大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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尊い仁徳天皇の伝統と消費税率引き上げ

令和1年9月19日(木)

(序)仁徳天皇御陵
私は、昭和二十三年、奈良時代の僧行基が生まれた家原寺の近くの上野芝で生まれ、
昭和三十一年から第十六代天皇である仁徳天皇の御陵の近くで育ち、
今も同じ所に住んでいる。

この世界最大の前方後円墳の墳丘は三重の堀に囲まれた豊かな森で、
その堀は約十キロ南東の狭山丘陵に行基が造った巨大な狭山池と水脈で繋がり、
御陵周辺の水田に水を供給していた。
そして、その御陵の堀と周辺の水田は、
御陵の森に住む千羽を超える白鷺を養う小魚などの生息場所だった。
子供の我らが「金タイ」と呼んでいた
メダカを菱形に平たくしたような三㎝ほどのキラキラ光る綺麗な魚がいた。
しかし、高度経済成長期に入り、
水田が無くなり新築のガソリンスタンドの廃液が御陵の堀に流れ込んで、
一挙に金タイもモロコもフナもいなくなり白鷺も去っていった。
今は、人間の残飯で生きるカラスの群れがいる。
とはいえ、
この仁徳天皇の御陵を中心にして
南には天皇の皇子である履中天皇の御陵が
北には同じく皇子である反正天皇の御陵があり、
この三人の親子の天皇の御陵を、
多くの家臣の培塚や、いたすけ古墳や御廟山古墳やニサンザイ古墳という
豪族の巨大な前方後円墳が取り巻いている。
従って、この仁徳天皇の御陵を中心とする丘(百舌鳥・三国が丘)の風土は、
天皇を戴いて建国された日本という国家の黎明期の姿を伝えている。
しかるに、
はっきり言って考古学を学ぶ者のなかで左翼的な人士は
仁徳天皇御陵から「天皇」を外し、「大仙古墳」と呼び始め、
堺市等の左かかた行政機関も「天皇」を外し「仁徳陵古墳」と記すようになった。
つまり、彼らには我が皇室に対する尊崇の念はなく、
そして日本は万世一系の天皇を戴く国であると認識しようとしないのだ。
そのうえで、こんどは手の平を返し、
行政は、観光客を誘致するために、
左翼系考古学者は、天皇陵の発掘調査をするために、
これらの古墳群を世界遺産に登録する運動を始め、本年夏に登録され喜んだ。
あたりまえじゃ!
喜ぶ前に認識を深めろ。
万世一系の天皇を戴く国は日本だけであり、
元号をもつ国も日本だけである。
即ち、日本という国そのものが「世界唯一」なのだ。
従って、私は、
仁徳天皇の御陵は、天皇のお墓であり「遺産」ではない、
左翼による「天皇御陵の発掘」への道を開けるなと、
世界遺産登録に反対の立場を鮮明にしていた。

(1)古代の仁政・・・画期的思想の実践とケインズ革命
さて、ここから本題に入りたい。
その為に、まず、仁徳天皇について記す。
何故なら、無学な私でも知ったところでは、
仁徳天皇こそ、太古において、
現在においても守るべき、
我が日本の政(まつりごと)の統治理念、即ち、「義」を、
一般国民に鮮明に示された御方であるからだ。
その「義」とは、
山田方谷先生の「義を明らかにして利を計らず」の「義」だ。

仁徳天皇の御陵から真北に約10キロの所の
近鉄上本町駅の北西方に高津の高台がある。
あるとき、
仁徳天皇はこの高台(たかどの)に立ち遙かに民家を眺められた。
そして、民のかまどから炊煙が昇っていないのを確認され、
「三年の間課役を除き給ふの詔」を発せられた。
そして、三年後に高台から炊煙が昇っているのを眺められ、
「百姓(おおみたから)の富めるを喜び給ふの詔」を発せられ、
朕既に富めり、豈愁有らむや、と述べられた。
しかし、
三年の課役免除のため、宮中の資金はなく、
天皇はボロボロの着物を着て、雨が漏れ風が吹き抜ける皇居に住まわれていた。
そこで、お妃が尋ねられた。
私たちの住まいは廃屋のようになって貴方はボロボロの着物を着ておられるのに
何故、「豊かになった、大安心」と言われるのですか、と。
すると、仁徳天皇は、
世界政治思想史上、初めての画期的なことを言われた。

「それ天の君を立つることは、是百姓の為なり。
然らば則ち君は百姓を以て本と為す。
是を以て古の聖王(いにしえのひじりのきみ)は、
一人も飢え寒(こごゆ)れば顧みて身(おのれ)を責む。
百姓貧しきは則ち朕が貧しきなり。
百姓富めるは則ち朕が富めるなり。
未だ百姓富て君の貧しきことあらず。」

この仁徳天皇のお言葉は、
自分と民を「家族」と思っておられるからでるものである。
則ち、我が日本は「天皇のしらす國」であるから発せられたのだ。
(「しらす」とは自分と他者が一体となって融合すること)
その上で、天皇は
「難波の堀江を開鑿し給ふの詔」を発せられ、
湿地帯で定期的に洪水に見舞われる大阪平野に
堀を造って水を海に流し、海からの逆流を防いで肥沃な大地とした。

以上の通り、
仁徳天皇は、減税によって民の「可処分所得」を増大させ、
同時に「大土木工事(公共投資)」を実施しすることによって
「総需要」を増大させ、豊かな国を造られた。
これ、古代におけるケインズ政策の実行である。

ここで、
仁徳天皇御陵が世界遺産に登録されるよう、
国を挙げて奔走した者達に言っておく。

今、消費税の税率を上げようとしている。
しかし、消費税の税率を上げれば、
一時期、消費税収は増えても、
国民全体の総消費額は減少すること、つまり、総需要が減少すること、
橋本内閣の消費税率アップ以来実証されていることではないか。
この歴史の教訓に目を塞ぎ、
さらに、仁徳天皇の仁政の故事に無関心なまま、
消費税率アップに向かう為政者は、
遺産登録によって観光収入アップだけに関心があっただけ、
つまり、「義」を知らず、
「利」だけに走っる者どもである。
従って、結局、デフレから脱却できず、将来、国民に困窮をもたらす。
「義」を知らないまま、調子に乗っておる。

(2)仁政の系譜
仁徳天皇の仁政は、
我が国が「天皇のしらす國」であることから生まれたのであるから、
万世一系の天皇のお立場は、
等しく天照大御神の「天壌無窮の神勅」
「爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)いてしらせ」
に由来するものであるから、
万世一系の天皇は総てこの仁政の系譜にあられることになる。
間近くは、
明治、大正、昭和そして上皇さらに今上陛下は、
皆、この仁政の系譜のもとに質素に過ごされている。
日露戦争の時の明治天皇は、
冬に暖房をいれられず、野戦における兵隊食を食べられていた。
お体に悪いと暖房を勧める臣下に、
明治天皇は、「兵は極寒の満州で戦っておる」と言われた。
終戦後の昭和天皇は、
校舎の講堂に寝られて全国巡幸を果たされた。
上皇陛下と上皇后陛下は、東日本大震災の際、
被災地と同じように居室の暖房と電灯を切られていたという。

天皇以外の為政者や指導者を見れば、
まず、鴨長明が「方丈記」で、
源平騒乱と天変地異によって荒廃する都を嘆いて、
仁徳天皇の時代を懐かしんでいることが印象深い。
このことは、
庶民の世界にあっても
仁徳天皇の仁政の記憶は消えること無く伝えられていたことを示すものだ。
また、
私が知る人として、
米沢藩の上杉鷹山、
備中高松藩の山田方谷
そして西郷隆盛を挙げたい。

①上杉鷹山(1751年~1822年)
卓越した米沢藩の藩政改革者
天明五年二月七日、隠居して藩主を養子に譲るときに次の
「伝国の辞」を渡した。
一、国歌は先祖より子孫に伝え候国家にして我私すべき物にこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事

この「伝国の辞」は、
仁徳天皇の前記詔
「それ天の君を立つることは是百姓の為なり」
と同じ事を記したものだ。
仁徳天皇の詔は、
アメリカ独立宣言(1776年)とフランス人権宣言(1784年)の
遙か前に出されたものである。
アメリカのブッシュ大統領(息子)であったか、
日本に民主主義を教えたのはアメリカであったと言ったが、
笑止千万と言わざるをえない。

②山田方谷(1805年~1877年)
上杉鷹山を遙かに超える備中松山藩の藩政改革者であり陽明学実践者。
明治になって
ジャーナリストの三宅雪嶺は架空の理想内閣を構想し、
陸軍大臣に西郷隆盛、文部大臣に吉田松陰、大蔵大臣に山田方谷を選んだ。

備中松山藩の藩主板倉勝静は、徳川幕府最後の主席老中であるが、
備中松山藩家老山田方谷は、その藩主の前で、
安政二年(1855年)、
徳川幕府崩壊を明言した。
「幕府は大きな船ですが、下は千仞の浪です」と。
これは、
薩摩長州の志士たちが「倒幕」を意識する遙か以前である。
そして、山田方谷は、
農民兵を組織して徹底的な洋式銃陣訓練を施しはじめた。
その規模は、藩の武士による正規兵の二倍以上である。
山田方谷全集には、
オランダ語の命令がカタカナで書かれており陣形が図示されている。
安政五年(1858年)、
長州藩の久坂玄瑞が松山藩に来て
山田方谷の指揮する西洋銃陣の猛烈な訓練を見学して腰を抜かす。
この久坂玄瑞の報告に触発されて
長州では高杉晋作が奇兵隊を創設する(1863年)。
その後、戊辰戦争において、
長州藩は備中松山藩に攻め込まず素通りした。
そのお陰で備中松山藩のお城は今も残っているが、
それは長州が、
松山藩の山田方谷が徹底的に訓練した洋式銃陣の農民兵を恐れたからだ。

山田方谷は、
「よく天下の事を制する者は、事の外に立って事の内に屈せず」と言った。
現在の消費税率引き上げを当然として推し進める者は
事の内に屈した者達である。
また、
「義を明らかにして利を計らず」と言った。
消費税率引き上げは、
義を明らかにしないまま、利を計るためにもがく動きである。

③西郷隆盛(1828年~1877年)
多言を要しない。
次の「南洲翁遺訓」を引用する。
これは、仁徳天皇の仁政そのものである。

租税を薄くして民を裕にするは、則ち、国力を養成する也。
故に国家多端にして財用の足らざるを苦しむとも、
租税の制定を確守し、
上を損じて下を虐げぬもの也。
よく古今の事績を見よ。
道の明らかならざる世にして、財用の不足を苦しむ時は、必ず曲知小慧の俗吏を用い、
巧みに収斂して一時の欠乏に給するを理財に長ぜる良臣となし、
手段を以て過酷に民を虐げるゆえ、人民は苦痛に耐えかね、
収斂を逃げんと自然譎詐(けっさ)狡猾(こうかつ)に趣き、
上下互いに欺き、
官民敵讐(てきしゅう)と成り、
終に分崩離折に至るにあらずや。

なお、山田方谷は西郷隆盛より二十三歳上であり、
幕府最後の主席老中を藩主に戴く山田方谷と
倒幕の首魁西郷隆盛の間に交流があったか否かは不明であるが、
両者とも尊皇の志篤く、知行合一の陽明学徒であった。
そして、
山田方谷は、明治十年六月二十六日、備中で亡くなり、
西郷隆盛は、明治十年九月二十四日、薩摩で戦死する。
幕府の瓦解を誰よりも速く予言した山田方谷は、
維新後の新政府と明治六年の政変で薩摩に帰った西郷の行く末を
如何に見ていたか探究してみたい。

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