのINF条約に拘束されない中共の、
自由で急速な各種の核弾頭ミサイルを中心とする軍備増強という事態と、
ソ連崩壊によるNATOのバルカン諸国への拡大のなかで、
二〇〇〇年に入ると、ロシアは中距離核弾頭ミサイルの開発を再開し、
遂に二〇一九年には米ロ共にINF条約の廃棄に至る。
斯くして現在、事態は振り出しに戻り、NATOの拡大を阻止する為と称して、二〇二二年二月にウクライナに侵攻したロシアのプーチン大統領は、SS20を保有していたソビエト時代と同様に、NATO諸国の都市を核で破壊できると恫喝するに至っている。

そこで、このユーラシアの西の事態を、
東の我が日本は如何に見てきたのかを自省した上で、
我が国自身が主体的にユーラシアの東の東アジアにおけるデタント実現のための実践を開始しなければならないと断言する。
自省すべきは、既に記したように、四十五年前の一九七七年において、ソビエトのSS20は、同国内の十六箇所の基地においてアジア・アラスカに向けて実戦配備されていたのだから、
我が国の福田首相も、日航機ダッカハイジャック事件直後、
ロンドンで演説したシュミット首相のように、「軍事バランスの回復」と「デタントの開始」を宣言しなければならなかった。
ところが、我が国は、目を瞑(つむ)れば世界は無くなると思う痴呆のように
この四十五年間を無為に過ごした。
しかし、我々は、まだ、目を開ければ見えるではないか。
よって、結論だけを言う。
現在の東アジアにおける、軍事的バランスの回復は、
安全保障を確保する為にも軍縮を進める為にも死活的に重要である。
従って、かつてヨーロッパにおいて、ソビエトのSS20に対抗してモスクワに届くアメリカのパーシングⅡを西ドイツに実戦配備したように、
我が国の総理は、中共の北京を含む主要都市に届く核弾頭ミサイルを、
アメリカから導入して実戦配備することによって、総理としての責務を全うしなければならない。
我が総理の決断すべきことは、単純明快、この一点である。
最近、安倍晋三元総理が、
アメリカの核を共同運用するニュークリア・シェアリングの議論を提起した。
我が意を得たりと、深く、賛同する。
とはいえ、史上最長期の政権の総理であったのだから、
何故、その現職の時に、その実践に踏み出されなかったのか。
もちろん、核導入を提唱し、それを実現しようとすれば、激しい反対運動が起こる。
昭和三十五年(一九六〇年)に岸信介総理が、日米安保条約継続を決断したときに起こった
「安保反対闘争」の規模を上まわる反対運動が起こるだろう。
しかし、反対運動のために岸総理が決断を翻しておれば、今の日本はあったであろうか。
同様に、今、核導入反対闘争に怯むならば、明日の日本はないのだ。

そこで、西ドイツのシュミット首相がパーシングⅡを導入したときの、反対運動の状況と
シュミット首相の対応を観ることにする。
その時、激しい大規模な平和を唱える核反対運動がヨーロッパ各所で巻き起こった。
しかし、ソビエト崩壊後に公開されたクレムリン秘密文書で、
そのパーシングⅡ核ミサイル導入阻止を目的とする「平和運動」は、
ソビエトが工作活動によって仕組んでいたことが判明している。
従って、スパイ防止法のない「スパイ天国」の我が国では、
確実に、中共と北朝鮮の巧妙で執拗な大規模な工作活動によって、
さらに強力な反対運動が巻き起こるだろう。
しかし、我が国の総理大臣たる者は、
国家と国民の安泰のために、
この工作活動に煽られた騒ぎに打ち勝たねばならない。
シュミット首相は、ドイツ国民を信じて問うた。
「赤になるより死ぬほうがまし」か「死ぬより赤になるのがまし」か、いずれか決めて欲しい、と。
我が国の総理も、日本国民を信じて、
「中国共産党の支配下で生きるより死ぬほうがまし」か
「死ぬより中国共産党の支配下で生きるほうがまし」か、
いずれか決めて欲しいと問うべきである。
また、感情的な騒動(ヒステリー)がいかに大きくとも、
国家と国民の命を守る為の決断であるのだから、へこたれてはならない。
経験したことを言うが、その騒ぎを平然と眺めながら、
「君たちは近い将来、なぜ騒いでいたのか分からなくなるだろう」
と言って、断固として任務を遂行すればよいのだ。

(本稿、月刊誌「正論」5月号掲載論文に加筆したもの)

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