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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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沖縄戦の島田 叡知事と大田 實海軍中将を忘れるな

令和1年6月4日(火)

産経新聞は六月二日と三日の朝刊に
「勇気の系譜 使命」
という欄を設け、
昭和二十年一月に、死を覚悟して沖縄に赴任した
島田 叡(あきら)沖縄県知事の事績を紹介している。
島田知事は、大阪府内政部長であったが、
府知事の池田清から沖縄県知事就任の打診を受け、
しばし沈黙の後、受諾した。
島田は池田に言った。
「私が断れば誰かが代わりに行く。それはできない。」
そして、
直ちに一月三十一日に沖縄に赴任し、
県民を食糧難から救うために台湾米の入手に奔走するとともに、
県民二十万疎開の陣頭指揮を執り、
疎開の大切さを訴えるために村々に分け入り住民と泡盛を酌み交わして懇談し、
沖縄本島にアメリカ軍が上陸した四月からは、
県職員らと東南部に移動して自然壕の中で執務し、
六月、県庁を解散して、その場にいた県職員に、
「女、子供に米軍は手を出さない。捕虜になりなさい」、
「生きて復興のために頑張ってくれ」
と話して、彼らを戦場から待避させてから、
摩文仁の何処かで消息を絶った。

島田知事赴任の十一日前の一月二十日、
同じく死を覚悟して沖縄に赴任した軍人がいる。
海軍沖縄根拠地隊司令官大田 實海軍少将である。
島田県知事と大田司令官は、
県民を守るという一心で一致して肝胆相照らし協力し合う。
四月、大田司令官は、
通信力が無くなった島田知事の依頼により、
海軍省副官に
「左の電、伝えられたし」として
次の内務大臣宛電報を打っている。
「四月十三日迄の被害は家屋破壊一二三〇七 
首里市及び沿岸部落の建物ほとんど潰滅・・・
治安上懸念なきも食糧制限は逐次逼迫 
六月上旬以降は困窮 一部飢餓に瀕せんことを憂慮す」

そして、大田司令官は、
六月六日、午後五時三十二分、
軍人として訣別電報を発した。

戦況逼迫セリ 小官ノ報告ハ本電ヲ以テ
此処ニ一先ヅ終止符ヲ打ツベキ時機ニ到達シタルモノト判断ス 
御了承アリタシ
辞世 身はたとへ沖縄の辺に朽つるとも守り遂ぐべし大和島根は

さらに同日夜半、
大田司令官は、
次の文に始まり、次の文で終わる
世界の戦史において
日本の武人の心情、
武士道の本質を示す
不朽の電報を打電する。
この不朽の電報は、
沖縄県知事島田 叡の
至誠の心情を最も知る者こそ
同じく至誠の武人である
沖縄根拠地隊司令官大田 實海軍中将であることを示すものだ。
是非とも、全文を読まれたし(○は文字不明)。

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左の電○○次官に御通報方取り計らいを得たし
沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも
県には既に通信力なく 
三二軍司令部又通信の余力なしと認めらるるに付
本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども
現状を看過するに忍びず 
之に代わって緊急御通知申上ぐ
・・・
本戦闘の末期と沖縄島は実情形○○○○○○
一木一草焦土と化せん
糧食六月一杯を支ふるのみなりと謂ふ
沖縄県民斯く戦へり
県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを

以上、田村洋三著「沖縄県民斯ク戦ヘリ」講談社より。

沖縄根拠地隊司令官大田 實海軍中将は、
六月十三日、沖縄小緑の地下海軍壕内の司令官室で自決する。
その通路を隔てた南側に幕僚室がある。
司令官室の中央には机があり、そこに花が供えてあった。
幕僚室の壁には、
幕僚達が自決につかった手榴弾の多くの破片が今も突き刺さっている。

本年で第四回目になるが
大田 實海軍中将の生家の横に建てられている
「大田中将顕彰碑」前で
命日の六月十三日に、「大田中将顕彰の会」が次の通り開かれている。
場所 千葉県長生郡長柄町高山686
時間 13:30~14:30
世話人 大塚浩市
    長柄町西福寺住職三田隆廣
世話人連絡先 0475ー24ー0737

この大田中将の生まれたところは、
今も新緑豊かな里山と田植えを終えた水田が広がる
典型的な日本のおおらかな田園地帯で
海軍壕で自決する大田中将は、
地下の薄暗い司令官室で
この風景を思い浮かべて自決したのかと思うと
新緑が切なく目にしみる。
大田中将の義兄の東京帝国大学医学部の落合英二教授は、
六月十三日、
本郷の研究室で実験をしていたところ、
午後八時頃、
研究室の窓ガラスがコンコンと三回叩かれ
大田中将が「英ちゃん」と三回呼ぶ声がした。
窓を開いたが誰もいなかった。
十二人の子沢山の大田中将が、
「あとを頼む」と義兄に言いに来たのであろう。

目に見えない世界に、
英霊はいる。

現在、令和元年六月四日、
七十四年前の今、
沖縄は、一木一草焦土と化しつつあった。
沖縄戦の戦死者
日本軍九万六千百二十九人
学徒隊・義勇隊の沖縄出身軍属五万五千二百四十六人
県民三万八千七百五十四人
合計十九万百二十九人
アメリカ軍一万二千五百二十人

令和元年五月十一日、
靖国神社二ノ鳥居前の路上で、
靖国会事務局長の沼山光洋君が割腹自決した。
天皇陛下の
靖国神社御親拝の環境を整えることができなかったことを
靖国の宮に祀られる英霊に詫びた自決だった。
その数日後、
私は自決の場に佇み、
そして、靖国神社の本殿に参拝した。
英霊と共に沼山光洋君がそこにいた。

沼山君が、五月十一日を自決の日に選んだ理由は、
神風特別攻撃隊第五筑紫隊隊長西田高光中尉(二十三歳)が
昭和二十年五月十一日、南西諸島方面に出撃し散華しているからだ。
西田中尉は、
その日の朝、出撃基地鹿屋で次のように記している。

五月十一日の朝は来た。
今より五時間後は必中する。
総ての人よさらば、
あとをたのむ。
父さん母さん、征って参ります。

その後、西田中尉は、
出撃直前に、鹿屋基地にいた作家の山岡荘八に質問される。

この戦を果たして勝ち抜けると思うか、
負けても悔いはないのか、
今の心境になるまで、どのような心理の波があったのか、と。

西田中尉は答えた。

皆、自分から進んで志願した者である、
もはや動揺期は克服している、
学鷲は、一応インテリです
そう簡単に勝てるなどとは思っていません、
しかし、負けたとしても、
そのあと、どうなるのですか・・・
おわかりでしょう、
我々の生命は、
講和の条件にも、
その後の日本人の運命にもつながっています。
・・・そう、民族の誇りに・・・。

沼山光洋君が、
五月十一日を自決の日に選んだ気持ちが分かる。
令和の御代に具体化する来たるべき国難を克服するには、
英霊の思いを
現在の我ら自らの思いとして甦らせねばならない。
これが、日本をとも戻す、ということだ。

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