大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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東日本大震災が世界に示した日本と日本人

令和3年3月10日(水)

本年の三月十一日は、東日本大震災から十年にあたる。
平成二十三年(2011年)三月十一日午後二時四十八分十八秒、
男鹿半島東南沖百三十キロの海底を震源地とする
マグニチュード9、最大震度7の大地震が発生し、
最大遡上高41・1mの巨大な津波を生み出した。
そして、この大地震と巨大津波は
福島第一原発のメルトダウン(炉心溶融)という世界的大事故とともに、
我が国の東北地方に未曾有の惨害をもたらした。
従って、それから十年を経た今、
連日、テレビ等のマスコミで、
この未曾有の惨害の情景が繰り返し放映されている。
そこで、私も、
戦後体制下のマスコミでは取り上げられない観点から、
まことに重要なこと、
この大災害の時の「日本と日本人」のことを記しておく。

まず第一に、
この大災害の危機のなかで、
天皇陛下は、
明らかに我が国の
高貴なる権威であり統治者であられた!
天皇陛下の、
国民へのお言葉、
そして、被災地への行幸啓によって、
被災地の国民は、奮い立ち助け合い頑張ることができた。
このように、
国民が一つの家族であることを実感させる統治者を戴く国が、
世界のどこにあろうか。
天皇陛下の三月十六日の「お言葉」から
次の二節を記しておく。
「何にもまして、この大災害を生き抜き、
被災者としての自らを励ましつつ、
これからの日々を生き抜こうとしている人々の雄々しさに、
深く胸を打たれています。」
「自衛隊、警察、消防、海保の皆さんの、
余震が続く危険な状態の中で、
日夜救援活動を進めている努力に感謝し、
その労を深くねぎらいたく思います。」
その上で、
天皇陛下は、
各国の元首から陛下に送られてきたお見舞いの電報を
国民に宛てられた励ましとして紹介された。
則ち、各国の元首は、
天皇を我が国の元首としているのだ。
その通り、
天皇は我が国の統治者であり元首であられる。

第二に、
この大災害において、
全生存者救出数の七割に当たる約二万人を救出するという
圧倒的な働きをした陸海空十万七千の自衛隊部隊は、
「天皇の部隊(軍隊)」
であった。
自衛隊は、被災者救出の為に、発足以来最大規模となる
陸海空十万七千人を動員して救出部隊を編成し、
動員期間二百九十一日、延べ一千六十六万人という空前の活動を展開し、
前記の通りの人命救助の成果を挙げ被災地復興に貢献した。
その活動中に、
被災地激励とお見舞の為に自衛隊機で松島基地に降り立たれた
天皇陛下に対し、
自衛隊十万七千の救出部隊の長である君塚栄治陸将は、
鉄兜に野戦服の姿で正対して敬礼した。
則ち、
この十万七千の救援部隊は
「天皇の部隊」
であった。

以上、第一と第二から確認すべきことは、
この大災害という危機において
我が国の國體が顕現していた!
則ち、
我が国は「天皇のしらす國」である。

第三に、
自衛隊は、総理大臣菅直人の命令で出動したのではない、
東京の自衛隊の中枢では
防衛省庁舎十一階で地震の揺れに遭遇した火箱芳文陸上幕僚長が、
その瞬間、「これは戦(いくさ)だ!」と直感し、
その場にいた折木良一統合幕僚長に「部隊を集めます」と宣言し、
直ちに「戦闘序列」を決定して、
「全自衛隊、すぐに飛び出せ」と号令を発した。
また、被災地のど真ん中の多賀城では、
多賀城駐屯の陸自第二十二連隊の國友昭連隊長が、
射撃訓練場からの帰隊途中に強い揺れを感じた直後、
車両の中から上級司令部である第六師団に電話して
師団長に一言、
「出します」と告げ、
師団長の打ち返すような「よし、出せ」という返答を受けて
二十二連隊総員九百名は直ちに救出活動に突入した。
そして、二十二連隊の九百名は、
四千七百七十五人を救出した。
十万七千人の救出部隊が救助した総数は約二万人であるが
二十二連隊は九百名で、
その約四分の一にあたる四千七百七十五人を救出したのだ。
初動が如何に大切か。
自身も家族も被災者である多賀城駐屯の二十二連隊九百名は、
身を以てこの「戦訓」を示した。
次は、隊員を家族のもとに帰らせずに
救出活動に没頭させた國友昭連隊長が
常に所持していた隊員の手記である。
・・・      ・・・      ・・・
私の妻も息子を救助に向かう途中で津波に襲われ、
車両もろとも流されました。
その状況を私が知ったのは更にその後、30分後でした。
まだその時、細部任務を付与されていた訳ではなく、
携帯で連絡をとれた時の妻の「助けて・・・」という
寒さと恐怖が入り交じった震え上がった
心のそこからの悲痛の叫びを聞いた瞬間、
私の中で迷いというか、このまま部隊を出て、
1分1秒でも早く妻の處へ飛んでいきたいと思いました。
そしてその心の苦痛から答えを探していた時、
再度妻から連絡があり
「大丈夫だから、他の人を助けてあげて」。
その言葉に我に返りました。
そこからはもう迷いはありませんでした。
最後に、今まで陰ながら支えてくれていた妻と息子に、
お礼を言いたいと思います。本当にありがとう。
・・・     ・・・     ・・・
このように、自衛隊は
内閣総理大臣や県知事の命令や要請に基づいて出動したのではない。
地震を感じたと同時に、
自衛隊は陸幕長の命令で出動したのだ。
仮に自衛隊が彼らの命令や要請を待っていたならば、
十六年前の
村山富市総理大臣の命令を待って時機を失した
阪神淡路大震災の時と同じ結果になり、
多くの助かる人々を死なすことになっただろう。
阪神淡路大震災における自衛隊の救出者は
百六十五人で全救出者数の三%に過ぎない。
そして、
この村山富市と菅直人の二人は、
左翼で無能であることにおいて同程度である。
よって、まことに、
「アホな大将、敵より恐い」
とは切実な真理であり、
アホに任せなかった
折木良一統幕長と火箱芳文陸幕長の決断は
多くの国民の命を救った。
まことにあっぱれな、
賞賛すべき統幕長と陸幕長である。
また、海上自衛隊は、
地震発生から六分後に、
史上初めての「全可動艦艇出航」という命令を発した。
則ち、動ける艦艇は総て被災地に近い三陸沖に向かえという命令だ。
ドックに入っていた船も予定を切り上げて出航した。
訓練の為に海外にいた護衛艦も反転して三陸沖に向かった。
これを観たアメリカ海軍の幹部は、
「これほど迅速に全艦艇を出せる海自の能力は世界一だ」
と自衛隊幹部に言った。
以上の参考文献、
火箱芳文著「即動必遂」、
龍野隆浩著「ドキュメント自衛隊と東日本大震災」

なお、
我が国の議員どもと官僚組織は、
シビリアン・コントロールという概念を悪用誤用し、
おのれ達が、
自衛隊の箸の上げ下げまで監視して指示をだすのが
シビリアン・コントロールだとしているので言っておく。
シビリアン・コントロールとは、
軍隊を動員して他国と戦争をするか否かの決定は、
国民に対して最高の政治的責任を負う
内閣総理大臣(日本)か大統領(アメリカ)の専権事項であるということだ。
つまり、
軍に国家の運命を委ねるか否かの決定は総理と大統領がするということ。
同時に、一旦軍に戦闘を委ねたならば、
軍のオペレーションの領域に文民はみだりに介入してはならない。
これは、病院の理事長といえども、
手術(オペレーション)の時にドクターに指図できないのと同じだ。
従って、シビリアン・コントロールという概念は、
災害派遣や人命救助や、
例えば尖閣領空・領海侵犯の航空機や艦船を
撃墜し撃破するか否かに適用されるものではない。
これは、
いちいち東京にお伺いをするのではなく、
現場の指揮官に委ねられたROE(交戦規定)に基づいてやる。

第四、
この大災害に耐えて助け合う日本国民の姿と、自衛隊の活動は、
共に、我が国の強い抑止力として、十年後の現在も周辺諸国に作用している。
このことを忘れてはならない。このことを特に強調したい。

福島第一原発の
上部が爆発で吹っ飛んだ原子炉建屋の冷却が出来なければ、
日本は、北の人が住める地域と、
真ん中の人が住めない地域と、
南の人が住める地域に三分割されてしまう。
自衛隊の偵察ヘリによる放射能測定では、
放射能は、
爆発した原子炉建屋から上空に「割り箸を立てたように」伸びているという。
人間が近づけない危機的状況であった。
しかし、
折木統幕長と火箱陸幕長は決断した。
そして、三月十六日二十三時三十分、
中央即応集団の宮島司令官が、
隷下の金丸章彦第一ヘリコプター団団長に
「あしたは撒け」と命令した。
よって翌十七日早朝、
自衛隊で最も大きなヘリであるCH47チヌーク二機が
霞目駐屯地から飛び立ち、わずか三日前に爆発した原子炉建屋に向かった。
二機は午前九時四十分から十時の間に、四回、原子炉に約三十トンの水を落とした。
この原子炉に水を投下するヘリの映像は、世界に流れた。
すると、東京市場の株価が下げ止まった。

この作戦を事前に知ったアメリカ軍の将官は、
ヘリコプター団の金丸章彦団長に言った。
「人の命を何とも思わないような作戦はするな」
そして、
実際に放水している映像を見た中共軍の将官は言った。
「日本人は、戦前と戦後、ちっとも変わっていない。
簡単に命を懸けてくる。
もし日本に核弾頭ミサイルの照準を当てて発射準備をしれば、
日本人は、確実に、
飛行機に爆弾を積んでミサイルに突っ込んでくるだろう。」

同時に、厳しい訓練で自衛隊最強部隊と言われる第一空挺団長を勤めた
火箱芳文陸上幕僚長は、
原子炉がさらに暴走する事態になったらどうするか、覚悟を固めていた。
その上で、
かつての第一空挺団の最強の部下達に被災地の地図落としをさせていた。
現場視察に来ている火箱陸幕長の姿を、
その地図落としをしている空挺隊員が認め、叫んだ。
「団長、何かに使ってください!」
火箱陸幕長は応じた。
「おおー、お前ら元気か!
分かってる。
お前らはいざとなったとき、
原子炉に突入させるからな。
そん時は、俺もそこに行くからなあ!」
そして、呟いた。
「アイツらだけを死なせる訳にはいかない、
オレが行く。オレが先頭に立つ。
60年以上生きてきたから。」

次に、世界が感嘆した被災地の日本国民の姿を
アメリカの救援ヘリの女性機長が書いた手記を紹介する。
・・・      ・・・       ・・・
ある学校の屋上に「SOS」の文字を発見した。
そして、おそるおそるヘリを屋上に着陸させた。
何故なら、米国を含む世界の諸国では、
救援物資を運ぶヘリに被災者が集まって収拾がつかなくなるからだ。
しかし、着陸してみると、
年配の男性が一人静かにヘリに近づいてきて、
被災者が数百人いるという。
救援物資を渡そうとすると、皆、静かにバケツリレーで受け取った。
他の國にある物資の奪い取りなど全くなかった。
そして、もうここでよいという。
まだあるといって渡そうとすると、キッパリと断って、
他の場所にいる被災者に渡してあげてと言って、
どうしても受け取らない。
さらにけが人を運ぶというと、
足を骨折した老人が申し訳なさそうに乗せられた。
この日本人の優秀さと精神性の高さは、
アメリカ軍の公式記録に載せられる。
・・・       ・・・       ・・・
私西村は、大震災から三ヶ月後、
地元の国士である野崎豊医師から
猪苗代湖畔にある巨大なホテルで、
國の現状報告をすることを頼まれた。
そのホテルには、
福島第一原発のある双葉町から避難を余儀なくされた
八百人ほどの住民が移り住んでおられた。
野崎医師は、その避難した人々の主治医でもあった。
私はその時、
菅直人内閣の、福島第一原発周辺への立ち入り禁止措置や
飯舘村の全村民を村から退去させる措置に
左翼の反原発運動の匂いを感じていた。
丁度その時、「文藝春秋」誌に
被災地の犬とネコを救助する民間組織の原発周辺地域での活動報告記事が出ていた。
それを読むと、菅内閣は、
犬とネコを救うために原発周辺に人が入ることを認めたが、
人を救助するため、遺体を収容するために、
人が入ることを認めていない。
そして、その記事には、
海岸周辺に人の遺体が点々と横たわっているのを見たが、
私たちは、犬とネコを回収することはできても
遺体収容は許されていないので、
ごめんなさいと言って通り過ぎたとある。
それを読んで、私は、怒った。
確か、菅直人は、総理になった時、
自分が長州人であることを強調し、
自分の政権は、
幕末に長州に出来た奇兵隊のようにしたいと言っていた。
その奇兵隊は、
戊辰戦争で会津地方に侵攻して、
白虎隊など、戦死した会津藩士の遺体の埋葬を禁じ、
翌年まで数ヶ月間、遺体を路上に放置して見せしめにした。
菅直人政権は、百五十年後に、
これと同じことを、している。
私は、
遺体となって原発周辺に放置されている人々の
知人や身内かもしれない猪苗代に避難した双葉町の人々に、
講演で言った。
菅直人は間違っている。
放射能への恐怖を煽りすぎている。
原子力発電所は、日本に必要である、と。

話を終えて席に着いたとき、
一人の初老の男性が手を挙げて立ち上がった。
そして、双葉町避難民自治会会長だと名乗って、言った。

我々は、原子炉から出る放射能の故に、
住んでいた双葉町から退去を強制されて、
ここに来ている。
この我々の前で、
貴方は、原子力発電は日本に必要であると言い切った。
敬意を表する。
マスコミの報道の仕方は、
まるで我々がカネをもらったから
第一原発設置を承諾したように言っているが、
我慢できない。
我々も、貴方のように、
原子力発電が日本に必要だと思うから、
第一原発の設置を容認したのだ。

その後の懇親会で、その方と語り合った。
私は、避難されてきた方々に年配者が多いので、
放射能の故に健康障害がでた方達がおられるのかどうか質問した。
すると、双葉町避難民自治会会長が答えられた。
その通り、次に記す。

いや、いや、むしろ健康になったですよ。
私などは、アレが立つんです。勃起するんです。
だから、女房がビックリしてますよ。

私は、大震災の年の初夏、
猪苗代での双葉町の人々との出会いを忘れ得ない。
我が日本という國は、
平素は隠れた強靱な人々によって支えられている。
このこと、「戦場で実感した」ように思う。

十年後の今、東日本大震災を振り返り、
しみじみと、明治天皇の御製、を思う。

しきしまの大和心のををしさはことあるときそあらわれにける

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