大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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「天皇の島・ペリリュー」と水戸

平成27年4月20日(月)

 四月八日と九日に、パラオ共和国ペリリュー島にいて、
 同島を英霊の慰霊のために行幸啓された天皇皇后両陛下をお迎えしたことは既にご報告した。

 そのペリリュー島に、
 物量にものをいわせて襲いかかってきたアメリカ軍の第一海兵師団に、
 六割を超える損失を与えて「全滅判定」を強いる勇戦敢闘の果てに玉砕した日本軍は、
 水戸の歩兵第二聯隊の将兵であった。
 それ故、コロールで、慰霊に来られていた「水戸二聯隊ペリリュー島慰霊会」の幹部の方ともお会いした。
 
 その私は、四月十八日に、水戸で開催される講演会の講師として招かれていたのだが、
 ペリリュー島で、この地で戦没した将兵の郷里に、
 十日後に赴く予定であることに不思議な因縁を感じた。

 よって、十八日、講演会開会の一時間前に水戸駅に着き、
 この一時間を水戸城跡にある弘道館見学に使った。
 そして、ますます、ペリリュー島がアメリカ軍から「天皇の島」と呼ばれた所以は、
 「水戸にあり」との思いを深めた。
 同時に、
 ペリリュー島の水戸歩兵第二聯隊は、
 次の「作戦要務令」綱領第三の指示通りの部隊だったんだと思った。
 「必勝の信念は、主として軍の光輝ある歴史に根源し、
 周到なる訓練を以て之を培養し、
 卓越なる指揮統帥を以て之を充実す。
 赫赫たる伝統を有する国軍は、いよいよ忠君愛国の精神を砥礪(しれい)し・・・」
 即ち、ペリリュー島において、
 「軍の光輝ある歴史」とは、「水戸の歴史」であり、
 「卓越なる指揮統帥」は、連隊長中川州男大佐によって為された。
 
 水戸歩兵第二聯隊は、
 明治七年、明治天皇から軍旗を親授されて創設され、
 三年後の西南の役から日清日露戦役を経て大東亜戦争まで近現代日本のあらゆる戦闘に参加し、
 昭和十九年十一月二十四日、
 司令部としたペリリュー島のジャングル内の洞窟において、中川連隊長は、軍旗を奉焼し、
 本土に「サクラ・サクラ」と訣別電を打電した後、自決して、聯隊の七十余年の歴史を閉じた。

 さて、初めて訪れた烈公・徳川斉昭が創建した弘道館の玄関の前に立つと、
 奧に、縦二メートルほどの大きな力強い
 「尊攘」
 の文字が掲げられている。
 水戸は徳川御三家の一つであるが、「尊皇の志」極めて強く、
 倒幕を目指した幕末の勤皇の志士は、水戸学の「国体思想」に突き動かされていた。
 西郷隆盛・南洲が最も尊敬していた志士は、安政の地震で亡くなった水戸学の藤田東湖であった。
 また幕府瓦解の切っ掛けとなった桜田門で幕府の大老井伊直弼を襲撃して首を落とした者達の大半は
 徳川御三家の水戸藩の者であった。
 その水戸学の国体思想は、水戸光圀が編纂を始めた「大日本史」に記された我が国の歴史に由来し、
 この歴史書は全国に流布されて、これが明治維新の国民精神的・思想的土台となる。
 従って、明治維新は、「王政復古の大号令」から始まり、
 この「大号令」の「復古」とは、「神武創業の初め」に戻るとされたのである。

 水戸は、このような明治維新を完成させた精神と思想の一つの策源地である。
 この維新の策源地におい建軍された水戸歩兵第二聯隊は、
 「光輝ある歴史」をもつ部隊であり「忠君愛国の信念」に溢れる部隊であった。
 従って、この部隊が立て籠もって勇戦敢闘したペリリュー島を、
 アメリカ軍が「天皇の島」と呼んだのは当然の成りゆきであった。
 と、言うよりも、死を恐れない日本軍兵士一人一人から、強い天皇への忠誠の思いを感じ取り、
 そう呼ばざるを得なかったのであろう。
 このこと、弘道館において得心した。

 弘道館見学を終えて講演会場に向かい、居合い抜刀の実技を観てから私の講演に入った。
 そこで私は、まず冒頭に十日前にペリリュー島で慰霊をしたことを報告した上で、
 水戸が明治維新つまり近代日本建設に果たした功績を述べた。
 その際、人があまり触れないことが最も偉大だと述べた。
 
 それは、徳川光圀公による元禄五年(一六九二年)の「湊川建碑」である。
 
 元禄五年、光圀は兵庫湊川の楠木正成自決の地に「嗚呼忠臣楠子之墓」を建設したのである。
 ここは西国街道に面した地であり、この地で楠木正成は建武三年(一三三六年)、
 圧倒的に優勢な足利軍に、わずか七百騎で立ち向かい覚悟の戦死を遂げた。
 之の正成戦死の地の建碑により、江戸期を通じて全国津々浦々の庶民に至るまで、
 楠木正成の「七生報国、忠君愛国」の思いが拡がっていった。
 
 嘉永四年、吉田松陰は、この「嗚呼忠臣楠子之墓」を参って泣き、楠木兄弟は、未だ之死なずと詠み、
 そして、「留めおかまし大和魂」と言い残して斬首された。
 その後幕末には、「今楠木」、「今楠公」と言われる勤皇の志士が続出してくる。
 日露戦争の軍神広瀬武夫中佐は「七生報国」と大書して旅順港の死地に赴いて行き、
 この精神を継承して大東亜戦争が戦われた。
 この我が国の、ことあるときに現れてくる忠君愛国の精神の流れの切っ掛けが、
 光圀の「湊川建碑」である。

 徳川光圀公は、徒歩で移動する時代に、全国を行脚したといわれているが、
 この行脚から生まれた最大の功績が、
 今も湊川に建つ「嗚呼忠臣楠子之墓」の建立であろうと思う。

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