大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

  • 西村眞悟 Facebook
  • 西村眞悟 twitter
  • 西村眞悟 RSS
西村眞悟の時事通信
  • HOME
  • 西村眞悟の時事通信

追悼、民社党委員長塚本三郎先生

令和2年6月19日(金)

本日六月十八日の産経新聞朝刊の「正論」に
田久保忠衛先生が、
「塚本元委員長と日本の安全保障」
を書かれ、
五月二十日に亡くなった塚本三郎元民社党委員長の
歩みと、功績と、思想と
民社党の志と、戦いと、存在意義を紹介してくださった。
民社党第二代委員長の西村榮一の末っ子として生まれ、
民社党最後で唯一の公認候補として初当選し、
その直後に民社党解党にたちあった者として、
心にしみる。
特に、
「日本が第三国から奇襲攻撃を受けた場合、
首相の防衛出動命令がでるまで、
自衛隊は超法規的行動に出て日本を防衛する」
と述べた、時の栗栖弘臣統合幕僚会議議長を
金丸信防衛庁長官が解任した時、
塚本民社党書記長は、
断固、栗栖前統合幕僚会議議長を参議院東京選挙区に擁立し、
我が国国防上、栗栖氏の言論は当たり前のことであり、
自民党のように社会党のように、
決して、見て見ぬ振りをして葬り去ってはならないと天下に訴えた。
この時、
栗栖氏が全国区で出馬していたら当選したであろう。
しかし、栗栖氏は、
航空自衛隊の源田實氏が全国区から出ているので、
彼の選挙の邪魔になってはスマンと
全国区ではなく当選の難しい東京選挙区を選んだのだ。
この時のことを、田久保先生は、本日の「正論」で、
「一人前の軍隊への道をつけた塚本氏の功績は、
いくら強調してもし過ぎることはあるまい。」
と書いてくれた。
田久保忠衛先生に深く感謝する。

塚本三郎先生は、
昭和二年(1927年)四月二十日に生まれ
令和二年(2020年)五月二十に亡くなられた。
午前四時に起きて新聞配達をしながら小学校を、
国鉄名古屋駅の下働きをしながら旧制中学を、
それぞれ卒業し、
戦後も働きながら中央大学夜間部を卒業し、
二十六歳で衆議院選挙に初立候補し、三十一歳で初当選を果たした。
九十三歳の御生涯だった。

民社党の特徴は、
委員長も書記長も平の所属議員も政党職員も、
時に一堂に会して一杯飲みながら書生論議をすることだった。
民社党が解党してから知ったが、
自民党や他の政党ではこのようなことはあり得ない。
そのような時、塚本先生は、諄々と静かに話し続けられる。
その背後に深い教養が湛えられていて知謀知見湧くが如くであった。
特に仏教、そのなかでも法華経の思想の深さは、
並みのお坊さんでは、到底、かなわなかったであろう。

民社党には、愛知県から二人の委員長がでている。
まず明治生まれの春日一幸さん、次に、昭和生まれの塚本三郎さんだ。
そして、この二人は実に対照的だった。
春日委員長の演説は、「あ~お~、我が輩は~」という調子で
塚本委員長は「私は・・・であります」という風だった。
春日委員長は、何処に何人の奥さんがいるか分からなかったが、
塚本委員長は、奥さんは一人で、
毎日、東京では決して泊まらず必ず新幹線で名古屋の奥様の元に戻るので有名だった。

今、名古屋市長をしている河村たかしは、春日委員長の秘書だった。
委員長の娘さんの夫が交通氏事故で亡くなってからしばらくして、
河村は委員長に呼ばれた。
委員長は、「おい、河村、俺の娘の亭主が亡くなった。よって、河村、あの娘と結婚しろ」
と言った。
河村はビックリして、「僕には、嫁も子供もいます」というと。
委員長は、「そんなことは、どうでもええ」といった。
それで、怖くなって秘書を辞めた、
と、河村が僕にしゃべった。
三重の中井洽議員は、法務大臣を経験した人だが、
ある選挙の時、資金が足らなくなった。
そこで、名古屋に走り、春日委員長にカネをくれと頼んだ。
すると、春日が言った。
「お~、中井、子供とカネは自分で作れ」

民社党は、この名古屋(尾張)の、春日一幸、塚本三郎という
二人の全く個性が違うが憂国の思いを同じくする委員長を擁したのだ。
一種の奇観である。

この十年ほど、東京では数度、名古屋では一、二度、
塚本先生とお会いしていた。
しかし、昨年は、
足が弱られたらしく上京されなかったので、東京ではお会いできなかった。
そこで、昨年秋、女房を乗せて車で名古屋の先生のご自宅をお訪ねした。
自宅におられた先生は、少し痩せられ、歩行も少しゆっくりになられたが、
お話しは全く変わらず、いつものように、お話しに底知れぬ教養を感じさせた。
そして、おいとまするとき、
暖かい春になれば、一度、一緒に明治村を訪ねようという話になり、
奥様に、春日一幸ゆかりの陶器をいただいて失礼した。

しかし、その年末から年始にかけて武漢ウイルス禍が襲来し、
「暖かい春」も名古屋に行けず打ち過ぎていった。
その時、塚本三郎先生のご訃報に接した。
五月十九日、いつものようにお休みになった。
五月二十日朝、いつもより起きるのが遅いと思い、
奥様が見に行ったら穏やかに眠られていた、が、息はされていなかった。
民社党委員長塚本三郎先生、ご永眠なり。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

新着記事

  • 令和2年9月14日(月)
    三方の自民党総裁選挙を観ていて、全体として、つまり、自民党の三人共通のこととして、感じたこと、思ったことを、記しておきたい。先ず第一に、習近平に率いられた中国共産党独裁政権に対する認識の甘さ。同時に……
  • 令和2年9月11日(金)
    平成二十二年九月、尖閣諸島周辺領海内で、不法に操業し、警告した我が国巡視船に体当たりを繰り返して逮捕された中国漁船船長を、菅直人首相が、「釈放しろ」とわめいて釈放した我が国の姿は、国際的に次の通り評価…
  • 令和2年9月4日(金)
    外国で、それまで全く日本を知らなかった二十歳そこそこの娘に、「天皇とは何か」を教えられたと書いた男がいる。伊藤祐靖元2等海佐(海軍中佐)だ。彼は、ミサイル護衛艦「みょうこう」の航海長の時に、海上自衛隊…
  • 令和2年8月31日(月)
    現在に生きる我々は、我らの目の黒いうちに、即ち、近い将来、中国共産党独裁体制(中共)の崩壊を見る。これが我が日本の、人類に対する文明論的使命である。振り返れば、二十九年前の一九九一年、共産党独裁国家ソ…
  • 令和2年8月7日(金)
    横田滋さんが、六月五日に帰天されてから、三ヶ月が経ち、お盆の八月になっている。 横田滋さんを偲び、妻の早紀江さんとともに日本を救った瞬間を確認するその間、度々、横田滋さんと妻の早紀江さんの歩み、娘のめ…

アーカイブ