大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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三月十日と十一日

平成28年3月11日(金)

 明治三十八年(一九〇五年)三月十日午後二時頃、
 第二軍司令部から放たれた永田久寿弥太中尉以下八名の将校斥候は、
 奉天城の大南辺門から清国人の群れがロシア軍のものと思われる軍服や食料寝具を担ったり馬車に積んだりして運び出してくるのを見た。そして、斥候は、之は清国人のロシア軍物資の略奪、つまり、ロシア軍は奉天城から退却したと判断し、意を決して門内に入って偵察して帰路につき、
 午後三時頃、司令部に「奉天城内に敵影なし」と報告した。
 
 午後五時頃、第二軍(司令官奧保鞏大将)第四師団(大阪)隷下の
 大阪歩兵第三七聯隊(現、陸上自衛隊第三七普通科連隊)第二大隊は、
 奉天城に入城し、各門に小隊を配置して警備したうえで、
 日章旗を掲げて城内中央に進み、
 第二大隊長河村義男少佐が増祺奉天将軍に面談し、
「城内のロシア敗残兵掃蕩の要あり。我が軍を以て、宮殿及び官衙を保護せん」
 と述べ奉天城占領を通告した。
 
 そして、満州派遣軍総司令官大山巌元帥は、「奉天会戦終結」を宣言し、
 世界戦史上最大の陸上戦闘となった奉天会戦が日本軍の勝利で終結した。

 奉天の会戦は、
 奉天を本拠地に布陣した膨大なロシア軍三〇万九六〇〇名(砲数千二百門)を
 少数の日本軍二十四万九八〇〇名(砲数九百九十門)が、
 両翼から包囲殲滅せんと攻勢をかけた驚くべき闘いだった。
 
 日本軍の総攻撃は三月一日に下命され、
 三月七日、日本軍の左翼から乃木希典軍司令官率いる第三軍が、
 不眠不休の交戦の末に満身創痍になって遂にロシア軍右翼に進出したことによって、
 包囲されることを怖れたロシア軍が退却を開始し、勝利への道が開かれた。
 しかし、その時、日本軍には兵数・火砲・弾薬など全てが欠乏しており
 包囲網を完成することができず、北上するロシア兵の退路を切断することはできなかった。
 
 日本軍戦死者一万六千五百五十三名 、負傷者五万三千四百七十五名、捕虜四百四名
 ロシア軍戦死者八千七百五名、負傷者五万千三百八十八名、捕虜・失踪者二万九千三百三十名

 この三月十日の陸軍による奉天大会戦の勝利と二ヶ月後の
 五月二十七日の海軍による日本海海戦の勝利によって
 我が国は日露戦争に勝利し、
 国家の存立を確保して二十世紀の世界史を主導してゆく。
 
 よって、この皇国の存亡がかかった戦いに勝利した二つの日は、翌明治三十九年より、
 三月十日は陸軍記念日とされ、
 五月二十七日は海軍記念日とされた。
 この歴史と記念日を忘れてはならない。

 三月に入れば例年大陸から黄砂が我が国土に飛んでくる。
 数日前も、空は黄砂に覆われ、車のフロントガラスに黄砂がたまった。
 百十一年前の三月、
 奉天附近は、黄塵が舞い上がり太陽の光もおおわれてまさに黄塵万丈、黄色の砂漠のようであった。
 そして、戦死した一万六千五百五十三名の日本軍将兵の死体は
 半ばその黄塵に埋もれて横たわっていたのだ。
 
 総司令官から、戦場の視察を命ぜられた総司令官の副官川上素一大尉は、
 視察中にかつての教官であった石光真清少佐に出会い、次のように言った(石光真清の手記)。
 
 「いつも戦線を巡って感じますことは、
 このような戦闘は、命令や督戦ではできないということです。
 命令されなくても、教えられなくても、
 兵士の一人一人が、勝たねば國が滅びるということを、
 はっきり知っていて、
 自分で死地に赴いています。
 この勝利は天佑でもなく、
 陛下の御稜威(みいつ、威徳)でもございません。
 兵士一人一人の力によるものであります・・・
 さように考えることは、教官殿、けしからぬことでしょうか」
 三月十日の陸軍記念日に、思い浮かべるのは、
 日露戦争の奉天会戦において、
 黄塵の満州の荒野に横たわった一万六千五百五十三名の将兵と
 彼らの戦死の状況を見た川上素一大尉の、この言葉である。

 
 さらに四十年後の
 昭和二十年三月十日午前〇時七分から二時三十七分のアメリカ軍機退去による空襲警報解除までの間、
 アメリカ軍は325機のB29爆撃機によって
 主に東京下町の人口密集地に膨大な焼夷弾を投下して地上を焼き尽くし、
 婦女子老人らの非戦闘員である東京都民
 八万三千七百九十三人を殺害し、
 四万九百十八人を負傷させた。
 被災家屋は二十七万戸、被災者百万八千五人であった。
 以後、東京への市民殺傷を狙う大空襲は五回行われた。
 
 これは、今まで漠然と言われてきたいわゆる無差別爆撃ではない!
 明確に、女性と子ども老人という非戦闘員の殺害を目的とした犯罪(ジェノサイド)である。
 これを忘れてなるものか。
 
 アメリカ軍の習性(遺伝子)は、残虐なるジェノサイドとしての西部開拓からに生まれた。
 彼らは、勇敢なインディアンの戦士と戦場で相対しようとはせず、
 戦士が留守にした無防備の彼らの集落を襲い、
 戦士の妻や子どもや老いた両親を情け容赦なく殺戮してインディアンを屈服させ
 インディアンの土地を奪ってきた。
 これが彼らの手法である。
 つまり、インディアンが数千年にわたって開拓した肥沃な土地を
 インディアンを殺戮して奪うのがアメリカ人の西部開拓である。
 東京大空襲と原爆の投下は、
 このアメリカ軍の残虐なインディアン殺戮の手法を執る
 ジェノサイドの遺伝子によって為された。
 これを忘れてなるものか。

 
 平成二十三年三月十一日、東日本を大地震と巨大津波が襲い、
 死者行方不明者一万八千四百五十五人が犠牲となり、
 福島第一原子力発電所が爆発した。
 
 この三月十一日は、前日の三月十日とともに、民族の記憶に留められねばならない。
 そして、五年前、七十一年前、そして、百十一年前の犠牲者・戦死者に
 心より追悼の誠を捧げる。
 また肉親を失い、悲しみのなかに残された家族の深い孤独を思うとき言葉を失う。
 
 本日、発災時間前に表に「半旗」を掲げる。

 五年前の千年に一度の東日本大震災と巨大津波による大災害において、
 我が国の形、つまり國體が顕れた。
 それは、天皇が最大の危機管理者としてのお姿を顕されたということだ。
 そのお姿とは、
 祈る存在そして慰め鎮める存在としてのお姿である。
 そして、
 天皇とともに、
 被災者である国民は、世界が驚く秩序と思いやりと助け合いの姿を示したのだ。

 その天皇の権威を基礎付けるものは
 天照大神の天壌無窮の神勅であり、
 その天照大神を祀る伊勢神宮の式年遷宮が東日本大震災の二年後にあった。
 それをみたフランス人は、フィガロ紙に次の文を掲載し、
 別のフランス人は、日本における神話と歴史の特別な関係を見抜いて述べている。

 「闇と沈黙のなか、女神アマテラスを聖櫃に奉じ、
 これに生絹を掛けて神官の群れが粛々と運んでいく。
 生きとし生けるものの起源そのもののシンボルが、いま眼前を通り過ぎてゆく・・・。
 この景観に、われらの小我の殻など、微塵に吹っ飛んでしまう。
 一月以来、すでに伊勢参拝者は一千万人に達したという。さらに増加の一途をたどるとか。
 東日本大震災により、抑えがたき自然の猛威にさらされて、どこから己を取り戻すか、
 日本人が自覚していることの何よりの証拠である。
 森羅万象の諸力を崇敬するという伝統維持であり、
 そこに、日本的ジェニー(天才)はあるのだ。」

 「われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている。
 日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、
 誰もが歴史とも神話とも密接な絆を結んでいられるという点にあるのだ。」

 このように、振りかえれば、
 百十一年前の三月十日の奉天におけるロシア軍との死闘においても、
 この度の三月十一日の巨大地震と津波の大災害においても、
 我が国は天皇と民の絆のなかで危機を克服してきていることが分かる。
 そして、七十一年前の三月十日の爆撃による炎熱地獄の克服、
 もっと広く、戦後の焼け跡からの復興も、
 天皇と民の絆によって為されてきたのだ。
 
 日本と日本人は変わっていない。
 百十一年前に「命令されなくとも、自ら死地に赴いた兵士」がいたように、
 七十一年前に隣人を助けるために、炎のなかを走った無名の人々がいたし、
 五年前に、水門を閉めるために、人々を救うために、
 津波に向かって走ってゆくパトカーと警察官そして無名の人々がいた。
 百十一年前に旅順の要塞に銃剣で突撃した多くの兵士がいたように、
 上部が吹っ飛んで放射能を吹き上げる福島第一原発原子炉に
 死を覚悟して接近を繰り返した東電職員や自衛隊員がいた。
 
 以上、半旗を掲げて心に浮かんだことを記した。
 

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