大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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明治を現在に甦らせる

平成30年7月18日(水)

明治を現在に甦らせよ!
先日の産経新聞の
「明治ルネッサンスで時代に新風を」と題する「正論」は、
新保祐司氏が執筆し、
明治という時代には
「まさに『明治の栄光』というトーンがふさわしい」
と述べた上で、次のように結んでいる。

日本についての痛切な自覚に基づいた
明治の精神のトーンを
よく耳を澄まして聞きながら、
今日のグローバルな世界の中での日本の独立自尊の進路を
雄々しく決断していかなければならない。

実に、明治百五十年を閲する本年にふさわしい「正論」であり、
激しく同意する。

実に我々は、
これからのグローバルな世界の中で
独立自尊の進路を雄々しく決断する為には、
まず、
(1)明治を見つめて、明治の精神のトーンに耳を澄まし、
そのうえで、
(2)明治と現在の連続性を回復しなければならない。

その意味で、作家の司馬遼太郎が
日露戦争を戦った明治人に焦点を当てた歴史小説、
「坂の上の雲」を書いたのは、
(1)を為したことでありさすがである。

しかし、司馬遼太郎が、
その「坂の上の雲」を、
愚劣な「昭和という国家」とは切断された
栄光の「明治という国家」の物語だとしたことは、
(2)を不能にすること、
即ち、回復しなければならない明治と現在の連続性を否定して、
我が国から独立自尊の進路決断の前提である
「日本」を奪うことであり、
同時に、これは、司馬個人としても
左翼と同様の自らの生きた時代を否定する、自殺だった。
それ故、彼は、左翼のように
大切なことに蓋をして、重大な嘘を言ったり書いたりした。


さて、新保祐司氏の指摘している
「栄光の明治」とは何であるか。
それは、徳川幕藩体制から脱却して近代化に歩み出す明治維新から
三十有余年の全国民の辛苦をへて
世界最大の陸軍強国、帝政ロシアに勝利し
我が国の「独立自尊」を確立したことだ。
従って、私は、
明治維新百五十年を「祝い」ながら、
その明治維新の目的を達成し、
現在の我々が、日本人として生まれた前提条件である独立自尊を達成した
日露戦争勝利を無視してはならないと主張している。
従って、その勝利を決定付けた
陸上戦闘では、
明治三十八年三月十日の「奉天会戦勝利」の「陸軍記念日」
海上では、
同年五月二十七日の「日本海海戦勝利」の「海軍記念日」
を祝うことは、
明治維新百五十年の本年、大変重要なことと確信する。

しかるに、明治維新百五十年を喧伝しながら、
その明治の栄光であり国民の苦闘の結実であった
「日露戦争」を無視し続ける現在の風潮は、
どこから来たるのであろうか。

新保祐司氏の「正論」を読み、この疑問を甦らせると、
思い浮かぶのは、
司馬遼太郎だ。
つまり、戦後体制の中で、
一世を風靡した明治期の歴史小説「坂の上の雲」を書いて国民に大きな影響を与え、
明治期の「明治という国家」と昭和期日本の落差と、
日本軍の劣化を指摘して止まず、
果ては、非戦闘員である国民を戦車で轢き殺せと叫ぶ
大本営参謀が牛耳る軍部というモンスターが日本を滅ぼしたと
独特の文章と話術で国民を説得した
司馬遼太郎に
行き着いたということだ。
そして、思う。
今、必要なことは、司馬遼太郎の虚構を暴くことではないか。

そこで、明治と昭和の連続性を実感する為に、
三つばかり司馬遼太郎に関して記しておきたい。

(A)司馬遼太郎が昭和の戦いを書けなかった理由
司馬遼太郎は、明治の日露戦争は書けた。
しかし、昭和の戦争は書けなかった。
その理由は、昭和においても、日本軍は、
日露戦争の旅順要塞を陥落させ
奉天会戦に勝利した明治の日本軍と同じで
世界が驚嘆する強さを示したからだ。
司馬遼太郎にとって、
日本は昭和には「劣化」していなければならなかった。
しかし、そうではなかった。
だから、司馬遼太郎は昭和を書けなかったのだ。

特に、戦車に乗って戦う予備少尉であった司馬遼太郎は、
ノモンハンの戦いを書こうとしていたらしい。
スターリンの発表したノモンハンでのソ連の戦果では、
劣化した日本軍がこてんぱあにやられていたからだ。
しかし、現実は、
その反対だった。
広大なノモンハンにおいて、
たった一個師団(第23師団)二万人の日本軍が、
二十三万の機械化されたソビエト軍を滅多打ちにしていた。

空中戦に関しては、
撃墜されたソビエト機は一六七三機、
撃墜された日本軍機は一七三機
戦車戦に関しては、
破壊されたソビエト軍戦車は八〇〇台
破壊された日本軍戦車は二九台

ノモンハンの「ホロンバイルの荒鷲」といわれた陸軍航空隊の一人で
一日十一機を撃墜した記録を持ち
全部で五十八機のソビエト機を撃墜して戦死した
「東洋のリヒトホーヘン」
といわれた篠原弘道陸軍少尉(二十六才)は、
陸軍航空隊で満州を飛んでいた私の叔父の東儀正博の後輩である。

戦車兵であった司馬遼太郎にとって、
我が国の戦車は、ヤスリでこすれば装甲が破れるほど脆弱であらねばなかった。
しかし、脆弱だったのはソビエト軍の戦車で、
日本軍は、ソビエト軍の戦車八百台を破壊している。
だから、司馬遼太郎は、
ノモンハンを書けなかったのだ。
つまり、彼は、昭和の日本人が明治の日本人と同じく
勇敢で優秀であるという事実を書くのがいやだったのだ。

(B)昭和の軍隊は劣化し、残虐なモンスターとなっていたことを示す為に、
司馬遼太郎は、部隊に来た大本営の少佐参謀の、
次の発言を書いたり話したりした。
この大本営の少佐参謀は、
司馬遼太郎の、
「敵が上陸してきたら、戦車隊は南下するが、
その時、東京からの避難民が同じ道を北上してくるので、
わが八十両の戦車は立ち往生する、どうすればよいのか」
という質問に対して、
ごくあたりまえな表情で、
「轢き殺してゆく」と答えたという。
しかし、歴史家の秦郁彦氏の調査によると、
このような少佐参謀がいた形跡はない。
司馬遼太郎自身が、
大本営の少佐参謀と少尉候補生が
会話ができるはずがないと言っていたようだ。

(C)何故、司馬遼太郎は
戦車学校教官(後に校長代理)の池田末男大佐(陸士34期)のことを
書かなかったのか。
司馬遼太郎は、昭和十七年、学徒動員で戦車隊に配属され、
戦車学校に学び少尉候補生になった。
池田末男大佐は、昭和十六年戦車学校教官となり十九年七月に校長代理の時に
第十一戦車聯隊(士魂部隊)の連隊長となり
千島最北端の占守島に赴任した。
昭和二十年八月十五日の、
我が国のポツダム宣言受諾による武装解除に入った後の
八月十八日午前一時三十分、
ソビエト軍がカムチャッカ半島から占守島に砲撃を加え、突然、島に上陸してきた。
第五方面軍司令官樋口季一郎中将は、ソビエト軍侵攻の報に接し、
「断固、反撃に転じ、ソビエト軍を壊滅すべし」
との命令を発した。
第十一戦車連隊池田末男連隊長は、白装束に日の丸の鉢巻きをして、
直ちに三十七両の戦車を率いて出撃し、戦車の砲塔に跨がって指揮を執り、
ソビエト軍に多大の損害を与え上陸地点に押し戻し追い詰めた。
この日から翌十九日までの戦闘で、
ソビエト軍の死傷三千人、我が軍の死傷六百人であった。
ここで、我が軍がソビエト軍に対して大攻勢をかければ、
ソビエト軍は壊滅するところであったが、
ポツダム宣言受諾後のことであり、
我が軍は攻勢を中止し、停戦交渉に入り、二十一日に停戦成立により降伏した。
この占守島の戦闘で池田末男大佐は戦死するが、
彼の勇戦奮闘は、ソビエト軍を震え上がらせ、
ソビエト軍の千島侵攻、さらに北海道侵攻の計画を遅らせた。
この池田末男大佐らの戦いは、
日本つまり北海道を救う戦いであった。
なお、ソビエト軍の
択捉島侵攻は、八月二十八日、
国後・色丹侵攻は九月一日、
歯舞侵攻は九月三日、
ロスケとはこういう人種だ。

現在、陸上自衛隊の北海道駐屯の第十一旅団隷下の第十一戦車大隊は、
池田末男連隊長の第十一戦車聯隊が「士魂部隊」と呼んでいたのを受けて、
「士魂戦車大隊」と呼ばれている。

この自分の戦車学校の教官である池田末男大佐の
北限の島である占守島での祖国を守るための勇戦奮闘を書こうとしなかった
司馬遼太郎はという作家は、
結局、左翼と同じで、
「日本は良い国だ」と言った空幕長を更迭する側の作家であろう。

ともあれ、この司馬遼太郎という、
司馬遷を意識した名前を自らにつけた、
一世を風靡した作家の影響力に意識せずに覆われて、
「明治という国家」と「今の我らの日本という国家」が、
全く違う国家であると思っていては、
「明治の精神のトーンをよく耳を澄まして聞きながら、
今日のグローバルな世界の中での
日本の独立自尊の進路を雄々しく決断すること」
は不可能である。
よって、
まず、「坂の上の雲」と現在の連続性を確認しよう。

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