大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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安倍・プーチン会談は幻想だ、ロシアの本質を観よ!

令和3年7月15日(木)

ロシアのバルチック艦隊を対馬沖で迎撃し殲滅した
1905年5月27日の日本海海戦から百周年に当たる2005年以来、
毎年5月27日に対馬を訪れていたが、
武漢ウイルス蔓延により、ここ二年間、5月27日に対馬を訪れていない。
しかし、本年は秋に、対馬に渡れることになりそうだ。
そこで、改めて、
主にロシアの東方侵攻の歴史を振り返り、
我が国における対馬の重要性を確認したい。

二百四十年間にわたるタタール・モンゴルの支配の頸城を脱してから
モスクワ公国という小さな国において、十六世紀後半に始まり、
今も続くロシアの飽くことなき「東方への拡大衝動」を知ることは
現在において、死活的に重要である。

まず、ボストークというロシア語の意味は「東方」である。
ロシア(ソ連)は、この「東方」を
「ウラジオストーク(東方を世服せよ)」という都市の名前とし
人類最初の有人宇宙飛行を成し遂げた宇宙船「ボストーク1」の名前にし、
毎年、シベリア、極東そして国後・択捉で行う大規模軍事演習の名を
「ボストーク」にしている。
さらに、
プーチン大統領が命じて作らせた「ロシア国歌」の次の歌詞を見られたい。

「ロシア、我らが聖なる帝国・・・
南の大海原から北極圏まで至る 我らの森林に原野 
世界で唯一無二の存在 神が護りし祖国よ!」

そこで、この「南の大海原」は、一体、ロシアの何処にあるのか?
ウラジオストークの沖は凍結する海であり南ではない。
しかし、
対馬の南には太平洋に至る大海原が広がっている。
プーチンの「ロシア国歌」は、
ロシアという「聖なる帝国」の領土は、
「日本の対馬の南の太平洋から北極圏に至るまで」
だと歌っているのだ。

ここで、
新井弘一著「モスクワ・ベルリン・東京」(時事通信社刊)を参照して、
ロシアのおかれたユーラシアの「風土」と
十三世紀から十五世紀に及ぶ二百四十年間にわたる
タタール・モンゴルの支配を受けたロシアの特殊性を指摘したい。
新井弘一氏は、外務省東欧第一課長として
礼服を着た戦闘であった田中・ブレジネフ会談を演出し、
ソビエト側が言う「日ソの未解決の問題」の中に、
「国後・択捉・歯舞・色丹の四つの島」が入っているかに関し、
ブレジネフを追い詰め、
「ダー」(そうだ)と答えさせた立役者だ。
この田中・ブレジネフ会談を観て、
シンゾー・ウラジーミルと言い合って親密をアピールしながら
何度も会っていた安倍・プーチン会談を振り返れば、
我が外交力の劣化甚だしいものを感じる。
その後、新井氏は、
東ドイツ大使として、ベルリンの壁の崩壊を見届けたられた。
その時、プーチンは
KGB(ソ連国家保安委員会=諜報組織、秘密警察)の幹部として東ドイツに駐留していて、
1968年の「プラハの春」の時と同様に
ベルリンをソ連の戦車で溢れさせようとしていた。

さて、ロシアの風土は、限りない平原と森林である。
ウラルの西には四百六十㍍以上の山はなく、遮るもののない平原だ。
モンゴルは、東から、この草原を疾走してロシアと東ヨーロッパを征服した。
このような平原国家の特徴は、
数千年の騎馬民族の興亡で明らかないように、
勢力範囲が不安定で国境が定まらないということだ。
従って、草原の国家には、
巨大な軍事力と強力な政府が求められることになる。
「人民支配の政治形態は、小国で、
安全保障上の恐れのない国々でのみ存在することができる。
しかし、大国で、
隣国の侵略から安全でない国は、
専制的支配者なくして存在し、統一を保つことはできない。」
これは、十八世紀の歴史家V・N・タチシチェフの言葉だが、
ロシアの政治の本質を指摘したものだ。
即ち、
「独裁者なきロシアなど、あろうか!」
ということだ。
また、
ロシアがギリシャ正教を受け入れたことと、
近世に至る二百四十年間、タタール・モンゴルに支配されていたことは
ロシアが、ヨーロッパ文明の主流から疎外されたことを意味し、
ロシアには近代化を生みだしたルネッサンスも宗教改革もなかった。
従って、ロシアは、
支配者であった専制軍事国家であるタタール・モンゴルが去っても、
タタール・モンゴルの統治方式をそのまま採用した
ロシアという専制軍事国家になった。
即ち、ロシアとは、
「ルーシーという白い皮を被ったタタール」なのだ。
その上で、新井弘一氏は、次のように述べられる。
「この地政学的、歴史的要因を背景に、
ロシアでは、安全保障上の不安感と、
強力な中央集権的国家の要請という
二つの心理的状況が生まれ、
これが綾をなして独特の安全保障観が形成された。
すなわち、
百パーセントの安全では満足できず、
それ以上の安全を求めて空間を拡大するという発想である。」
このロシアの、
東方に軍事的拡大運動を続けなければ不安だという異常な発想が
近現代に我が日本において現れ、また現れ得たのは、
樺太と対馬だ。
十七世紀以来、アムール川東岸の沿海州獲得を目指していたロシアが、
沿海州を確保する為に、
海峡を隔てた東にある樺太に侵攻したのはその現れである。
仮にロシアが北の沿海州ではなく、
一気に南の朝鮮の獲得を目指していたら、
ロシアは、
樺太ではなく対馬に侵攻してきたであろう。

ここで、改めて、
ロシアの東方進出の歴史を振り返ってみる。
まず二百四十年のタタール支配から脱却した
イワン4世(雷帝、1533~84年)はシベリア征服事業を始める。
シベリアにいる黒テン(走るダイヤ)の毛皮貿易による利潤が目的であった。
次にロシアは、
シベリアの南のアムール川流域の沿海州に進出するが
清国と衝突して、ネルチンスク条約(1689年)で撤退する。
そして、南下を断念したロシアは、
シベリアから北東のカムチャッカ、アラスカへ向かう。
このカムチャッカ、アラスカに向かう尖兵は
アトラーソフというコザックの首領だった。
しかし、強欲なロシアの一隊は、
次の通り、
カムチャッカから南下して日本と出会う。
1711年、ロシア探検隊はカムチャッカから千島列島を南下、
ウルップ以北に進出を開始して日本と接触する。
1792年、大黒屋光太夫送還名目で、ラクスマンが根室に来航
1804年、レザノフ、長崎に来航して通商を求め、
拒絶されると、樺太や択捉の日本の番所を襲撃
1807年、幕府、北海道と樺太を幕府直轄地に。
1808年、間宮林蔵樺太調査
以降、ロシアは欧州のナポレオン戦役に忙殺され、東方における行動は沈静する。
しかし、
1842年のアヘン戦争を転機としてロシアは東方に戻る。
つまり、アヘン戦争に勝利したイギリスが
南から東アジア進出を開始したのを見たロシアは、
イギリスの沿海州進出を阻止する為に北からの行動を開始する。
1853年、ロシアはアムール川流域進出に不可欠な樺太に侵攻して
日本の番屋を破壊して砲台を築く。

1853年7月ペリー浦賀に来航、8月ロシアのプチャーチン長崎に来航

1855年、日露通好条約、
択捉以南は日本、樺太は日露雑居地と取り決める。
日本全権川路聖謨の主張、「蝦夷、千島、カムチャッカ、樺太は日本領土」
1860年 ロシア、清国との北京条約で沿海州を獲得
ここにおいてロシアは、
西はバルト海から東は太平洋に至るユーラシアの帝国となる
1861年、ロシア軍艦ポザトニック号、対馬淺生湾芋崎に侵入し六ヶ月居座る
1875年、千島・樺太交換条約=日本外交の決定的敗北
ここにおいて、日本は、十七世紀以来の日本領土を放棄し、
二十年前に、ならず者が侵攻してきたにすぎない樺太をロシアに与える
1905年、日露ポーツマス条約により樺太南半分が日本に戻る。

1945年8月9日、ソ連、日本に宣戦布告
同 8月14日、日本、ポツダム宣言受諾
同 8月15日、天皇、大陸命及び大海令を以て、陸海軍に積極侵攻作戦中止を命じられる。
同 8月18日、ソ連軍、千島北端の占守島侵攻開始
以後、ソ連軍は、以下の通り、樺太と千島列島を攻撃し南下を続ける。
同 8月25日、ソ連軍、樺太の真岡、豊原そして大泊を攻略
同 8月28日、ソ連軍、択捉島攻略
同 9月1日、ソ連軍、国後島及び色丹島を攻略
同 9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ号甲板にて日本と連合国との降伏文書調印
同 9月5日、ソ連軍、歯舞諸島攻略
なお、この時、
スターリンは、北海道の西端の留萌と東端の釧路を結ぶ線を
「北海道分割線」と想定して、
この線までのソ連軍侵攻を目指していた。
之を阻止し得たのは、
ポツダム宣言受諾後に、
占守島に対して侵攻してきたソ連軍に対して、
断固抗戦を命令した
樋口希一郎第五方面軍司令官兼北部軍管区司令官の決断のお陰である。
この樋口希一郎司令官の命令は、断固たる自衛戦闘命令であり、
天皇の、積極侵攻作戦中止を命じられた大陸命に反してはいない。

なお、幕末に共にロシアの侵攻を受けたのは、
北の樺太と南の対馬であるが、
前記の通り、樺太は遂にロシアに飲み込まれた。
しかし、対馬は我が国に確保されている。
この対馬確保には、北の樺太での無念さを忘れず、
対馬防衛体制を整え続けた明治から続く努力があったことを忘れてはならない。
明治政府は、
ペリー艦隊の浦賀からの東京湾侵入を忘れず、
維新後は先ず第一に東京湾要塞化に着手した。
そして、
二番目に要塞化に着手したのが対馬である。
明治政府は明治二十一年に対馬に四つの砲台を完成させ、
日清戦争後は、さらに八台の砲台を完成させて日露戦争に臨んだ。
日露戦争後には対馬の北端に40センチカノン砲を備える豊砲台を初め
十三基の砲台を新たに築き、対馬における砲台・堡塁は合計二十五基となった。
つまり、我が国は、
対馬を要塞の島にし、この要塞群が日本を守ったのだ。
対馬の、この砲台群を巡るとき、
明治維新以降の日本の防衛努力に敬意を表し感慨深いものがある。
なお、現在、対馬の砲台跡は観光地になっている。
そして、その観光地に建てられて対馬市の説明文を見れば愕然とする。
その説明文には、
対馬の巨大砲台からは一発の砲弾も撃たれていない。
だから、この巨大砲台は無駄だった、と書いてある。
馬鹿は休み休み言え、
この砲台があるから敵が来なかったのだ。
銀行の金庫は巨大で頑丈だ。よって、泥棒にカネを奪われたことはなかった。
この時、だから金庫か必要なかったという馬鹿が何処におる。

以上が、
ロシアの東進と我が国との関わりの概観である。
戦後の「平和憲法という思考空間」の中で仕事をするのが「現在の外交」であるから
改めて振り返ってみた次第だ。
特に、「シンゾー・ウラジーミル」の安倍内閣時代のことを思えば、
あれは「少女歌劇」であったのかと思うよ。
そして、この「少女歌劇」に付き合っていたプーチンという男、
さすが、KGB出身者だと思う。
そこで、この「シンゾー・ウラジーミル」の時に、
プーチンが言ったことの中で、
さすが、「ロシアだ」
と、思ったことを指摘しておきたい。
それは、プーチンの
沿海州と樺太の間、そして、樺太から稚内の間に
日本の技術で海底トンネルを造ろうという提案だ。
これは即ち、「ロシアと日本を陸路で結ぶ」ということで、
草原の国であるロシアの願望であろう。
船に乗せずに戦車を運べる、というわけだ。
従って、ロシアの癖を思えば、
危険極まりない。
同時期、プーチンは、韓国の仁川を訪れ、
日露戦争において日本海軍が仁川沖において最初に撃沈した
ロシアの軍艦ワリヤークとコレーツの戦没将兵の慰霊碑に花を供えた。
そして、韓国とロシアは、
日本軍国主義による犠牲者を出した悲しみを共有している
という趣旨の演説をした。
そして、この頃から、
対馬と韓国の釜山の間に
海底トンネルを造ったらどうかという声が半島から聞こえてきた。
これ、プーチンが韓国に吹き込んだ平原国家の発想だ。
これも、断じてダメだ。
大陸・半島から陸路で続々と入られたらたまったものではない。

前にも記したように、
1860年、北京条約によって沿海州を手に入れたロシアは、
初めて太平洋を観た。
その時、海に向かって両手を広げた巨大な熊(ロシア)が、
左手で樺太を、右手で対馬を、掴もうとした。
そして、樺太は、
1855年の日露通好条約によって「日露雑居地」とされ、
十二年後の千島樺太交換条約によって完全にロシアの手に落ちた。
これに対して、対馬は、
1861年にロシアの軍艦ポザトニック号が対馬の淺生湾の芋崎に停泊して、
陸に兵舎を造り半年も居座ったが、
咸臨丸で帰朝した直後の外国奉行小栗上野介の外交努力などによって
ポザトニック号を退去させることができた。
しかし、ロシア軍は、その六ヶ月の不法占拠中に、
対馬の地形を調査して、白嶽に「驢馬の耳」という名もつけている。
この間、ロシア側は、対馬藩の二人の藩士を殺害し、
食料や水の提供にとどまらず女の提供まで要求している。
そして、四十四年後の1905年5月27日、
ロシアのバルチック艦隊は、
明確にツシマを目指して日本に襲来してきた。
従って、この海戦を日本では「日本海海戦」と呼ぶが、
ロシアでは「ツシマ沖海戦」という。
この海戦でロシアの戦艦オリョールに乗り込んでいた水兵のノビコフ・プリボイは、
革命後、この海戦の記録である
「ツシマ」(バルチック艦隊の潰滅)という本を書いて第一回スターリン賞を受けている。
その本の末尾は次のように締めくくられている。
「ツシマ島。樹木に覆われ、暗礁や断崖絶壁で隈どられた対馬は、
左舷のほうに取り残された。
が、その姿は渦巻いている濃霧のために見えなかった。
ただここで演じられた悲劇の無言の証人になる、
この起伏の多い奇妙な島を、心の内に想像し描くだけだった。
この島には水先案内人が『驢馬の耳』と呼んでいる尖った裸の岩が、
二つに分かれて空高くそそり立っていた。
『驢馬の耳』を持ったこの島は、
今よりツァール政府、
暗黒と無言の政権の不名誉を永劫に記念する記念碑となるであろう。」

以上、対馬に関してロシアを語ったが、
対馬は朝鮮半島に面した島であるから、
もちろん、朝鮮と中国についても語ることが多い。
後に語る機会がある。

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