大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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二月二十六日に思ったこと

平成28年2月28日(日)

 本年の二月二十六日は、台湾の台北で迎えた。
 その二十六日、午前四時(日本時間)に起床し、やはり八十年前の二・二六事件を思った。
 それは、
 郷里の堺で生まれた鈴木貫太郎を、
 殺さずに生き延びさせた天意であり、
 決起部隊に銃殺された老臣たちの妻の態度である。

 午前五時頃、内大臣、海軍大将齋藤實邸(四谷区仲町)を襲撃したのは
 坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉らが指揮する部隊である。
 彼らは、邸内に押し入り、齋藤實に向かって一斉掃射した。
 目の前で銃撃される夫を見た妻の春子は、
 「撃つなら私を撃ちなさい」と叫んで銃撃する将校たちの前に立ちはだかり、
 さらに銃の筒先を掴んで銃撃を阻止しようとしたので腕に貫通銃創を受けた。

 同時刻頃、安藤輝三大尉が指揮する部隊が、麹町三番町の侍従長公邸を襲撃し、
 侍従長、海軍大将鈴木貫太郎を銃撃し、鈴木は左半身に複数の銃弾を受けて血を吹き出して昏倒した。
 安藤大尉が、とどめを刺そうとして軍刀を抜き、鈴木に近づいた時、
 部屋の隅に座っていた妻のたかが、
「老人ですから、とどめを刺さないでください。
 どうしてもとどめをというのなら、私が刺します」と安藤大尉に言った。
 安藤大尉は、軍刀を鞘に戻し、
 部隊に「侍従長閣下に敬礼」と命令して敬礼し公邸から退出した。
 その後、鈴木の心肺は停止するが、
 たかが鈴木の耳元に口を近づけ、大声で、
 「貴方、しっかりしなさい」と叫んだ。
 すると鈴木は目を開き、蘇生した。

 齋藤内大臣を射殺した高橋少尉と安田少尉は、
 杉並区荻窪の教育総監、陸軍大将渡辺錠太郎邸に急行し、
 午前六時頃、施錠された渡辺邸の正面玄関を銃撃したが、開かなかったので裏口から邸内に侵入した。
 その時、渡辺教育総監の妻鈴子は、将校らの前に大手を拡げて立ちはだかり、
 「あなたたちは何をしに来たのですか。用事があれば正面から入りなさい」としかった。
 既に一時間前に齋藤實内大臣を射殺して殺気を漲らした青年将校らの前に立った妻の気迫は凄まじい。
 将校らは鈴子を払いのけ、渡辺に対して機関銃を掃射した。
 渡辺はその直前、九歳の娘和子を物陰に隠し、ピストルで応戦した。

 大蔵大臣高橋是清を銃殺したのは、中橋基明中尉と中島莞爾中尉の指揮する部隊であり、
 赤坂にある高橋邸において、高橋に六発の銃弾を浴びせて目的を遂げた。
 その時の高橋の妻の態度は、私には分からない。

 以上、反乱部隊に未明突然襲撃された重臣たちの三名の妻の咄嗟の態度を観たが、
 共にその立派さに頭を垂れざるをえない。
 このような咄嗟の言動は、一世代によってつくられるのではなく、
 死を怖れて狼狽えることを恥とする
 我が国の何世代にもわたる心身合一の精神的伝統
 即ち、武士道によって身についたものであろう。
 
 このような女性すなわち母そして妻を生み出す我が国の歴史を誇りに思う。
 このような女性は、女性を大切にする国柄・歴史と伝統のもとで生まれる。
 思うに、我が母は、明治生まれで、私は母が四十歳の時に生まれたが、
 母を思えば、戦後の権利を主張する女性よりも、遙かに凛として自立していた。

 
 次ぎに、鈴木貫太郎を蘇生させた天意について

 天は、頭と胸と大腿部に銃弾を撃ち込まれて昏倒した六十八歳の鈴木貫太郎を蘇生させた。
 それは、九年後の昭和二十年四月七日から八月十七日まで、
 鈴木に内閣総理大臣を勤めさせて未曾有の大戦を終結させる為である。
 それと、もう一つ。
 昭和二十年四月十二日のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの死去に対し、
 我が国の内閣総理大臣として
 「私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります」
 との声明を発し、
 三月十日以来のアメリカ軍の日本人の無差別殺傷を目的とする
 鬼畜の絨毯爆撃においても、
 日本国と日本民族の誇りと道徳律(武士道)は
 決して失われるものではないことを敵と世界に示すことであった。

 鈴木貫太郎は、慶応三年、
 いまの千葉県東葛郡の関宿藩の飛び地である和泉国大鳥郡伏尾(堺市中区伏尾)に生まれ、
 四歳まで堺の伏尾で育った。
 後に海軍軍人となり日清日露の海戦では、水雷艇や駆逐艦で敵戦艦に肉薄して魚雷を命中させ「鬼貫」と言われた。
 大正年間の海軍のシーメンス事件処理のかなで検察の平沼騏一郎と親交を結び、
 この親交が昭和二十年八月十四日の御前会議の帰趨を決定することになる。
 昭和十一年二月二十六日の二・二六事件の時、
 銃弾を受けて意識不明になった鈴木は、
 枕元に生まれ育った堺の伏尾地域一帯の信仰を集めている多治速比売神社に祀られている多治速比売(たじはやひめ)が立って自分を守ってくれているのを観る。
 それ故、鈴木は傷が治り歩けるようになってから、
 妻と共に遠路堺の多治速比売神社に参拝している。

 さて、昭和二十年八月十五日の停戦が如何に至難のことであったか。
 それは、フィリピンのルバング島で三十年間戦い続けた
 小野田寛郎少尉を帰国させる為に如何なる手だてが必要であったかを振りかえれば分かる。
 小野田少尉は、新幹線が開通したことも東京オリンピックが開催されたことも皆知っていた。
 しかし、小野田少尉は、頑として武装を解かず「作戦行動」を継続するために帰国しなかった。
 
 彼の帰国は、幸いにして生きていた比島派遣軍参謀部情報班別班長谷口義美少佐が、
 ルバング島に赴き、ジャングルのなかで昭和四十九年三月九日午前十時頃、次の通り、
 小野田少尉に直接「作戦中止命令」を伝達することによって初めて実現したのである。
 
 小野田寛郎少尉、「小野田少尉、命令受領にまいりました」
 谷口義美少佐、「命令を下達する。作戦を中止せよ」

 小野田寛郎少尉一人においても、帰国させるためには「作戦中止命令」の伝達が必要である。
 これが、誇り高き帝国陸海軍であった。
 では、この帝国陸海軍に停戦させるには・・・
 と考えれば・・・如何に大変か・・・。
 昭和二十年四月の鈴木内閣成立の段階で、
 国内国外に約八百万人の帝国陸海軍が戦闘行動を行っていたのである。

 このことが分からなくなっているから、我々は昨年のように
 「日本の一番長い日」
 という馬鹿馬鹿しい映画を大まじめにカネを払って観るハメに陥る。
 昭和四十二年の白黒の映画の方がまだましだった。

 鈴木貫太郎に課せられた天命は、
 この八百万の精鋭に作戦を中止させ帰国させることであった。
 その為に、鈴木は二・二六の銃弾を受けながら生かされたのだ。
 
 停戦が如何に至難のことか、深く自覚されていたのは
 「上御一人の立場に立たれ戦争の終結のために超人的な努力をつくされている」(侍従長藤田尚徳)
 天皇である。
 天皇は、
 鈴木に大命を降下されるに際し、老齢の故に固辞する鈴木に対して、
 「もはや卿しかいない、頼むから、引き受けてくれ」と言われたのだ。
 天皇から「頼むから」と言われた鈴木は、二・二六の時のように殺される覚悟をした。

 そして、軍人である鈴木は、
 天皇(大元帥)の聖断による命令、
 即ち陸軍に対する大陸命と
 海軍に対する大海令によってのみ
 停戦が可能であると覚悟を決める。
 その鈴木の覚悟を察知して
 御聖断のもとに死ぬ覚悟をしたのが閣内では阿南惟幾陸軍大臣であり
 閣外では平沼騏一郎枢密院議長である。

 昭和二十年八月十七日、
 目的を達した鈴木は次の理由を掲げて内閣の総辞職をする。
 「閣議を以て決する能はずして御聖断を仰ぎたること一度ならず、恐懼何をか之に過ぎん」

 帝国陸海軍の八百万の精鋭の武装を解除することが如何に至難か。
 それを如実に示しているのが、
 まず九月二日の戦艦ミズーリ号上で署名された降伏文書である。
 この降伏文書の中心的な最も懇切丁寧な取り決めは、
 「帝国陸海軍の武装解除」である。降伏文書を読まれれば分かる。

 マッカーサーは、降伏文書署名当日、
 連合軍が我が国に直接軍政を実施する布告を出すが、
 外務大臣重光葵の
「ドイツは行政組織が崩壊した。
 しかし、日本は崩壊していない。
 連合軍が直接軍政を実施すれば日本国の行政組織に対する信頼は失われ混乱が起こる」
 との抗議を受け入れて、軍政の布告を撤回した。
 
 マッカーサーは、何故、重光に説得されたのか。
 それは、「天皇の命令というライン」を連合軍が軍政で切断すれば
 帝国陸海軍の武装解除ができなくなるということであろうと思う。
 彼は、三年前に日本軍の第十四軍に追いつめられたバターン半島から
 六万の部下を見捨てて逃げた男である。
 怒った日本軍の恐ろしさを身にしみて知っていたのであろう。

 次ぎに、降伏文書以外に敵味方からの二人の手記を紹介する。
 一つは、関東軍作戦参謀草地貞吾大佐のもの(将軍三十二人の風貌姿勢)、
 もう一つはアメリカ軍のボナ・フェラーズ准将のもの(フォーリン・サービス)である。

 「終戦第二日の八月十六日午後六時頃、自衛以外の戦闘行動を即時停止すべき大陸命を受領した。」
 
 そして、関東軍は急きょ異例ともいうべき幕僚会議を開く。
「だいたい左の三案に分かれた。
 第一案 徹底抗戦
 第二案 作戦を継続し、有利な条件で停戦
 第三案 即時停戦
 戦後四十六年を経過した平成三年の現在、
 冷静に考えれば、誰しも第三案に落ち着いたのではないかと思われるのであるが、
 その当時は第一案が圧倒的多数で、・・・如何なる事態が発生するやも計り知れない。
 一同、手には軍刀、腰には拳銃を構えておる。
 人目もかまわず歯ぎしりしたり、握りこぶしで目頭をぬぐう者もいる・・・
 潮時よしと秦中将はグッと身を乗り出され
 『われら軍人として陛下の命令に従う以外に忠節の道は考えられない。
 之に従わない者は永久に乱臣賊子である。
 あくまで抗戦を主張する者は、
 よろしくわれらの首をはねてしかるのちにいけ』
 と痛切悲涙・・・一座粛としてただむせび泣く声あるのみ・・・
 ついで山田総司令官
 『諸官の衷情は察するに余りがある。
 だが、聖断は下され給うた。
 軍は聖旨を奉戴して停戦に全力を尽くすのみ、
 進むも退くも奉公の道はただひとつ』
 と、明解にして透徹した決済をあたえられた。」

 
 「天皇の六か月にわたる終戦への苦闘に対する公的な反対は終わりを遂げた。
 七百万におよぶ精神的にも肉体的にも強靱な日本軍は武器を置いて、
 太平洋全域から帰国の途についた。
 この歴史上、前例のない降伏が戦争を数ヶ月短縮させ、
 推定四十五万人にものぼろうとしたアメリカ将兵の生命を救い、
 何十億ドルもの物的損害を出さずに済ませたことは疑いない。
 天皇は常に抵抗のすべなく、
 狂信的軍国主義者の道具に利用されてきた平和主義者だったのであろうか。
 私は彼がそうであったことを固く信じて日本を去った。」

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