大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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明治の日制定の眞義

平成31年2月6日(水)

一月二十九日に、
憲政記念館で「明治の日」制定を促す集会があった。
先に、昭和天皇の御誕生日である四月二十九日が
「みどりの日」という訳の分からん名称になっていたが、
「昭和の日」に復元された。
同様に、
「明治の日」制定の動きは、
明治天皇の御誕生日である十一月三日を、
「文化の日」から
「明治の日」に復元するものである。
 
そもそも、
明治天皇の御誕生日即ち天長節・明治節が「文化の日」とされたのは、
我が国を占領統治していた連合軍総司令部(GHQ)が、
我が国民から、
艱難辛苦に耐えて国家の尊厳を守った
「明治の歴史的記憶」を奪うためである。
では、GHQの占領統治が終了した遙か後の
昭和六十四年一月七日に崩御された
昭和天皇の御誕生日が、
何故、「みどりの日」とされたのか。
それは、
無念ながら、
GHQが我が国から去ってから現在に至るも、
我が国は「GHQ体制」即ち「戦後体制」の中にあるからだ。
従って、
「文化の日」を
「明治の日」に復元することは、
「戦後体制」からの脱却の一環である。
とはいえ、
一月二十九日の憲政記念館において
「明治の日」制定を促す論調の主流は、
「明治を回顧するため」
という次元に留まっているように感じた。
そこで、
「明治の日」制定の真義について述べたい。
 
歴史は、過ぎ去った日付の処にあるのではなく、
現在の我々と共にある。
従って、
歴史を奪われることは、
現在の我らの本質・アイデンティティーを奪われることだ。
それ故、現在の我々は、
明治を回顧するだけではなく、
明治を甦らせなければならない。
何故なら、
我が国が持つ地政学的宿命は、
近い将来に、
明治が克服した日清日露戦役を
遙かに超える国難に直面することを示しているからだ。
そして、この国難は、
明治の日本を甦らさねば克服できないのだ。
その為に、
我らは、歴史を取り戻し
「戦後体制」から脱却しなければならない。
「明治の日」制定は、
まさにこの為の重要な布石である。

「ローマ人がガリアを征服したのではない、
カエサルに率いられたローマ人がガリアを征服したのだ」
と言われるとおり、
抽象的な日本人ではなく、
明治天皇を戴く日本人が、
明治の御代において無道のシナとロシアを打倒したのだ。
また、
昭和天皇を戴く日本人が、
欧米の白人による有色人種差別と植民地支配なき
現在の世界秩序を打ち立てたのだ。
さらに、これからも、
万世一系の皇祚を践める天皇を戴く日本人が、
国難を克服し、
神武創業の初めに宣布さらた八紘一宇の精神に基づいて
明るいアジアと世界の幸せを切り開いてゆく。
つまり、
中国共産党独裁体制を打倒しなければ明るいアジアと世界は開けない。
 
このように、
明治を回顧するだけではなく、
明治を甦らせるために
「明治の日」の制定が求められるとするならば、
ことは、記念日の制定だけに尽きるものではない。
そこで、
明治天皇を戴く日本人が何を成し遂げたのか、
これを確認するべきだ。
まず、
本稿を諸兄姉が読まれる今は、二月から三月、
即ち明治三十八年の二月から三月にかけて、
元帥陸軍大将大山巌総司令官に率いられた
日本軍二四万九八〇〇名は、
満州の奉天に集結した三〇万九六〇〇名のロシア軍に肉薄して
三月一日に総攻撃を決行し、
日本軍左翼の旅順を墜とした第三軍が
ロシア軍三十万を包囲するために血を流して突出し、
十日間にわたる不眠不休の攻撃の末に、
ロシア軍を退却に追い込み、
三月十日午後五時頃、
奥第二軍の大阪第四師団隷下の
大阪歩兵第三七連隊(現在の陸上自衛隊第三七連隊)が奉天城内に日章旗を掲げ、
大山元帥が奉天会戦の勝利を宣言した。

まさに少数の日本軍が三十万のロシア軍を
包囲殲滅しようとした会戦だった。
ロシア軍は、
日本軍の死に物狂いの攻撃が二十四時間絶え間なく続くので、
日本軍は膨大な予備兵力を保有していると判断し、
包囲される恐怖に襲われ後退した。
しかし、日本軍に予備兵力はなかった。
日本軍兵士達は飲まず食わず眠らず攻撃を続けていたのだ。
この奉天の戦は、
世界陸戦史上空前の大兵力による会戦であり、
日本軍の戦死者は一万六五五三名、負傷者五万三四七五名である。
彼ら戦死者は
極寒の満州の荒野の上に黄塵に半ば埋もれて横たわっていた。
この戦場を馬で巡視していた総司令部付の川上素一大尉は、
同じく巡視していた石光真清少佐に次のように語った(石光真清著「石光真清の手記」)。

いつも戦場を巡って感じますことは、
このような戦闘は、
命令や督戦ではできないということです。
命令されなくとも、教えられなくとも、
兵士の一人一人が、
勝たなければ國が滅びるということを、はっきり知って、
自分で死地に赴いていおります。
この勝利は天佑でもなく、
陛下の御稜威でもございません。
兵士一人一人の力によるものであります
・・・さように考えることは、教官殿、けしからぬことでしょうか。

特攻は、
昭和の大東亜戦争だけであったのではなく、
明治の日露戦争においてもあったのだ。
その特攻は知られることのない満州の荒野で敢行されていた。
日本人は国家存亡の時には必ず十死0生の特攻をする。
何故なら、
日本は
天皇を戴く家族の国だからである。
子を守るために父や母や兄は、
咄嗟に命をかける。
家族だからだ。

この奉天大会戦の二ヶ月前の一月一日、
乃木希典大将率いる第三軍は
十三万の兵員を投入して
五万九四〇八名の死傷者(戦死一万五四〇〇名)を出して
ヨーロッパの軍事専門家が
セバストーポリ要塞を六つ合わせた力を持つと言われた旅順要塞を陥落させた。
そして、
第三軍は、
一月十三日に旅順に入場し、
十四日に雪が舞う旅順港を見渡せる水帥営北方高地で招魂祭を行い
十五日に奉天に向けて行軍を開始した。
即ち、
彼らは奉天で死ぬために
旅順から黄塵と雪の舞うなかを行軍していく。
そして、奉天で日本軍の左翼から
ロシア軍を包囲するために西北方向に突出するという最も過酷な任務を遂行した。
そして、
旅順を墜とした第三軍が迫って来た!
と敵の大将クロパトキンの神経を痛撃した。
奉天のロシア軍は難攻不落の旅順を墜とした
乃木希典と第三軍には悪霊がついていると恐れていたのだ。
旅順要塞が陥落しなかったら
奉天の勝利はなく、
我が軍はロシア軍に撃破され日本は滅亡していたであろう。
従って、
「明治の日」とともに
我が国家を存続させた奉天大会戦勝利の日である
「陸軍記念日」
を甦らさねばならない。
さらに、
この奉天での勝利も、
ロシアのバルチック艦隊に我が国の連合艦隊が負けていれば、
泡沫のように消え去り、我が国は滅亡した。
従って、陸戦に続く五月二十七日の
対馬沖でのバルチック艦隊撃滅という栄光の日本海海戦勝利の日である
「海軍記念日」
も甦らさねばならない。
明治の偉大さは、
この
「陸軍記念日」と
「海軍記念日」によって具体的に甦るのだ。
 
そこで、もう一歩進める。
この明治の帝国陸軍と海軍の救国の勝利をもたらしたのは誰か。
それは、全日本人である。
つまり、
この戦いの三十数年前の
幕末から維新期の内戦である戊辰戦争において、
賊軍とされた藩出身の日本人も、
官軍となった日本人も、
明治の御代において、
すべて明治天皇を戴き祖国を守るために戦った。
従って、本年、
靖国神社御創建百五十年に当たり、
幕末や戊辰の役
さらに明治十年の西南の役で
「賊軍」となった戦没者も
靖国神社に祀られるべきだと思う。
これらの役において敵味方に別れた人々も、
共に天皇を戴く日本人あった。
幕末の禁門の変において、
天皇のおられる御所に大砲をぶち込んで御所を攻めたのは長州で、
天皇の御所そして京都を守ったのは会津ではないか。
靖国神社御創建百五十年において、
もはや日本人同士の官軍と賊軍の区別をなくして
共に等しく近代日本を生み出す為に命をなくした英霊として祀られるこを願う。
先日、彰義隊の子孫の方が、
靖国神社に参るときに、
やはり賊軍の子孫だとおもえば肩身が狭いと言われたのを聞いた。
そして思う。
靖国神社の一の鳥居と二の鳥居の間の中心線に建てられた大村益二郎の銅像は、
移転させたほうがよい。
維新の元勲で陸軍と長州閥のボスである山県有朋が、
明治の二十数年に、あそこに大村の銅像を建てたようだ。
その大村の功績は、
陸軍の創設者の一人であり、
上野の彰義隊を潰滅させたことだと言われる。
しかし、
靖国神社は陸軍だけの神社ではないし、
彰義隊の乱は、
世界革命史上の奇跡と言われる江戸無血開城という大勢が定まった後の
一地方の局地紛争にすぎない。
これを、最新のアームストロング砲とライフル銃で一挙に粉砕したことが、
靖国神社の一の鳥居と二の鳥居の真ん中の
あそこに立つほどの功績か疑問だ。
五十年前の東大安田講堂に立て籠もった学生に、
百五十ミリ榴弾砲とバズーカ砲をぶち込んで
一挙に制圧するのと同じではないか。
靖国神社では、
「百万髑髏となる」(勝海舟)江戸市街戦を回避した
江戸無血開城の背後におられた、
まことに尊い皇女和宮と、
幕臣の勝海舟、山岡鉄舟そして薩摩の西郷隆盛を讃えるべきだ。
 
最後に、
「明治の日」が、
明治を甦らせる日であるならば、
「大日本帝国憲法」と
「教育勅語」と
「皇室典範」と
「帝国陸海軍」つまり「国軍」
も甦らさねばならないではないか。
「大日本帝国憲法制定史」(明治神宮編)を編纂された
大石義雄京大名誉教授の「跋文」を引用しておく。

大日本帝国憲法は、
明治天皇が
皇祖皇宗の遺訓を体して欽定されたものでああるから、
大日本帝国憲法の精神的基礎を成す日本思想を理解することなくしては、
大日本帝国憲法の制定史を語ることはできないのである。・・・
大日本帝国憲法は、現憲法から見れば旧憲法である。
しかし、社会は刻々として変わる。
占領目的達成の手段として作らされた現憲法も、
いつまでもつづくというふわけにはゆかないのであり、
いつかは変わらなければならないだろう。
その時は、
大日本帝国憲法の根本精神が
新憲法の名においてよみがえって来るだろう。
この意味において、
大日本帝国憲法は
これからの日本の進路を示す光として
今も生きているのである。
 昭和五十四年三月吉日

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