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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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百五十年の坂の上の雲

平成30年7月19日(木)

先に、「明治を甦らせる」として、
明治と、昭和そして現在の連続性を回復することこそ、
これからの我が国の「独立自尊の進路の決断」に必要なことだと書いた。
そして、その連続性を回復する為の障害が、
明治の日露戦争を担った人々を主題とする「坂の上の雲」を書いた
作家である司馬遼太郎の、
いわゆる「司馬史観」が東京裁判史観と共鳴して
権威あるもの如く、一世を風靡したことであると指摘した。

いわゆる「司馬史観」が、「東京裁判史観」に迎合したものであり、
また、左翼が歓迎するものであれば、
その「権威」は、
日本の真の歴史と日本の価値を、隠蔽し毀損するものであるから、
徹底的に検証しなければならない。
だが、注意して頂きたいのは、
やはり、「明治」を書くに、
「日露戦争」という大祖国戦争を以て為した司馬遼太郎の着眼は
評価しなければならない。
問題は、
この「坂の上の雲」という作品が、
司馬遼太郎のフィクションとしてではなく、
「歴史家」が「歴史」を語るように書かれたことである。
しかも、その「歴史」を、
司馬遼太郎は、
「自らの生きた時代(前期昭和)」を憎むために書いたのだ。
それ故、その「物語」は、作者の好悪の情によって取捨される。
従って、司馬遼太郎の語る「歴史(物語)」が史観として権威を持ち始めると、
その権威の故に、人々の認識する歴史には、
大きな「空白」が生まれる。
この「空白」が、
明治と現在の「断絶」をもたらしている。
よって、司馬遼太郎が、歴史家が歴史を語るように物語を書いた以上、
「歴史を研究する前に歴史家を研究せよ」(E・H・カー)と言われるとおり、
彼は、自らが研究(点検)される宿命を負わねばならない。

次に、司馬史観により生まれた
歴史の「空白」の例を挙げる。

司馬にとって、
旅順要塞を陥落させた第三軍司令官乃木希典大将は、
愚将であり、
そのバカさ加減は、前期昭和の劣化の出発点であった。
また、三千の白襷隊による要塞への肉弾突撃は、
兵の「賭殺」でなければならなかった。
従って、彼は、
旅順の陥落は、歩兵の突撃ではなく、
満州軍参謀長の児玉源太郎が
28センチ榴弾砲の陣地を転換させたことによってもたらされたとする。

しかし、
ロシア側記録では、
「一九〇四年十一月二十六日の
白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、
余輩をして精神的屈服を遂げしめる原因なれ・・・
数千の白襷隊は潮の如く驀進して要塞内に侵入せり。
総員こぞって密集隊、白襷を血染めにして抜刀の形姿、
余らは顔色を変えざるを得ざりき。
余らはこの瞬間、一種言うべからざる感にうたれぬ。曰く、屈服」
とある。

イギリスは、
日英同盟の故にイアン・ハミルトン陸軍大将を
最上位の観戦武官として日露戦争に送り込んできた。
そして、後に英国国防委員会が「公刊日露戦争史」を編纂して次の通り報告し、
十年後の第一次世界大戦において、
ヨーロッパ諸国の軍司令官は、
この日露戦争における歩兵の突撃の戦訓に学び、
壮絶なるベルダン要塞の攻防戦やソンムの会戦を遂行した。

「結論として旅順の事例は今までと同様に、
堡塁の攻防の成否は両軍の精神力によって決定されることを証明した。
最後の決定は、
従来と同様に歩兵によってもたらされた・・・
この旅順の戦いは英雄的な献身と卓越した勇気の事例として
末永く語り伝えられるであろう。」

愛媛県の松山市を訪れると、
中心部のお城と道後温泉の街角には、
「坂の上の雲の街」と書かれた多くの旗が立てられている。
そして、「坂の上の雲」の三人の主人公である
陸軍と海軍でそれぞれ偉大な武勲をたてた秋山好古、真之兄弟と
俳人の正岡子規が顕彰されている。
ところが、
同じ松山市の堀之内に根拠地をおいた
歩兵第二十二聯隊のことは忘れられている。

しかし、松山の歩兵第二十二聯隊こそは、
日露戦争の象徴的な聯隊として欧米諸国にその名を轟かせた聯隊だ。
この第二十二聯隊は、明治十七年に創設され、
日露戦争では、乃木希典第三軍司令官の隷下に入って旅順要塞の陥落に多大な貢献をした。
その時に、重傷を負った櫻井忠温中尉は、
その実戦の記録を「肉弾」と題して刊行した。
すると、この戦記である「肉弾」は、
イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、中国など世界十五カ国で翻訳出版され
世界的ベストセラーになった。
その後、第二十二聯隊は、
勇猛な「肉弾聯隊」と呼ばれて怖れられ、
シベリア、満州、上海、シナ事変を連戦し、
大東亜戦争では、沖縄戦で最後まで敢闘して全滅する。
現在、この第二十二聯隊の跡地には、
「肉弾」の著者櫻井忠温の言葉、
「最も愛情あるものは、最も勇敢なり」
が刻まれている。
しかし、「坂の上の雲の街」である松山でも、
この郷里の栄光ある第二十二聯隊は、忘れられている。

以上、司馬史観における「空白」の例である。

また、日露戦争の旅順と奉天の各戦場から、
二人の建国の英雄が出現したことを
司馬遼太郎は何故書かなかったのだろうか。

一人は、旅順に立て籠もったロシア兵のなかにいた、
トランペルドールというユダヤ人だ。
彼は、日本軍の砲弾によって右腕を吹き飛ばされたが勇敢に戦って、
旅順開城と共に日本軍の捕虜になった。
そして、大阪の堺市と高石市の海岸に造られた浜寺ロシア兵捕虜収容所に送られた。
その時、彼は、日本を見て、この小さな国が、
何故、大国ロシアを打ち破ることができたのかとしきりに考えるようになった。
その時、一人の日本兵が彼に言った。
「国の為に死ぬことほど名誉なことはない」と。
この言葉に打たれた彼は、
ユダヤ人の国を造る決意を固めた。
日露講和により、ロシアに帰ったトランベルドールは、
まず、二千年ぶりにユダヤ人の軍隊を組織し、
第一次世界大戦でイギリス軍の傘下に入ってダーダネルス作戦に従軍する。
そのダーダネルス作戦の司令長官は、
奇しくも、彼がロシア兵として戦っていた旅順要塞攻防戦の観戦武官
イギリスのイアン・ハミルトン大将だった。
第一次世界大戦後、
彼は、イスラエルに入って開拓に従事する。
その日々のなかで、
彼は建国すべきユダヤ人の国を、明治の日本のような国にすると日記に書いていた。
そして、イスラエル北部のテルハイでアラブ人の銃撃を受けて倒れた。
その時、駆け寄った戦友に彼は、言った。
「俺にかまうな、祖国の為に死ぬことほど名誉なことはない」と。
現在、テルハイの彼が死んだ地点に建てられた彼のライオンの墓石には、
ヘブライ語で、
「祖国の為に死ぬことほど名誉なことはない」
と刻まれている。
彼は、イスラエルにとって、建国の英雄であり、
全ての人々に「片腕の英雄」と呼ばれている。
この「片腕の英雄」は、
旅順要塞と日本の浜寺ロシア兵捕虜収容所から生まれた。
大阪に住み続けた司馬遼太郎が、
伊予の松山の捕虜収容所だけを書いて、
何故、同じ大阪の浜寺ロシア兵捕虜収容所を書かなかったのか、不思議だ。

もう一人は、奉天の会戦に参加していたロシア軍将校のフィンランド人
グスタフ・マンネルハイムである。
彼は、日本軍の戦いを観て、
小国でも団結すれば大国を倒すことができることを実感した。
そして、一九一七年のロシア革命の中で
フィンランド独立を果たし、以後、戦い続け、
後にフィンランド大統領となって、独立を守り通した。


以上の通り、昨日来「坂の上の雲」を例に出して、
我々の意識の中で「空白」になった歴史を思いつくままに記してきた。
その目的は、
明治百五十年の今、
「百五十年におよぶ総体としての我が国の物語」
即ち、
「日露戦争までの坂の上の雲」
ではなく、
「明治維新百五十年の坂の上の雲」
の物語を実感する一歩を得る為である。
そして、先日の「正論」で新保祐司氏が言っていたように、

日本についての痛切な自覚に基づいた
明治の精神のトーンをよく耳を澄まして聞きながら、
今日のグローバルな世界の中での
日本の独立自尊の進路を
雄々しく決断していかなければならない。

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