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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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奉天大会戦、東京大空襲、東日本大震災

平成31年3月12日(火)

昨日と一昨日を振り返れば、
この二日間は、
戦いにおける将兵の戦死、戦いにおける民間人の殺戮
そして、地震と津波による死者
これら多くの人が亡くなった日として記憶されねばならない。

明治三十八年(一九〇五年)三月十日
この日は奉天大会戦勝利の日、後に、陸軍記念日となる。
午後五時頃、
大阪の歩兵第三十七連隊第二大隊は、
奉天城内に入り、城門に日の丸を掲げ、
元帥陸軍大将大山巌満州軍総司令官が、
奉天大会戦の終結を宣言した。
日本軍の戦死者一万六五五三名、負傷者五万三四七五名
日露戦争における日露両軍最後の陸上決戦となったこの戦いは、
我が国が負ければ皇国が滅びる皇国の興廃がかかる一戦で、
日本軍二十四万九八〇〇名、砲九九〇門
ロシア軍三十万九六〇〇名、砲一二〇〇門
が十日間にわたって激突した世界陸戦史上空前の大兵力を動員した戦闘だった。
同じ季節の今頃は、
空がもやったようにどんよりした日には、
細かいパウダーのような黄砂が車のフロントガラスに積もる。
この黄砂は、満州の奉天付近から飛んでくるものだ。
百十四年前の奉天の戦場は、昼でも薄暗くなるほど黄砂に覆われて、
一万六五五三名の戦死者は、
ほぼ二〇歳代の若い男子で、
広大な満州の戦場に黄塵に半ば埋もれて累々と横たわっていた。
この戦場を巡視中の総司令部付川上素一大尉は、
同じく巡視中の元教官石光真清少佐に出会い、
次のように言った(石光真清の手記より)。

「いつも戦場を巡って感じますことは、
このような戦闘は、命令や督戦ではできないということです。
命令されなくとも、教えられなくても、
兵士の一人一人が、
勝たなければ國が滅びるということを、はっきりと知って、
自分で死地に赴いております。
この勝利は天佑でもなく、
陛下の御稜威でもございません。
兵士一人一人の力によるものであります
・・・さよう考えることは、教官殿、けしからぬことでしょうか。」

日本軍は、この奉天の最終決戦場に至るまでに
遼陽・沙河の両会戦で四万四〇〇〇名、
旅順要塞攻略戦で五万九四〇八名、
合計十万を越える将兵を犠牲にしてきた。

我々が、日本人として生まれたのは
この満州の荒野に黄塵に埋もれて累々と横たわった将兵のお陰だ。


昭和二十年(一九四五年)三月十日
十日に日付が変わった午前0時八分、
アメリカ軍の二百七十九機のB29爆撃機が
民間人を殺すことを目的にして東京の下町を焼き尽くす爆撃を行い、
十万人以上が焼き殺された。
B29爆撃機は、
まず深川、本所、浅草、日本橋区の外縁に焼夷弾を落として燃やし、
その中にいる無数の人たちが逃げられないようにしてから、
次に中心部に焼夷弾を落として彼らを焼き殺したのだ。
世界戦史上、
一回の爆撃で十万人を焼き殺す爆撃が行われたのは唯一この東京だけだ。
この爆撃の立案者は、カーチス・ルメイ、後のアメリカ空軍参謀総長。
アイヒマンがユダヤ人虐殺者として記憶されるならば、
ルメイも日本人虐殺者として記憶されねばならない。

この爆撃後、
昭和天皇は、
下町の焦土となった爆撃跡地をつぶさに観て廻られて人々をいたわられた。
陛下から声をかけられた焼け跡に呆然と座り込んでいた婦人は、
侍従に、あのお方はどなたですか、と尋ねた。
侍従が、お上、ですと応えた。
それから十九年後の昭和三十九年、
日本政府は、こともあろうに、
このカーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章を授与した。
この章は、天皇が親授するものであるが、
昭和天皇は、カーチス・ルメイに会うこともなく親授されなかった。

平成二十三年三月十一日
記憶に生々しい東日本大震災の日だ。

以上、
三月十日と十一日に起こったことは末永く語り伝えられねばならない。

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