大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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楠木正成の余韻、金剛山を思い出した

平成28年4月5日(火)

 昨日の時事通信は、産経新聞の
 「楠木正成考 第一部多聞誕生」の連載に関連して書いた。
 すると、その余韻が、
 楠公さんが活動した和泉・河内で育った少年の頃の記憶を甦らせた。
 いつも東に、圧倒的な重量感をもって聳える大阪府最高峰の金剛山が見えた。
 その余韻を付記しておく。

 堺の榎小学校三年生(昭和三十二年)の遠足で、
 南海高野線河内長野駅から上り坂を観心寺まで歩いてそこでお弁当を食べた。
 今は自動車の走る二車線の舗装道路だが、
 その時は、谷の底の登山道のような地道だった。
 
 観心寺は、楠木正成が幼名の多聞の時、学問に励んだ寺で、
 正成が、命をかけて仕えた後醍醐天皇の皇子で
 第九十七代の後村上天皇の御陵がある。
 そして、
 湊川で戦死した後に足利から千早に送り返された正成の首塚がある。
 
 河内長野駅から観心寺までの往復は、かなり遠路の遠足である。
 今は歩いていこうと思う人はいないであろう。
 しかし、遠足後に父から、
 戦前は、金剛山に登るときは、河内長野駅から歩くのが当たり前だったと聞いた。
 これが金剛山への当然の普通の登山ルートであると、
 現代人で思いつく人はいない。それほどの長距離である。

 文永三年(一八六三年)八月十五日に堺の港に上陸した天誅組は、
 十六日狭山で鉄砲弾薬などの武器を調達し
 十七日未明狭山を出発し、河内長野から戦前に父が歩いた金剛山への道を急ぎ、
 山頂の南の千早峠を越えて大和に入り、
 山麓を駆け下りて五条代官所を襲い代官の首を挙げ、
 天朝直轄地と宣言した。
 
 天誅組は狭山から大和の五条までの山岳地帯の道を一挙に走ったのだ。
 この行軍速度も尋常ではない。
 
 中学生の時に、自転車で観心寺によく登った。
 その時、楠木正成首塚に面して建てられた古い碑を見つけて刻まれた文字をかろうじて読んだ。
 そして、その碑によって、
 天誅組が五条へ討ち入る前に、この楠木正成の首塚に参っていたことを知った。
 彼らが五条まで走り、父が山頂まで登った道を、現在、国道310号線が通っている。
 
 しかしこの道は、元弘元年(一三三二年)から元弘三年にかけて
 数十万の鎌倉幕府軍が攻め寄せた道ではない。
 
 幕府軍は、この道(谷)の北側の山を越えた下にある谷の底の道を行軍してきた。
 この二つの谷は金剛山の直下で結合し、
 そこから登山道は急に勾配がきつくなり金剛山山頂(一一二五メートル)に至る。
 その二つの谷の結合点の上の標高六百七十四メートルの地点に
 正成が立て籠もって遊撃戦を展開した千早城がある。
 この城は現在の道路からも五百段の石段を登ったところだ。
 とはいえ城とは言っても金剛山支脈の独立峰の頂上で、
 その頂の広場は、武装した武者が百人も集結すれば満杯になる狭さである。

 そこで、幕府軍が千早城に向けて行軍してきた道であるが、
 その道を見下ろすところの右(南)峰に下赤坂城、
 左の峰に上赤坂城が設置されており、
 一番奥に千早城がある。
 この道は、現在の棚田の下の谷を流れる川に沿った十キロほどの道である。
 何十万の軍勢でも、
 この谷に入れば、二列くらいで進むしかない。
 軍勢を食わせる食料隊を襲って搬入を阻止すれば、
 谷に入った部隊は飢えるしかない。
 そして、攻撃の自由(何時、何処を攻めるか攻めないかを決める自由)は正成にある。

 大軍勢の幕府軍は、
 この谷で正成の遊撃戦に翻弄されくたくたになり、戦線は膠着した。
 そして、これを見た全国の悪党が、各所で反幕府で立ち上がり、
 あっけなく、幕府の本拠である鎌倉が陥落して
 北条高時ら約三百名が自決して幕府が滅亡した(一三三三年)。
 この鎌倉幕府の滅亡は、
 千早赤坂から起こった。

 次は私の独断である。

 この鎌倉幕府の滅亡をもたらした千早赤坂の戦いの五十九年前に、
 遙か対馬の小茂田浜で、
 対馬守護代宗助国(六十八歳)率いる八十四騎が、
 九百隻の軍船から上陸してきた蒙古軍を迎撃し、
 五時間の戦闘の後、突撃して全員玉砕した。
 
 敵の大将忻都(キント)は、
 「自分はいろいろな國の敵と戦ってきたが、
 このような恐ろしい敵に出会ったのは初めてだ」
 と言った。
 
 私の疑問は、何故、宗助国らは、
 八十四騎で一万を超える敵を相手に五時間も勇戦奮闘できたのか
 ということであった。
 そして、小茂田浜に行き、地形を観た。
 元の上陸した頃は、今よりも二キロほど海は陸に入っていたという。
 
 その地形を観れば、千早赤阪とそっくりなのだ。
 
 つまり、上陸適地の小茂田浜から陸の奧に進もうとすれば、
 すぐに両側が山に囲まれた川の流れる谷の底を通らざるをえない。
 ここを蒙古軍は馬とともにひしめきながら進んできた。
 そこを見下ろした宗助国らは、
 矢を射り、石を投げ落とし、木を切り倒して道を塞いで
 五時間も勇戦奮闘し、
 その後に突撃して敵軍の中で暴れ回って玉砕した。
 その玉砕の報が、鎌倉の北条時宗に伝わったとき、
 日本は、元軍撃退のため一丸となる。
 宗助国の玉砕は、我が国の新しい時代を開いたのだ。

 宗助国は、小茂田浜で楠木正成が五十九年後にやったことをした。
 楠木正成は、千早赤坂で宗助国が五十九年前にやったことをした。
 正成は、五十九年前の
 元の大軍との宗助国の戦いのありさまを学んでいたに違いない。
 そして、両者は、ともに現在に至るまで救国、護国の勇者である。

 最後に、多聞小学校のこと。
 千早城から五百段の石段を下りれば、今は自動車道に出る。
 そこから急坂を下りたところの台地、
 つまり、赤坂城を首を曲げて見上げるところに多聞小学校があった。
 言うまでもなく、その名は、
 楠木正成の幼名、多聞に由来している。
 
 先日、その多聞小学校跡の台地に降りて、
 「学校沿革史」と彫られた碑を見た。
 碑には次のように刻まれている(以下、原文通り)。
 
   一八七四年、明治七、十一、二五  千早分校として開校
   一九〇一年、明治三四、一、一〇  多聞尋常小学校と改称
   一九四七年、昭和二二、四、一  千早村多聞小学校と改称
   二〇〇七年、平成一九、三、一八  創立一三三周年をもって閉校
    卒業生  一六一七名

  楠木正成は、日本人が日本人である限り、必ず、繰り返し甦る。
  そして湊川をした
  西郷南洲も、日本人が日本人である限り、必ず繰り返し甦る。

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