大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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昭和天皇と明治

平成28年4月30日(土)

 四月二十九日は、昭和天皇のお誕生日である。
 従って、「天長節」、戦後は「天皇誕生日」として久しく国民の祝日とされ、
 現在は、「昭和の日」という祝日であるが、
 昭和天皇の崩御の後、長年この日は「みどりの日」とされていたのだ。
 つまり、我が国政府は、「四月二十九日」から、歴史を奪ったのである。
 しかし、長年にわたる国民有志の歴史回復の運動が、
 四月二十九日に、「昭和」という記憶を回復させた。
 私は、国会の質疑において、その歴史回復の最初の提起をさせていただいた。

 また、前回書いたように、
 前日の四月二十八日は、我が国が「主権を回復」した日である。
 それ故、平成二十五年の四月二十八日、安倍内閣は、
 天皇皇后両陛下のご臨席の下に「主権回復記念式典」を挙行して
 「主権を回復」した日の「歴史を回復」した。
 しかし、この日の「歴史を回復」すれば、戦後の封印が開き、
 憲法の回復、教育の回復そして軍隊の創設という明解なる結論がでてくる。
 従って、安倍内閣は、恐ろしいものを見た子どものように、
 以後、四月二十八日の歴史を忘れたふりをしている。
 昭和天皇のお誕生日を、
 「みどりの日」として済ませた戦後体制に逃げ込んだのだ。

 
 さて、昭和と明治は不可分であり、平成の現在も明治と不可分である。
 従って、国民の祝日における「歴史の回復」は、
 十一月三日を「明治の日」とすることによって達成されなければならない。
 明治こそ、昭和を産み平成の現在を生み出した豊かな力強い母であるからだ。

 昭和天皇は、明治三十四年(一九〇一年)四月二十九日にお生まれになった。
 明治天皇は、昭和天皇の初等教育を陸軍大将乃木希典に担わせるため、
 乃木大将を学習院院長に任命された。
 明治四十一年、裕仁親王殿下(後の昭和天皇)が学習院に入学されると、
 乃木大将は勤勉と質素を旨として裕仁親王殿下の教育に専心し、
 裕仁親王殿下は、乃木大将を「院長閣下」と呼ばれた。
 明治四十五年七月三十日、裕仁親王殿下十一歳の時に、
 明治天皇は崩御された。
 同年九月十日、乃木大将は、
 皇太子となられた裕仁親王殿下に山鹿素行の「中朝事実」を渡して「熟読するように」と申し上げた。
 裕仁親王殿下は、乃木の様子を見られていて、
 「院長閣下は、何処かに行かれるのですか」と言われた。
 三日後の九月十三日、明治天皇の御大葬の日の午後八時、
 天皇の霊柩の皇居出発を告げる号砲が発射された。
 その号砲が鳴り響くなか、乃木希典は割腹して明治天皇の後を追って殉死した。
 翌日、乃木希典大将、割腹殉死のことを侍従から聞かされた
 裕仁親王殿下は、「落涙された」。
 昭和天皇実録が伝える天皇の落涙は、
この乃木希典の死を知られた時だけである。

 まさに、明治天皇と乃木希典そして明治は、昭和天皇の根底にある。
 そして、その根底の明治が、昭和における我が国の運命を決する時に顕れた。

 それは、昭和二十年八月十日午前二時二十分の
 昭和天皇のポツダム宣言受諾の御聖断の時と、
 翌年、昭和二十一年一月一日に、
 昭和天皇が、国民に「新日本建設の詔書」を発せられたときである。

 御聖断に際して、天皇は次のように言われた(木戸日記)。
 「忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等、
 それらの者は忠誠を尽くしたる人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。
 しかし今日は忍び難きを忍ばねばならなぬときと思う。
 明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲び奉り、
自分は涙をのんで原案に賛成する。」

 それから、五か月後の昭和二十一年一月一日の「新日本建設の詔書」において、
 昭和天皇は、冒頭に、
 「茲に新年を迎ふ。
  顧みれば明治天皇、明治の初め国是として五箇条の御誓文を下し給へり」
 と述べられ、五箇条を掲げられ、
 「叡旨公明正大、また何をか加えん。朕は茲に誓いを新たにして国運を開かんと欲す」
 と宣言せられた。

 つまり、昭和天皇は、
 戦を止めるときに、
 明治天皇の御心持を思われ
 敗戦後の日本の進路は、
 明治天皇の下された明治維新における
 五箇条の国是に基づくことを宣言されている。

 これが、「昭和」なのだ。
 従って、
 昭和天皇のお誕生日の「昭和の日」と
 明治天皇のお誕生日の「明治の日」は不可分である。

 最後に、昭和天皇の侍従次長を勤めた木下道雄氏が伝えている
 昭和天皇に、明治天皇と乃木希典が生きていることを示すエピソードを書いておく。

 昭和天皇の即位の大礼が行われる昭和三年のこと、
 奉祝行事で最も大規模なのが十二月十五日午後二時より一時間二十分におよぶ
 大学、高校、中学生および在郷軍人ら約五万人の代々木練兵場で挙行された分列行進と
 三万の女子による奉祝歌奉唱だった。
 
 八万の青年男女は、前日の十二月十四日から都心にあつまり待機していた。
 しかし、当日の十五日は夜明けから寒風のなかの豪雨となった。
 そして、八万の青年達は雨宿りする場所もなく朝から豪雨の中で待機していた。
 
 他方、準備方は、御座所と大臣席の上に天幕を張って陛下が濡れないように準備した。
 大臣が陛下に「天幕のなかでの親閲」とお伝えすると、
 陛下は、
 「司令官でも、時と場合によっては、第一線に立つことがある。
 今日はそのつもりであるから、天幕は取り除くように」と言われた。
 
 天幕の撤去が始まった。
 それを観た人々は、式が中止になるのかと思った。
 陸軍の本部から今村均中佐の部下のずぶ濡れの将校が走ってきて、
 式を中止されるのか、と侍従次長に尋ねた。
 侍従次長は、
 式は挙行する。天幕は陛下の思し召しによって撤去している、と答えた。
 その答えを聞いた将校の濡れた顔に、
 非常な感激の表情が表れた。
 
 彼は、走って陸軍の本部に帰り、陛下の思し召しを伝えると、
 本部からは数組の伝令が朝から雨の中で待機している八万の青年達に
 天幕の撤去は、陛下の、
 君たちが濡れるなら、わたしも濡れよう、
 という思し召しであると伝えられた。
 
 それを聞いた青年達の様子を侍従次長は次のように書いている。
 「感激の嵐、急に熱い火の玉が、からだの中を走り始めたのであろう。
 皆いちどきに、雨の中で外套を脱いでしまった。」
 また某女学校長の和歌
  天幕をとり払えとの御言葉に 若人の顔かがやきにけり

 午後二時、陛下が二重橋から式場に到着された。
 侍従が、陛下の後ろからマントをお掛けした。
 陛下は、四段ばかりの階段を上られ、台上に立たれた。
 そして、マントを脱ぎ捨てられた。
 君が代の軍楽、全員の捧げ銃がなされ式場は厳粛なる空気に包まれた。
 そして、陛下は、
 寒い雨の中を微動だにせず、
 一時間二十分にわたって目の前を通る部隊に挙手の礼を賜られた。
 
 式後、侍従次長が陛下のお立ちになった玉座を見ると、
 台の上に敷いてあった絨毯の上に、砂のついた靴の跡が、
 少しも乱れず六十度の角度できちんと残されていた。
 
 皇居にお帰りになった陛下に侍従次長が、
 何故、マントをお脱ぎあそばされたのか、とお尋ねしたところ、
 「皆が着ておらぬから」
 との御言葉であった。
 陛下は、数万の青年達も雨具や外套を着ていると思われていたらしい。
 それで、マントを掛けたまま式台に登られた。
 しかし、台上から見ると一同が雨具も外套も着ていなかった。
 それならば、自分もと台上でマントをお脱ぎになったのだった。

 明治天皇は、日露戦争時、
 食事は兵隊野戦場食を食され、部屋の暖房を許されなかった。
 侍従がお体にさわるので暖房を入れていただきたいと願うと、
 天皇は、
 兵は極寒の満州で戦っておるぞ、と言われた。

 その満州で戦ってきた乃木希典大将は、学習院長として、
 昭和天皇となられる裕仁親王殿下を質素倹約を旨として教育し、
 裕仁親王殿下は、
 雨の日も風の日も徒歩で学習院に通われた。

 私は、昭和天皇のことを知れば知るほど、ありがたさに涙する。
 昭和天皇は、
 偉大な方だとか偉いかただとかいう一般の人間に付ける形容詞では捉えられないお方である。

 昭和六十一年五月十一日、
 大阪の堺市にある仁徳天皇御陵前の大仙公園で全国植樹祭が行われた。
 私は、昭和天皇をお迎えするために、
 仁徳天皇御陵前の道路脇に並んで幼い長男の手を握り赤子の娘を抱き上げて立っていた。
 すると、なにか空気が変わったような不思議な空間、にいるような気になったと思ったら、
 目の前を
 昭和天皇の乗られた車が動いていった。
 車のなかの天皇のお姿は、
 あわあわとして幻のようであった、
 が、強烈に今も目に焼き付いている。
 数年前、多摩の昭和天皇の御陵前の砂利の上に靴を脱いで正座し、
 「あの時、幼児二人を連れてお迎えした臣眞悟です」と申し上げた。

 本日早朝、
 あの時お迎えした道路を歩いて
 仁徳天皇御陵に参拝し、
 御皇室の弥栄と日本の安泰をお願いし祈った。
 

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