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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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日本人のことあるときに顕れる系譜

平成30年9月15日(土)

天皇がしらす國である我が国の歴史を振り返るとき、
古事記の日本武尊と、
身を捨てて荒ぶる海を鎮め愛する日本武尊を救った弟橘姫の物語から始まって、
武士(もののふ)や軍人また兵士ら、
そして、
民族の運命に選ばれたかのようにその場に遭遇した人々には、
自らの生を切断することによって、
後世に深く巨大な影響や思想を与える人々の系譜があるように思える。
 
平成三十年九月八日、
鹿児島の錦江湾を見晴るかす丘にある南洲墓地を訪れた。
そこには、西郷隆盛の墓を中心にして
西南の役を戦って戦死した二千余の薩摩軍将士の墓が、
桜島に向かって整然と直立している。
その墓群の中に佇んでいる時、
明治維新の勲章をぶら下げた元勲達が、皆その名を忘れられた後においても、
日本が日本である限り、西郷南洲の名は、日本人に忘れられることはないと感じた。
まさに魂魄を留めた如き凄まじい存在感を、
没してから百四十年後の現在に照射しているこの「西郷南洲」とは、何であろうか。
 
明治十年九月二十四日、
午前四時から開始された城山を包囲する官軍の西郷軍に対する総攻撃が終わった後、
この墓地の近くで、
官軍の山県有朋参軍は、
砂の付いた西郷の首を清水で洗わせてから両手で受け取って、
西郷を凝視した。
 
この時のことを、江藤淳は次の通り記している(同氏著「南洲残影」)。
 
 このとき実は山県は、
 自裁せず戦死した西郷南洲という強烈な思想と対決していたのである。
 陽明学でもない、『敬天愛人』ですらない、国粋主義でも、拝外思想でもない、
 それらをすべて超えながら、
 日本人の真情を深く揺り動かして止まない『西郷南洲』という思想。
 マルクス主義もアナーキズムのそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、
 日本人はかつて『西郷南洲』以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった。
 
この江藤淳の言う「西郷南洲」も、
万世一系の天皇のしらす國である日本に生まれた者である。
それ故、沖永良部島で虜囚の身であった頃に詠んだ漢詩「獄中所感」の最後を、
西郷は、次のように結んだ。
「生死何ぞ疑わん天の附與するを、願わくば魂魄を留めて皇城を護らん」。
そして、その言葉通り、
生を終えるまさにその時、
西郷は、遥か東方の天皇陛下を拝して別府晋介に首を打たせた。
即ち、西郷も、
我が国の歴史のなかの、
自らの生を切断することによって、
巨大な思想を後世に与える人々の系譜のなかにある。
よって、ここにおいて、
四方海に囲まれる我が国の歴史における唯一の本土への大規模な武力侵攻を撃退した
宗助國らが戦った元寇以来、
三島由紀夫の自決に至る、この系譜を概観したい。
 
文永十一年(一二七四年)十月、
蒙古軍は、兵三万数千、軍船九百艘で玄界灘の対馬を襲い小茂田浜に上陸してきた。
この蒙古軍を迎撃したのは、
時に六十八歳の対馬守護代宗助國以下八十四騎である。
彼ら八十四騎は、数千の蒙古軍を相手に、
寅の刻(午前四時)から辰の下刻(午前九時)まで実に五時間にわたって勇戦奮闘し、
最後は突撃して全員戦死した。
その時、彼らは微笑みながら突撃した。
蒙古軍の大将、忻都(キント)は
「私はいろいろな國と戦ってきたが、このような恐ろしい敵と出会ったことはない」
と驚いた。
この時の小茂田浜の地形は現在と異なり、海は現在よりも数キロも山に迫り、
上陸した数千の蒙古軍と馬は左右から山に挟まれる狭い浜にひしめき合った。
この地形が八十四騎で数千の敵を相手に五時間の奮闘を可能にした。
 
そして、この文永の役から五十九年後、
河内の楠木正成が金剛山麓の山が左右から迫る千早に入ってきた
三十万の鎌倉幕府軍を少数で迎撃しゲリラ戦で撃退した。
対馬の小茂田浜と河内の千早の地形は似ている。
楠木正成は、
五十九年前の対馬の宗助國の戦い様を研究していたはずだ。
その三年後の建武三年(一三三六年)五月二十五日、
楠木正成は、後醍醐天皇の命を受け、七百騎を率い、兵庫の湊川で数万の足利軍を迎撃し、
六時間に十六回の突撃を繰り返した後に
「七度生まれ変わって朝敵を討たん」と誓い微笑んで弟とともに自決した。
 
この楠木正成の峻烈な忠孝の志と死に臨んだ誓いは長く語り伝えられ、
三百五十六年後の元禄五年(一六九二年)、
水戸の徳川光圀は、湊川の楠木正成戦死の地に、
楠公の忠孝と武勇を顕彰し、
後世の日本人が天皇を戴く日本の忠孝の道義に目覚めるように、
巨大な碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建てた(湊川建碑)。
以後、
この墓にぬかずき碑文に発憤する者が年々増えていき、
広く庶民に至る迄楠木正成の忠孝を知るに至る。
それ故、
建碑から十年後の元禄十五年(一七〇二年)、
播州赤穂藩家老大石内蔵助と赤穂浪士四十七人が、
主君浅野内匠頭の無念を晴らすために幕府高家筆頭吉良上野介の首を取った時、
江戸の庶民は
 楠の今大石になりにけるなおも朽ちせぬ忠孝をなす
と詠んだ。
楠木正成が、大石内蔵助に生まれ変わって吉良の首を取り忠孝を尽くしたという。
吉良の家は、足利の本家筋の名門であった。
 
なお、大石内蔵助以下赤穂浪士の思想は、山鹿素行によって形成された。
山鹿素行は、天皇を戴く日本こそ万邦無比の國であり中華であると説き、
「中朝事実」を書いた儒者軍学者である。
幕府によって江戸を追放され赤穂藩に来た山鹿素行は、
大石内蔵助らにその尊皇忠孝の教えを説いた。
時に幕府の方針は、禁中並びに公家諸法度等を定めて
天皇と朝廷を全て京都所司代の統制下に置くというものである。
従って、高家筆頭の吉良上野介は、
この幕府の方針通り、江戸に来る天皇の勅使を待遇しようとした。
しかし、赤穂の浅野内匠頭は、
山鹿素行の教えを受けた尊皇の藩主である。
その吉良上野介を天皇に対する不敬者と看た。
ここに、とっさの刃傷の原因がある。
よって、大石等四十七士は吉良の首を取って主君のその無念を晴らしたのだ。

亡き山鹿素行から観れば、
赤穂浪士達の決起は自らの思想、尊皇の志の実践である。
 
この赤穂事件即ち忠臣蔵として語り伝えられてきた事件は、
江戸時代における我が国の国民精神に最大の影響を与えた事件であろう。
従って、昭和二十年九月二日から我が国に進駐して統治したGHQ(連合軍総司令部)は、忠臣蔵の映画演劇を禁止したのだ。
また、明治三十八年九月のアメリカのポーツマスにおける
日露戦争の講和条約締結の仲介をしたセオドア・ルーズベルト大統領は、
仲介の労を執った理由として日本全権の小村寿太郎に
「少年の頃、忠臣蔵の物語を読んで血湧き肉躍ったからだ」と述べたという。
 
幕末の志士たちで楠木正成を思わない者はいない。
吉田松陰は、短い生涯のなかで、三度、湊川の「嗚呼忠臣楠子之墓」に参り
「楠木兄弟は未だ死なず」と泣いた。
この松蔭の安政の大獄に連座してからの死に急ぐような姿は、
楠木と同じ、「死しても死なない」という確信の故かと思う。
満二十九歳で伝馬町牢屋敷で斬首されるときに詠んだ松蔭の
 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
はその確信を示している。
 
この幕末維新を経て、
我が国は、国家の存亡をかけて日清、日露戦争そして大東亜戦争を戦う。
その戦場に赴く将兵で、
楠木正成の「七生報国」、「死して生きる」を意識しない者はいない。
楠木正成は日本が日本である限り甦り続けてきた。
軍司令官から戦死確実の作戦を命じられた指揮官は、
「つまり閣下は、私に湊川をやれと言われるのですな」
とつぶやき、
「俺は湊川をやる」と納得して死地に赴いた。
昭和二十年四月二十二日午前十時、
台湾の桃園飛行場から沖縄に特攻出撃した若い十四名の陸軍特攻隊員は、
「いまここで死ぬのが自分にとって最高の生き方です」
と言って飛び立っていった。

そして、この系譜は、現在に繋がっている。
東日本大震災の際、多くの人々は、
あの巨大な津波に向かって走ってゆく警察官の最後の姿を見ている。
同じ頃、南三陸町危機管理課職員遠藤未希さん(二十四歳)は、
午後二時四十六分から三十分にわたって防災庁舎二階から
「大津波警報が発令されました。高台に避難してください。」
「六メートルの津波が予想されます、逃げてください」
「異常な潮の引き方です、逃げてください」
と、津波が目前に迫るまで町民に対して避難を促す放送を続け、津波にのまれ殉職した。
さらに、
福島第一原発の爆発して破壊された灼熱の原子炉建屋の真上にホバリングして、
約四十トンの水を落とした二機の巨大ヘリCH47チヌークを世界が見た。
中共軍の将校は自衛隊の将校に、
日本人は、戦前戦後、まったく変わっていない。簡単に命をかけてくる。
と言い、アメリカ軍将校は、
人の命を何とも思わないような作戦をするな、
と言った。
 
戦後の昭和四十五年十一月二十五日に
市ヶ谷台で自決した三島由紀夫も
「いまここで死ぬのが、日本人として最高の生き方」
と思い決したはずだ。
晩年の三島由紀夫は、
西郷南洲に、まるで自分に語りかけるように、
次のように語りかけている。
 あなたは賊として死んだが、
 すべての日本人は、
 あなたをもっとも代表的な日本人とみています。

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