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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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今こそ、明治維新、則ち、神武創業の原点に還らねばならない

令和3年2月22日(月)

明治維新から始まった明治の御代は、
太古から現在に至る大河のような人類史の視点から大観して、
まさに、近現代史における「歴史の決定的瞬間」を造りだした。
明治天皇を戴く日本の世界史への登場は、
大気中に充満していた電気が、
突如一箇所に集中して稲妻になり閃光を発するに似た
「人類の星の時間」と言える。
よってこれから、人類史の中の日本の起源を概観したい。

現在の我々人類の遠い祖先は、
三十万年ほど前にアフリカ大陸で生まれたという。
そして、ある時期、アフリカから北上して、食料を採収しながら、
西の現在の欧州に向かう群れと、広大なユーラシアの東に向かう群れがあった。
この群れは、ユーラシアの北東に向かう群れと南東に向かう群れに別れていく。
東北に向かった人々は
シベリアからベーリング海峡を渡って南北アメリカ大陸に入っていく。
南東に進んだ人々は、
ヒマラヤ南麓からインドそして東南アジアさらにインドネシアの東西五千キロの群島やニューギニア、オーストラリア、太平洋の島々に辿り着いていった。
そして、北でも南でもない東に進んだ人々の群。
そのなかに遂に日本列島に辿り着いて日本人となる人々がいた。
現在のところ、発見された日本列島の人類の最初の痕跡は、
島根県出雲市砂原で出土した十二万年前の石器である。
ユーラシア大陸の東の海にある日本列島は、
昔も今も温暖で四季折々の豊かな海の幸と山の幸が与えられる恵み多きところだ。
太陽は東から昇る。
その旭日の方向を目指して何万年も移動した人々が日本人の先祖だ。
アゼルバイジャン共和国のカスピ海西岸のゴブスタンに
二万年前から岩に刻まれた多くの岩絵が残されている。
そのなかの一つの岩絵に、
二十数名が乗り込んで東に向かう芦で造られた船の絵がある。
その船の尖端に刻まれているのはまさに「旭日」だ。
東に向かうとは昇る旭日を目指すことだ。
従って、「旭日旗」と「日章旗」は、日本民族の血に根ざした旗なのだ。

私が学んだ昭和三十年代の中学生向けの日本史の教科書は、
GHQの占領政策に迎合するかのように、
弥生時代に、大陸や半島の「先進的な渡来人」が「日本列島の原住民」に水田耕作を伝え
「日本史」が始まるような書き方だった。
しかし、今や、多くの考古学徒の努力によって、
日本列島には数万年に及ぶ豊で秩序が保たれた
旧石器時代と縄文時代があったことが明らかになり、
三千二百年前の水田耕作の跡が見つかっている。
世界最古の磨製石器(三万~四万年前)、
世界最古の土器(一万六千五百年前)、
そして世界最古の漆製品(九千年前)は、総て日本から出土している。
このことは、日本列島が、当時の世界のなかでも、
豊かな技術の最先端地帯だったことを示している。
この旧石器から縄文に続く数万年の歩みのなかから
日本独特の共同体と部族長(酋長)が産み出されてきて「天皇」となり
日本の誕生即ち神武創業が成され、
それから天皇は、万世一系百二十六代の現在に至るのが「日本(ニッポン)」である。

以上を確認して、次に、この数万年のなかから成就した日本の誕生から
二千五百二十八年後の明治維新から始まる明治天皇を戴く御代を語りたい。
この御代を語ることは、現在の我々にとって非常に重要なことである。
何故なら、我らは今、
明治に回帰しなければ、国難を克服できず亡国に至るからである。

まず、上記のアフリカ大陸から出た人類の二十万年の営みのなかで、
いつから世界史が始まったのか、私には、その時点を指摘することはできないが、
世界史が始まる前の人類の精神世界は、
神々のいる多神教の世界だったことは確かだ。
多神教では、人々は、現在の日本人のように、
自然の中にいる神々と一体で神々に感謝して祭祀を行い祈っていた。
我が国の玄界灘に浮かぶ沖ノ島は「神宿る島」であり「海の正倉院」と言われる島だ。
数年前、付近の漁師に、TV放送局の記者が、
「沖ノ島に宿る神さんを信じているのですか?」
とインタビューしているTV画面を見た。
すると漁師は、
「信じるも信じないも、どっちでもええけど、神さんがおられるんや。」と答えていた。
これが多神教の精神世界だ。
これに対して、一神教は、
人々に唯一絶対の神を「信じるか、信じないか」決めさせ、
「信じる」と言ったものは「信者」となり、
信じない者は「異教徒」として区別する。
この一神教の最初が、
紀元前六世紀ころのユダヤ民族のバビロン幽囚の苦難のなかで、
中東に生まれたユダヤ教だ。
それから五百年ほどしてイスラエルにイエス・キリストによってキリスト教が生まれ、
紀元六二二年、ムハンマド(マホメット)によってイスラム教が生まれる。
これら三つの一神教の特徴は、
人とは隔絶した唯一絶対の神を信じ、経典、戒律、聖職者をもつことだ。
ユダヤ教は、天地を創造した唯一神エホバを信じ、
ユダヤ人を神エホバから選ばれた選民とし、
救世主メシアの到来を信じる宗教である。
従って布教対象はユダヤ人に限られる。
というよりユダヤ教を信じる者がユダヤ人なのだ。
このユダヤ教の神は、戒律によって怒り罰する恐ろしい神だ。
また、その選民思想の凄まじさは、次の旧約聖書「民数記第31章」に見られる。
「モーゼは民に言った『あなたがたのうちから人を選んで戦いのために武装させ、
ミデアンびとを攻めさせ、主のためミデアンびとに復讐しなさい。』
・・・モーゼは彼らに言った。
『この子供達のうちの男の子をみな殺し、また男と寝て男を知った女をみな殺しなさい。
ただし、まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい』」。
身の毛がよだつではないか。
しかし、現在の世界でも、
内乱や動乱の時に起こる民族浄化という異民族に対する組織的殺戮と強姦や、
ドイツに狂気の総統を出現させてユダヤ人を大量殺戮させ、
アメリカに狂人の大統領を誕生させて
都市の人口密集地を狙った無差別爆撃や原子爆弾投下を正義の名においてさせる所業は、
この一神教のモーゼの語った選民思想から生まれていることを忘れてはならない。
十七世紀からアメリカ大陸に渡って
インディアンの土地を奪う「西部開拓」に向かうヨーロッパ人が掲げ、
二十世紀の戦争に向かうアメリカ大統領F・ルーズベルトが抱いた
「マニフェスト・デスティニー」とは、
このユダヤ教からパウロによってキリスト教に入れられた選民思想である。

ユダヤ教の次に出現したイエス・キリストは、
ユダヤ教の「怒り罰する神」を「愛の神」に変え、
「律法」と「選民思想」を否定して「博愛」を説き
ユダヤ人に布教した。そして、ユダヤ人に処刑された。
このキリストを迫害する側にいたユダヤ人のパウロは、
キリストの晩年にキリストの弟子になり、キリストの死後、
キリスト教にユダヤ教の「選民思想」を復活させ、モーゼの律法を否定せず、
ユダヤ人以外に布教対象を広げローマ帝国にキリスト教が浸透する条件を整えた。
そして、三百年後の三九二年、テオドシウス帝の時、
パウロのキリスト教はローマ帝国の国教とされた。
これが、現在に至る人類の惨害の始まりである。

ローマ帝国がキリスト教を国教としてから何が起こったか。
首都ローマには二十八の公共図書館があり、
広大な帝国内には膨大な数の図書館と膨大な数の神殿があった。
これらが閉鎖され破壊された。
これらは古代ギリシャとローマの「異教徒の文明」の図書館と神殿だったからだ。
さらに翌年の三九三年、
ローマの元老院はオリンピア競技会の全廃を決議した。
ここに、我が国と同じ多神教の世界であったギリシャ・ローマの文明が終焉する。
そして、ギリシャ・ローマ文明だけではなく、
ローマ帝国内の民であるケルト人やゲルマン人の「先祖からの記憶」
即ち「神々の神話」が奪われていって欧州は神話からの記憶が切断された地域となった。
このようにして中世の「魔女」や「異端」を火刑にする暗黒時代を経て、
現在のキリスト教圏であるヨーロッパが形成された。
そして、「大航海時代」というキリスト教ヨーロッパ圏の世界征服期を迎える。

一四九二年のコロンブスのアメリカ大陸到着そして
一四九八年のポルトガルのバスコ・ダ・ガマのインド到着から
約三六〇年後には、
南北アメリカ大陸、アフリカ大陸そしてアジアは、ヨーロッパ諸国の支配下に入り、
十六世紀に切支丹伴天連を追放した極東の日本を囲む四方の海には彼らの軍艦が遊弋していた。

しかし、天皇を戴く多神教の神々の国である日本は、
敢然と明治維新を遂げて近代国家建設に乗り出し、
明治天皇を戴いて、明治三七・八年(一九〇四・五年)、
欧米の植民地下にあるアジアとアフリカの諸民族の眼前で、
帝政ロシアとの日露戦争を闘い、有色人種が白色人種に勝利することを示した。
この時、
キリスト教がローマ帝国の国教になってから開始された独善的一神教世界の拡大、
そして欧米の白人が有色人種を支配することを当然とする世界史の転換が始まった。
これを人類の精神史の観点から観るならば、
日本は、人類の多神教世界の復活を開始したのだ。
同時に、この多神教世界が、
一神教誕生前の人類の精神世界であったことを思えば、
日露戦争における日本の勝利、
そして続く人種差別撤廃と植民地解放を掲げた「大東亜戦争の勝利」は、
普遍的なもの、根源的なものの勝利であった。
よって、これから何年か経過した後には、
一九〇五年(明治三十八年)を以て、
数百年の一神教世界による他民族を殺戮し植民地支配することが正義になるという
狂った一時期が終焉期を迎え、
普遍的で根源的なものの復活、真の意味の人類のルネッサンスが始まる、
それを開始したのはユーラシアの東の果てにあって、
キリスト教に征服されなかった唯一の文明国である日本だった、
と回顧されるであろう。
では、何故、日本はキリスト教に征服されなかったのか。
それは、日本が天皇を戴く国であったからだ。

この日本の普遍性(西洋人から言えば特殊性)を、
西洋(キリスト教圏)と対比して端的に指摘したフランス人の社会人類学者であるクロード・レブィ=ソトロース(1908~2009年)の次の一文を記しておく(同氏著「日本論 月の裏側」)。
「かくかくの影響を(外部から)受ける前から、あなた方は一個の文明を持っておられた。
即ち、縄文文明を。それを他の何に比較しようとしても出来るものではない。
ここから私はこう言いたい。
日本的特殊性なるものがあり、それは根源からしてあったのだ。
そして、それが外部からの諸要素を精錬して、つねに独創的な何物かを創りあげてきたのだ、と。
われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間に、ポッカリと深淵が拓いている。
日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、
そこでは誰もが歴史とも神話とも密接な絆を結んでいられるという点にあるのだ。」
さらに、次に
アメリカのワシントン州に古代から住んでいたインディアン、スクァミッシュ族の
酋長シアトル(現在の都市の名になっている)が、
居住地からの退去強制令を発したワシントン総督に対して提出した抗議文の一部と、
インディアンのポニー族酋長の未亡人の息子に対する教えを記す(アーネスト・シートン著「レッドマンのこころ」より)。
これらを読むとき、我々日本人は、遙か遠い昔、ユーラシアの何処かで、
彼らアメリカのインディアンと共通の先祖をもっていたと感じる。
先ず、酋長シアトルの抗議文。
「あなた方の神ゴッドと、われらの神グレート・スピリット(大霊)とは
まったく相容れないものだ。
ゴッドは自分の民は愛しても異民族は嫌う。
白い肌のわが子をやさしくかばい、
あたかも父親がわが子を可愛がるように手引きをするが、
赤い肌の者のことは一向に構わない。
われわれの崇める大霊はそんなえこひいきはなさらない。
・・・あなた方の宗教は活字によって書き記されている。
レッドマンにはそれが読めないし、理解できない。
それとは違い、われわれの宗教は先祖からの伝統なのだ。
厳粛なる儀式のもとに、夜の静寂の中で、大霊より授かったものだ。
それが偉大なる先祖のビジョンとなって、われわれの胸に刻み込まれている。
あなた方の先祖は、墓の入り口を通り抜けると、それっきりあなた方のことを忘れる。
あなた方も彼らのことを忘れる。
が、われわれの先祖霊は地上のことを決して忘れない。
われわれのもとを訪ね、導きを与え、慰めてくれる。・・・
私は『死』という文字は一度も用いていない。
『死』は存在しないからだ。ただ生活の場が変わるだけなのだ。」
この酋長シアトルの
「死は存在しない、生活の場が変わるだけだ」という結びの言葉は、
七生報国を誓った楠木正成と同じ精神を示しているではないか。
次は、ポニー族の酋長の未亡人の息子への教えだが、
まるで靖國の母のようだ。
「貧しい者への思いやりを忘れぬように。
私たちも貧しくて人々の思いやりをいただいてきたのだから。
お前が大人になって戦に出た時、
たとえ死の報に接しても、母さんは泣かないでしょう。
それが男の道、益荒男の本懐だからです。
戦場でも友を思い、決して見捨ててはなりません。
友が敵に囲まれたことを知っても、逃げてはなりません。
その友を救いに行きなさい。
万一救えなかった時は、その友と枕を並べて討ち死にするのです。」
以上の通り、
滅ばされた諸民族は日本人と同じ精神をもっていた。
よって、明治維新を成し遂げた日本に課せられた使命は、
キリスト教圏という一神教世界からの諸民族の解放という
人類史の転換であった。

そこで次に、
この人類史の転換を開始した
明治天皇を戴く明治の御代について記すことにする。
まず、慶応三年十二月九日の王政復古の大号令は、
「諸事神武創業之始に原(もとづ)き」と宣言されている。
これは万世一系の天皇を戴く日本は、
神武創業の時に回帰しなければならないという宣言である。
つまり、現在の表現で言えば、「真(まこと)の憲法を回復する」ということだ。
その神武創業之志は、「八紘為宇」。
即ち「天の下は一つの家族の一つの家」。
その上で、
翌年の明治元年三月十四日に発せられた「五箇条の御誓文」は、
真の憲法のもとでの新しい時代の革新的志(こころざし)を鮮明にしたものだ。
つまり、我が国における革新とは、復古なのだ。
さらに同日発せられた
「國威宣布の宸翰」こそ、
若き十六歳の明治天皇のみずみずしい思いを率直に国民に述べられたもので、
最も注目すべきものだ。
その冒頭は、
「朕幼弱を以て、猝(にわか)に大統を紹き、爾来何を以て萬國に對立し、
列祖に事へ奉らむやと、朝夕恐懼に堪さるなり。」
と始まる。
このように、率直に自らの若年故の不安を赤裸々に国民に訴える
若き十六歳の天皇の下で明治の御代は始まった。
そして、明治天皇は次のように言い切られる。
「今般朝政一新の時に膺(あた)り、
天下億兆、一人も其處を得さる時は、皆朕が罪なれは、
今日の事、朕、自(みずから)身骨を労し心志を苦め、艱難の先に立、
古列祖の盡させ給ひし蹤を履み、治蹟を勤めてこそ、
始て天職を奉して、億兆の君たる所に背かさるへし。」

「宸翰」とは天皇の国民に対する手紙である。
現在では「おことば」だ。
この手紙を拝読した明治の国民は如何なる思いに打たれたか。
まず、
明治天皇は、国民を御自分の家族だと思って率直に語られていると思ったに違いない。
その上で、
一人の国民の苦境をも「朕の罪」と言い切られる天皇に対し、
親に抱きかかえられているようなありがたい親愛の情に打たれたであろう。
そして、我々は、もうお一人、明治天皇と同じ、年齢故の不安を、
率直に国民を家族だと思って語られた天皇がおられたことに思いを致さねばならない。
その天皇は、平成二十八年八月八日、
老齢故の不安を、率直に国民に語られた現上皇陛下ではないか。
明治も現在も神武創業の時から、天皇と国民は一つの家族なのだ。
さらに明治天皇は「古列祖」を思われて宸翰を書かれている。
その天皇のお一人は、第十六代の仁徳天皇ではなかろうか。
仁徳天皇御陵の側で育ち今も住んでいて、
天皇の次の詔書を拝読して私はそう思う。
日本書紀に、民の竈から昇る煙を眺めて喜ばれた仁徳天皇は、
ボロボロの服を着て、三年間補修されなかったために、
雨が漏れて風が吹き抜ける皇居に住まれていたが、
「朕既に、富めり豈愁(うれひ)あらむや」と言われ、続けられた。
「それ天の君を立つることは、是れ百姓(おおみたから)の為なり。
然らば則ち君は百姓を以て本と為す。
是を以て古の聖(ひじりの)王(きみ)は、
一人(ひとりのひと)も飢え寒(こごゆ)れば顧みて身を責む。
今百姓貧しきは則ち朕が貧しきなり。百姓富めるは則ち朕が富めるなり。
未だ百姓冨みて君の貧しきこと有らず。」

さらに、二ヶ月後、
明治天皇の叡慮を示す大切な文書が発せられた。
それは、慶応四年五月十日付けの
戦死者の慰霊に関する太政官布告「御沙汰書」だ。
その冒頭次の通り。
「大政一新の折柄、賞罰を正し、節義を表し、天下の人心を興起遊ばされ度、
既に豊太閤・楠中将の精忠英邁、御追賞仰せ出され候。・・・」。
即ち、明治天皇は徳川時代に「敵」とされていた
豊臣秀吉と楠木正成の、精忠英邁を真っ先に褒め称えられたのだ。
まことに豊臣秀吉は、
慧眼を以てキリスト教の危険性を見抜き、
天正十五年(一五八七年)、
筑前箱崎において、「切支丹伴天連追放令」を発して
日本の國體を護った尊皇の志の厚い戦国時代の英傑であった。
彼のこの追放令の冒頭は、
北畠親房の「神皇正統記」の冒頭「大日本(おおやまと)は神国也」と同じだ。
即ち追放令冒頭は
「日本は神国たる處、切支丹国より邪法を授け候儀、まことに以てけしからん」
神国とは天皇を戴く国のことだ。
しかも秀吉が越前で見たものは、
来日した切支丹伴天連と奴隷商人と武器商人が一体となって、
切支丹大名の領地の神社仏閣を破壊し、
その領地の少女を奴隷としてインドや欧州に運んでいる凶状だった。
世は戦国時代、武器商人と奴隷商人は、
領地の五十人の少女を受け取って一樽の火薬を切支丹大名に渡していたという。
このようにして、この戦国時代に奴隷として海外に運ばれた日本人少女は
五十万人だという。
このような切支丹伴天連を日本から追放できた理由は、
秀吉の「切支丹伴天連追放令」の冒頭で明らかなように
「日本は神国」つまり「天皇の国」であるからだ。

また明治天皇が、秀吉と同時に楠木正成を追賞されたことは、
招魂社(靖國神社)よりも一年早く、
正成自決の地に湊川神社が創建されることにつながり、
我が国の運命に深く関わっていく。
湊川で「七生報国」を誓って自決した忠臣楠木正成を思うことが
日本軍の強さの源泉となったからだ。
日露戦争で広瀬武夫中佐が、
「七生報国」と書いて死地となる旅順港に向かったように、
日清日露戦役から日華事変を経て大東亜戦争に至るまで、
延べ数百万の日本軍兵士達に、
楠木正成を思わない者は一人もいなかったであろう。
現在においても、
楠木正成が生まれた金剛山麓を望む泉州信太山に駐屯する
陸上自衛隊第三七連隊のマークは
楠木正成が後醍醐天皇から賜った家紋「菊水」である。
そこで、現在の我々が、
徳川時代に敵であった者の名誉を、まず回復された明治天皇の叡慮に習い、
まず為すべきことは何か。
それは、既に百五十年の昔となった明治維新や西南の役で朝敵とされて
現在も靖國神社に祀られることのない幕臣旗本、会津、薩摩などの人々も、
「日本人の士魂」を守った勇士としてその名誉を回復することである。
明治の御代から、国民は敵も味方もなく、一丸となって
日清日露から大東亜戦争までを戦い、戦後も復興に邁進してきた。
この名誉回復を象徴的に示すことは、
靖國神社の、一の鳥居と二の鳥居の間に立つ大村益次郎の銅像を他所に移し、
そこに明治維新という日本的革命の象徴である
内戦の中で敵味方を越えて日本の為に江戸無血開城を実現させた
二人の幕臣と一人の薩摩藩士、
即ち、勝海舟、山岡鉄舟、西郷隆盛の像をおくことである。

さらに、「五箇条の御誓文」は、
昭和天皇が昭和二十一年一月一日に発せられた
「年頭、國運振興の詔書」の冒頭において、
戦後の国家目標、国民の指針として再び発せられたことを忘れてはならない。
戦後、この昭和天皇の詔書は、「天皇の人間宣言」だと教えられた。
これは詔書の本質を隠蔽する戦後の欺瞞だ。
この元旦の詔書と同年の御製
「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ」
から思われる昭和天皇の国民への願いは、
戦後の日本は明治の日本と
志において断絶することなく連続性を維持せよということである。
昭和天皇は、
「私の人格形成に最も影響を与えた方は乃木希典院長である」
と語られた。
そして、乃木希典大将を参謀総長にしようとする軍部の方針を止めて、
「近いうちに、我が孫が学習院に入学するから」
と申されて乃木希典を学習院院長にしたのは
明治天皇なのだ。
従って、昭和天皇は、御祖父明治天皇の御叡慮と乃木希典大将の教えを思い、
高貴なる明治に習うために敗戦後最初に迎えた元旦の詔書の冒頭に
「五箇条の御誓文」を掲げ、
国民に明治維新の通りの日本再興を促されたのだ。
しかし、昭和六十三年の最後の御製では
「やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど」、
と国民に、言い残された。

よって最後に、
以上の通り、仰ぎ見る偉大な、そして、高貴な、
明治天皇と昭和天皇の御叡慮を受けた我々の使命を記す。

「偉大な結果をもたらす思想とは、常に単純なものだ」
とトルストイは言った。
同様に、偉大な日本に回帰することも、
単純明快である。
まず、結論から言う。
我々は、
第一に、昭和二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」を廃棄する。
第二に、これから「諸事神武創業之始めに原(もとづ)く」(王政復古の大号令)。
これが結論だ。
「神武創業之始めに原く」とは即ち、既に述べたように、
日本の眞の憲法に基づくということであり、
次の諸事項を法源とする「不文の憲法」に回帰するということだ。
その法源は、
第一に「天照大御神の天壌無窮の神勅」を初めとする記紀に記された神勅や詔勅、
第二に「聖徳太子の十七条憲法」、
第三に歴代の重要な詔勅、
第四に大日本帝国憲法と旧皇室典範及び國體を顕す諸法令、
第五に現行の国会法や内閣法や裁判所法など重要な諸法令、
である(以上、小森義峯教授の論考「日英両国における不文憲法の重要性」)。

我々は、
「日本国憲法に従う戦後体制の日本」を打破し
「神武創業以来の歴史と伝統に基づく日本」に回帰しなければならない。
つまり「神武創業の始めに原く」だ。
前者は「虚仮(こけ)」であり我が国から国家の歴史と誇りと軍隊を奪っている。
そして後者が「眞の日本」だ。
この「眞の日本」は、
平成から令和に御代が替わる先帝の譲位と新帝の践祚
そして新帝の大嘗祭および元旦の四方拝に、
まさに顕現されていたではないか。
即ち、これら総て、
我が国の歴史と伝統のなかにある「不文の憲法」に基づいていたのである。
つまり我が国の「不文の憲法」は、現在只今も生きていて機能している。

では、次に、「不文の憲法」に戻る実践的必要性は何か。
これも単純なことだ。
巨大な敵を打倒しなければならないからだ。
日本(ニッポン)の存続を確保しなければならないからだ。
明治の御代は、
世界最大の陸軍国ロシアと闘い打倒しなければ日本の存立はなかった。
そして、この令和の御代は、
「無神の一神教である共産主義」と「中華思想」が混合した
グロテスクな独裁国家中共を崩壊させねば、
東アジアの諸国民と日本の未来はない。
この課題に直面しながら、
マッカーサー司令部が
日本を二度と脅威にならない弱小国に固定するために書いた
「日本国憲法と題された無効な文書」
に縛られていては亡国に至る。
内閣と国会の諸君は、
「無効なものは改正できない」のが、未だ分からんのか。
この無効なものを廃棄し、
前記「真の憲法・不文の憲法」に回帰すれば、
自衛隊は一瞬にして「軍隊」ではないか。
明治天皇と、
明治天皇の「五箇条の御誓文」を掲げられた昭和天皇の御叡慮は、
我々に眞の日本に回帰せよと命じられている。
今こそ、我々の使命は、
その天皇の御意向に応え、
真の日本に回帰し、日本を守り抜くことだと自覚して、
その実践に進まねばならない。

(以上は、「伝統と革新」誌に出稿した原稿に加筆したもの)

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