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一九九九年夏・インドネシア報告
空港から

平成十一年七月十八日夕方、ジャカルタのスカル・ハッタ空港に一年ぶりに降り立った。一年前の五月二十一日に来た時は、ジャンボ・ジェット機に乗客は数名だけで、ジャカルタで降りたのは私を含め二名であった。その時の空港に客は皆無で、二人は長く薄暗い廊下を歩いた。しかし一年後のジャンボ機は満席であった。そのうち三割ほどの乗客がジャカルタで降り、残りはバリ島行きの観光客がほとんどだった。
入国審査前の廊下に待っていてくれたのは、昨年語り合ったダダン君(バンドン工大卒)とその友人である。その次に現役の陸軍大佐が平服で待っていて、彼の部下二名も付き添ってくれた。この二人は警察官の服装をしているが、自分達は軍人であると、わざわざ身分証明書を私に見せて名乗った。部下の一人(大尉)が私を指して、もう一人に説明している。聞くと、「この人はこんな格好をしているが、日本の国会議員である」と言っているという。その時の私の格好は、二年前にミャンマーで作ったミリタリー・ルックの開襟服と作業ズボンであった。「軍人が警察官の格好をして空港で何を警戒しているのか」「我々は、共産主義者と不良華僑が入国してくるのを監視しているのだ」
タクシー運転手やホテルマンが、客引きをする人垣の谷間を抜けてから外へ出て、陸軍大使が運転してくれる車で、市内に向けて走った。昨年数万の学生が占拠し、その周りを軍隊が囲んでいた国会議事堂は人もおらず平穏であった。車内で大佐は次のように言った。「明日、我々の上官に是非会って欲しい。私は大佐だ。一九七五年に東チモールで戦った。中尉だった。その後、三度東チモールで戦ったが最後には大尉になっていた。士官学校を卒業すると直ぐレンジャー部隊に配属され、次は落下傘部隊に入った。厳しい訓練と戦いの連続だった。東チモールで戦う相手は独立反対のポルトガルだった。多くの戦死者が出た。地図がなかったからだ。しかし、私の部隊は一人の死者も出さなかった。私はいつも地形を把握して、夜戦うようにしたからだ」「次の大統領は、誰になりそうか」「メガワティーの台風が吹いている。ゴルカルも分裂しそうだ。ゴルカルの中でもハビビ支持は薄れてきた。トリー・ストリスノ(元副大統領)、サイデマン(元駐日大使)など国軍の退役幹部は、そのほとんどがメガワティー支持になった。現在一ドルが六千ルピアだが、IMFは一ドル五千ルピアがいいと言っている。しかし、これはとてつもなく高いのだ。まだまだ破産も多い。ハビビはもう一度大統領になりたいので全力投球でこの額を維持している。中国の人民元が維持できるかは大問題だが、インドネシアも高くすべきではないと思う。」「日本も経済は大変だ」「しかし、日本人は忠誠心があり、やはり抜群だ。我々の国には政府の中枢部に泥棒(プンチュリー)がいるのだ。悪いやつがいると分かっているのに、ハビビはそれを閣僚として使っている」「アンディ・ガリブ検事総長のことか」「そうだ。汚職を追及すべき検事総長が、被疑者から賄賂を受け取っていたのだ。その後任にハビビが任命した人物も、同じ穴の狢だった」「(国会議事堂前を通りながら)昨年の国会議事堂の中で、ガントン・スハルト、ガントン・ハビビ(スハルト・ハビビを絞首刑に)のスローガンを見た。そのスローガンはどうなっている」「そのスローガンの精神は、一年たった今も生きている」「今回は雨期か乾期か」「前は雨期と乾期がはっきり別れていた。しかし、最近は森林火災以来、区別がつかなくなった。大気の汚染だ。」「スハルト内閣の閣僚で森林王の華僑ボブ・ハッサンの熱帯雨林乱伐による昨年来の森林火災がまだ消えない。この華僑はスハルト金権政治の象徴で、彼のもたらした煙害が国の気候に影響をもたらしている」このような会話をしていると、車はスカルのとデビ夫人ゆかりのホテルインドネシアについた。ホテルのロビーに、イスラムのショールを被った三人の二十歳くらいの娘さんがいた。私の方を向いて「日本人ですか」と笑っている。(オラン・ジャパン(日本人だ)と答え、次の大統領は誰がいいか聞いてみた。
彼女らは口々に(私はアーミン・ライス)、(私はメガワティー)と、実にはっきりしている。私が「ガントン・スハルト、ガントン・ハビビ?(スハルト、ハビビは絞首刑か)」というと、ワァーっと大きな声を上げて愉快そうに拍手した。首の方で手で括るまねをして「ハラキリ、ハラキリ」と言った。
彼女らはインドネシア語のガントン(絞首刑)を日本語でハラキリというと勘違いしている。私は「違う。ハラキリはこうだ」と腹を切るまねをした。また、彼女らが声を上げて笑った。若い子はどこの国でも明るくていい。
また、車の中で大佐が言った「ガントン・スハルト、ガントン・ハビビのスローガンはまだ生きている」と、言うのは本当だなと思った。それとともに、若いインドネシアの娘が、ハラキリという日本語を知っているのに新鮮な驚きを感じた。以上が、ジャカルタ到着後の見聞記である。
思えば、昨年の五月二十一日のインドネシアに向かう機内で、私はスハルト退陣のニュウスを聞いた。一年後の今年の訪問時には七月二十日に、スハルト入院をマスコミが伝えていた。「スハルトは知らないだろうが、俺はスハルトの疫病神だ」と、ふと思った。とにかく、現役主義の私は、スハルト体制が軋む時にインドネシアに来たのだ。スハルト退陣後にインドネシアは、通貨危機の中で経済の不振にあえぎ民衆の生活水準が低下している。その中で、華僑のスハルト体制と癒着した経済支配やスハルト体制の中で封印されていた政治中枢部の汚職や地位利用による腐敗問題で糾弾し、スハルト一族を始め政商華僑が貯め込んだ財産の国家への返還要求が続いている。政治的目的が拡大したことによる言論の活性化が、これらスハルト体制の諸悪に対する糾弾を持続させているのだ。民衆の意識の覚醒は、もう何としても元に戻すことはできない。インドネシアは、この現状の中から未来に向けて歩む以外にない。
東チモールの独立問題も、この状況の中で顕在化してきたが、これは政治的目的と見せかけながら、実はまったく次元の異なる問題である。この問題の本質は、ポルトガルからの独立に反対した植民地時代の特権階層の、植民地時代の特権を回復するための運動である。このことは独立派指導者の顔を見れば、彼らがポルトガル人の顔をしていることで納得できるであろう。この運動の背後に、独立運動にノーベル平和賞を与えた西側の利害、とりわけこの海域に眠るエネルギー資源(石油と天然ガス)への野望がある。
さて、人口二億のインドネシアに国土は東西五千キロにわたって広大である。その情勢は流動的だ。日本では考えられないことだが、六月七日に投票が行われた選挙の最終結果が出るのは八月末になると言われている。しかし、選挙結果の大勢はスカルノの娘メガワティーが第一党、ハビビ大統領のゴルカルが第二党、ナフダトールウラマというイスラム教団が第三党である。同じイスラムのPPPが第四党、モハマディアという教団のアーミン・ライスの党は第五党である。その餓えで、十一月の七百名の議員からなる国民評議会による大統領選出になるが、今回の選挙では大統領を選出する国民評議会の議員五百名が選ばれるだけである。あと二百名の議員は、地方や軍から選ばれることになっている。この選挙で選ばれた五百名の議員と選挙以外で加わる二百名の議員で構成される評議会が誰を大統領に選ぶのか。メガワティ―も、与党ゴルカルも絶対多数がとれなかったから混乱は続く。
イスラム教団と軍、また地方がどこにつくのか。ゴルカルは現在既に日本の自民党流の多数派工作を開始し、その手段は買収であるという。現在点(七月二十七日)で、未来のことは分からない。ここで私は、自分の目と耳で得た情報を伝えるしかない。従って、以下は予測ではなく私の見聞である。奔流がどの方向を向いているのかを察知していただければ幸甚である。

タムリン通りから

私は、翌十九日早朝、昨年のように、ホテル・インドネシアの前の「希望の塔」という大きなサークルの角に座って道行く人や車を眺めることにした。このサークルからタムリン通りが大統領府まで真っ直ぐにのびている。大統領府に向かって左手に日本大使館がある。
ホテルを出て、まず日本大使館まで歩いた。大使館は建て替えのため閉鎖され、「同じタムリン通りのビルの八階に移転した」という小さな張り紙が出ているだけであった。建物は象の檻のような鉄格子の中で明かりもなく閉鎖されたことが剥き出しになっている。ここに再び大使館が戻るのは五年後であるらしい。私は、五年間もこの首都の大通りに廃館を剥き出しにしておいてはいけないと思った。まず、色彩豊な堀で囲み、そこに大使館建て替えのことと移転先、そして日本とインドネシアの関係をアピールするような説明書きしておくべきだと思う。何と言ってもインドネシアに最大の援助を続けてきたのは我が日本であるからだ。この首都の絶好のスペースを日本の広報に使うべきだ。国旗・日の丸や菊の御紋を取り外し、どこの国のものか分からなくなった廃墟うを見てからコーナーに戻り、やっと座って通りを眺めた。
一年前にタムリン通りを埋めていた兵隊の姿はない。一年前と変わらないのは、のんびり歩く人々の姿だった。車の数は三倍ほどに増えている。通勤客を満載した車種まちまちのバスが、乗り口から左足と左手を車道に出して声を上げる車掌のような兄ちゃんとともに、バス停についてはまた走り去って行く。"バイク・タクシー"という商売が生まれたのか、バイクが十台ぐらい並んで客待ちをしている。中年の婦人が後ろの座席に座ると運ちゃんが勢いよく走り出していく。信号を無視して通りを横切ろうとする歩行者に、警官が笛を吹いて戻れと合図している。歩行者は、「おや、今朝は警官が出ているのか運が悪いなあ」というような表情でゆっくり戻ってくる。私の横には鍋に色とりどりのウイロウか羊羹のような食べ物を並べておばさんが座っている。幼い子と父親が相談しながら鍋の上を指して注文すると、おばさんは大きな葉っぱの上に何種類かのウイロウを並べ始めた。新聞売りが何種類もの新聞を道に並べて売っている。また、売り子が信号で止まった車の間をめぐって新聞を売り歩いている。それを多くの人が買っている。その新聞の大見出しには「メガワティ― スハルト裁判を開始すると宣言」とあった。また他の新聞の一面の半分には、被告席に座るべきスハルトが検事席に座っているのをさして傍聴人が怒っているマンガが載せられていた。これがジャカルタで新聞を見た最初だったが、帰国するまでにスハルト退陣以外のインドネシアでは新聞が最大の成長産業であることを知った。この成長を支えているのは、炎天下に新聞をもって車の間を売って歩くさまざまな年齢の貧しい新聞売り達であった。翌日乗り込んだタクシーの運ちゃんは五種類くらいの新聞を運転席の横に置いて、我々にインドネシア情勢を雄弁にまた簡潔に解説してくれた。曰く、「ギンナジャールは、『ミスター・ミンタ・ミンタ(ミスター欲しい、欲しい)』と言い、スハルトのことは、もっとえげつなく、『イヤシンボ』と言う。こう言えば、我々は誰のことを言っているのか分かる」
政治に関しておおっぴらにモノが言えなかった植民地時代とスハルト時代を経たインドネシアでは、この運ちゃんが解説するように、間接的な表現で、本質を暗示するコミュニケーション術が発達しているのだ。江戸時代の庶民が風刺を使ったのと似ている(なお、ギナンジャールは、スハルト時代の経済企画庁長官で、ハビビ内閣の閣僚に横滑りしている官僚である。東京農大出身)。この新聞の種類の多さ、それを読む国民の関心の高さ、昨年来の政治の季節、選挙結果の公表など、インドネシアはもう元には戻らない。国民はスハルト一族の政治と華僑の経済支配のからくりを、もう知り尽くしている。また、タクシーが信号で止まると、紙幣のようなものを揚げて売り子が近づいてくる。それを見るとメガワティーの顔を刷った紙幣の模造品だ。運転手に聞くと、『メガワティ―が大統領になれば、紙幣も替わるということで、今よく売れている』という。選挙管理委員会の事務所のあるビルの入ると、ビルの玄関のは若い警察官が総勢五十人ほどたむろして新聞を読んでいる。その見出しを見ると、「メガワティ―・プレジデント(メガワティ―は大統領)」と大書くきしてあった。その見出しを指して、「賛成か」と聞くと、若者はにっこり笑ってうなずいた。選挙管理委員会に行くまでに、未だ兵隊が守るスハルト一族のすむ高級住宅を通ってみた。豪華な住宅街だった。運転手によると、新聞には大統領を辞めたスハルト一族に何故いつまでも、あのような住居に住む特権を与え続けるのかという非難記事が連日出ていると言う。

ハルヨト中将の話

十九日の昼食は、空港に迎えに来てくれた大佐の上官であるハルヨト中将の話を聞きながら食べた。「国軍は、中国の動向を注視している。国内問題を抱える中国は危険だ。その危険性はイデオロギーではなく、十二億の力なのだ。中国人の密入国、麻薬の密売には、インドネシアだけではなく、全世界が悩んでいる。国軍は、新しい政府がスタートする日を待っているのだ。インドネシアと日本は、これから政府と政府だけではなく、国民と国民の関係を、深めていくことが大切でと思う」「誰が次の大統領になるのか」「はっきりしていることは、もしハビビが大統領になったら動乱が起こるということだ。選挙が行われたことは世界が知っている。デモクラシーは三千四百万の票が政治の結果に反映されると言うことだ。軍の将校は真剣にメガワティ―を応援した。インドネシアの宗教上許されないが、将校は日本のようにケッパンを押してメガワティ―を応援したのだ。ケッパン、日本がやる親指の血の判だ。しかし、今行われていることは、ヤミの買収による多数派工作だ。国軍は『中立すべきだ』と言うが、それは間違いだ。選挙をやった以上国軍は国民の声に反してはいけない。今回の選挙の一番めざましいことは、国民の意識の基ずいて行われたことだ。国軍の予備役が皆メガワティ―を応援する理由はここにある。今、現役と予備役はメガワティ―支持一本化のために話し合っている。『国軍は一つ』というかけ声のもとに選挙結果から背を向け、国軍は中立と言っている現状を我々は怒っているのだ。国軍は、時代によって二つに分かれる。
一つは、四十五年グループと言ってスハルトなどの独立戦争を戦った世代だ。もう一つは、それ以後の士官学校を出た世代だ。独立戦争の世代は、学生出身や独立義勇軍(PETA)出身などいろいろな所から出てきたので様々な意見を言う雰囲気があった。しかし、士官学校から出身が一つだからスハルトに反対するのは不可能と言う雰囲気がある。それが情けない。
スハルトの越権は、自分の与党ゴルカルを作るのに軍を作ったことだ。このような行為は、軍の使命に反することだ。自分の娘婿のプラボーの破格の昇格も異常だった。
私は、プラボーと士官学校同期だ。一九九七年八月、政治部長の時、スハルトに、『このような政治が続くはずがない、軍のベテランは総てあなたから離れた、国民もあなたから離れた、このような政治がどういう結果をもたらすか、ルーマニアのチャウセスクのようになる』と直言した。スハルトは怒り、直ぐ私を首にし、弾圧政治を続けた。そして昨年五月、ついにウィントラスとプラボ―は対立し、国軍同士が衝突する事態が迫ったがその時は話し合いで回避できた。一九九二年の選挙の前、スハルトは、自叙伝に大統領を退陣するときのことを書いていた。その時に退陣しておれば、国がこんなことにならなかったのだ。この度の変化の主力は学生だ。学生の声に国会が耳を傾けておくべきだったのだが、国会は総てに口をつぐんでいた。スハルトは学生の言うことを聞かず、私が学生の声を聞くように進言した時も、学生を"ねずみ"と表現していた。スハルトの裁判になれば、その子分のハビビも裁判になる。彼らにとって最悪の状態になっていく」「スハルトは、自分のことしか考えなくなっているのか。それとも、まだ愛国者でインドネシア国家のことを考えることができるのか」「スハルトはまだ愛国者であると信じている。ブシドウ(武士道)。四五年グループはいつも武士道を叩き込まれた。この言葉ほどスハルトのような世代の我が国の軍人を支配した言葉はない。
一九六二年、白人の支配からイリアンを解放しようとの命令を受けた時、我々は皆、死を覚悟した。その時の戦術は西側から学んだが、スピリットは日本から学んだ。国軍ができた時、国軍の軍人の胸の中には、いつも赤と白の旗(インドネシア国旗)が入っていなければならないと、日本軍が教えてくれた。スハルトはまだ愛国者と信じている」「宗教的な対立も伝えられるのが国軍は大丈夫か」「国軍は宗教的なことをやかましく言わない。今までバタック人のイスラム教徒も、カトリック教徒も国軍の最高司令官に就任したことがあり、何の問題もない」「メガワティ―が女性だから、イスラムの世界では大統領にしては駄目だというこえが日本に報道されているが」「イスラムが男女を分けていることは事実だ。しかし、それは習慣であって戒律ではない。メガワティ―にやらせたくない人の声がそういう形で表現され、宣伝されているだけだ。国家のために国民に選ばれ、大統領にふさわしい人がなるのが神の声なのだ。メガワティ―を応援した三千万人以上の大部分はイスラム教徒だ。国民は理性と感情を分けて考え、選挙結果を出している。これは尊敬に値する。宗教が総てではない。今回の選挙でメッカのカーバ神殿の旗を立てた政党もあったが、国民は選ばなかった。わが国の田舎の村長や会社の社長には、女性がたくさんいるんだ」
以上が、ハルヨト中将の会話である。彼が「スハルトの世代は武士道を叩き込まれているから彼はまだ愛国者だ」と語ったことが印象的であった。また、国軍の現役大佐と中将が次の大統領に関して明確に自分の考えを述べるのに新鮮み感じた。
最後に私は次のように挨拶した。「この度は、よい話を聞けてうれしかった。中将閣下の話を聞けただけで、この度インドネシア訪問の目的は既に達せられた。今思うことは、日本とインドネシアは同じだ、ということだ。何故なら我らはともに、赤と白の旗が胸にはためいている民族だからである。インドネシア人と日本人は、ダリ・ハティ・カ・ハティ(心から心へ)だ。インドネシア発展を祈る」
このダリ・ハティ・カ・ハティというインドネシア語は、独立戦争のときにスカルノが広大な国土のインドネシア人の団結を促すためによく使った言葉である。「遠く離れて目と目はお互い遠くとも、我らは独立のために心から心へと団結しよう。ダリ・ハティ・カ・ハティ、ダリ・ハティ・カ・ハティ」と、スカルノはインドネシア独立義勇軍をはじめ民衆に訴えたのである。従ってこれはインドネシア統合の象徴的な言葉である。別れて後、ハルトヨ中将から私に、「ダリ・ハティ・カ・ハティという言葉を聞いた時、思わず目に涙があふれてきた」という伝言がもたらされていた。スハルト後の政治的・経済的混乱の中で、インドネシアは再び、心から心へと言う団結の合い言葉を必要としている。そして、その言葉を発した独立の英雄の娘が、メガワティ―なのだ。

軍人の政治的中立というものについて

さて、軍人というものは、我が国も含めて政治的に中立を要請される。しかし、その中立が結果的に民意に反する政治的効果をもたらす時、軍人は如何にすればいいのか。軍出身のスハルトは、三十数年の長すぎた支配の中で軍を利用して与党のゴルカルを作り、しかも、大統領を選ぶ国家評議会の構成員に軍人を送り込み、行政官の大部分を軍人にしたのである。思うに軍の中立とは、軍というものが時の政府を守る組織ではなく、国家を守る組織であるところから導かれる。しかし、インドネシアにおいては軍の組織そのものがスハルト体制という時の政権を支えるものとして機能していた。この変則から脱却する時に、つまり真に中立を回復するために軍は如何にすればいいのか。
ハルヨト中将は、そのことに結論を得て一連の行動を起こしてきたのである。その結論の起点は、民意つまり世界が知っている選挙の結果である。課題は、如何にして軍の分裂と衝突を回避して本来の中立を回復するかである。国軍の給料は、あまり高くない。しかし、スハルト時代の将校の中には、ベンツを五台所有していて、子供をアメリカに留学させているというような、スハルトのヤミの政治に関与するうま味を知っている者がたくさんあるのである。彼らにとって今まで通りのやり方が中立だと言っても、ハルヨト中将には通用しないのは明らかであろう。
さて、私の愛読書にウォーターゲート事件を摘発したアメリカのジャーナリストであるウッドワードが書いた『司令官たち』という本がある。これは、湾岸戦争の遂行においてアメリカの政治と軍がどう関ったか焦点を当てて取材したドキュメントである。
この本では、民主主義家における軍の司令官には二つの前線があるという。その一つは部下の兵士の戦う前線であり、他の一つは国内におけるマスコミまた政治世界にある前線である、仮に部下が第一の前線で勝っても、司令官が第二の前線で負ければ、第一の前線の兵士の奮闘力戦による勝利も負け戦として扱われる、と書いてあった。私は、この本を引用して自衛隊の将官クラスが出席する勉強会で、「司令官はもっと政治に関るべきだ。政治に関心があるということを部下にも表明すべきだ。現在の政治を放置して果たして司令官として部下に戦えと命令できるのか」と発言してことがあった。私の考えでは、現在の法制が放置されている現状で、また法制の不備が放置されている現状で、我らの若者を戦わすことはできない。ガダルカナルやノモンハンの二の舞になるからだ。
しかれども、相変わらず自衛官は政治に関与するなという建前を強調するならば、我が国の司令官は自らの保身と昇進のために部下が犬死にする命令を平気で出す破廉恥に耐え得る者のみが、その地位を得る結果となるのではないだろうか。
ハルヨト中将の話を聞いていて、インドネシアと日本と状況は違うが、軍の幹部として政治と軍との関係を如何に把握して、そして如何に行動すべきかという課題を両者が今突きつけられているという点では共通していると思い至ったのである。
一方は、政治的に中立を装いながら私腹を肥やす軍幹部を産みつける体制を如何にするかであり、我が方は、政治的に中立と言いながら平気で部下を犬死にさせる司令官にならざるを得ない体制を如何にするかである。政治の中の政党活動に対し行動において中立であることと、政治に対し死活動的関心をもたねばならない、ということは両立し得る。この両立し得る地点に民主主義国家における軍人は存在し続けねばならないのだ。我が国の軍人も実は、インドネシアの軍人と同じ課題を背負っている。

再び市内へ
ハルヨト中将との話を終え、また市内を回った。チャイナタウンは思ったより破壊されている。表通りから見ても、窓ガラスが割れたままのビル、焼けたままのビルが並んでいる。修復・復興の意欲は見えない。華僑もまだ大半は外国にいて大統領が誰になるかを見ているのではなかろうか。華僑といえば、利に聡いたことに定評があるが、メガワティ―の陣営に華僑が急速に増えていると聞いた。スハルトの長期政権のときに、華僑はスハルトべったりで公金横領の地下茎を形作った。その結果、民衆から焼き討ちを食らった。その教訓から全体としての華僑は様子を見ているが、早くもメガワティ―に保険をかける華僑も出てきたのであろう。
また、経済的混乱は共産党と華僑の儲け時である。我が国でも戦後の闇市で巨額な富を築き政商になった者もいる。ここに不良華僑の流入問題が生じるわけで、空港で迎えてくれた大佐とその部下は、これらの不良外国人の流入を監視していたわけだ。タクシーの運転手の中で、「メガワティ―は素人だから、ハビビがいい」と言ったのは一人、あとの二人は「メガワティ―がいい、ガントン・ハビビ(ハビビは絞首刑)だ」と言った。この視察において会った庶民は、皆ハッキリ自分の考えを言う。口ごもったり、「分からない」と言った庶民はいなかった。
私はスンダ・カラバ港と横の市場に行った。港にはブギス(海洋民族)の船があるからだ。果たして港の桟橋にはブギスの船が何十艘も船首をせり上げて並んでいた。このブギスの昔と変わらない巨大な木造船を眺めると、日本とインドネシアが海洋で繋がっていることが実感できる。昔この船が風と黒潮に乗れば十日で日本列島に着いたであろう。沖縄民謡とインドネシア民謡の中には同じものがあるのである。
ウィラント、国軍副司令官に海軍大将を任命
二十日は、選挙で第三位になった政党党首でナフダトール・ウラマというイスラム最大の政党の総裁であるグスドールと海軍のスチプト参謀次官に会った。グスドールは、二億の人口をもつインドネシア人の大半がイスラムであることから、政局にも大きな力を持つ人物である。海軍省に行ったのは、十九日に国軍最高司令官であるウィラントがその副司令官に海軍のウイドド大将を選任したからである。昨年五月、私は学生であふれる国会内にいたが、その学生を自動小銃を持って取り囲んでいたのがプラボ―(スハルドの娘婿、現在国外脱出)の指揮する首都のコストラード(機甲化師団)であり、国会の外側で戦車を並べて学生とコストラードを遠巻きにしていたのがマリーネ(海兵隊)であった。しかも、国会構内には「マリーネは学生を守る」というプラカードが揚げられていたのだ。そして、国司令部では、密かにウィラントによるプラボ―退任のための軍法会議が開かれてた。つまり、国軍最高司令官のウィラントは、昨年の危機を回避するために、首都にあるコストラードや陸軍を頼ることができず、海軍に頼ったのである。陸軍出身のウィントラントは陸軍を使えず海軍を使った。ウィラントにとって、海軍は国軍の危機をを救ったり頼りになる部隊となった。私はこの結果が、海軍大将ウイドドの国軍副司令官任命につながったことは確実だと思った。しかし、この私の予想以外に、ジャカルタ内では、海軍内に現状に対する強い不満がありクーデター計画が進んだことから、ウィラントはこの海軍の不満を逸るすためにウイドド海軍大将に副司令官の席を渡した、という説もある。ともあれ、ウィラントの副大統領就任説が強いことから、この人事は、ウィラント副大統領誕生とともに、海軍のウイドドが国軍最高司令官に昇格することを意味する。これは陸軍に基盤の強いスハルトとハビビにとっては強烈なボディーブローである。事実、この人事発表後にスハルトが脳障害で入院した。この入院を、メガワティ―のスハルト裁判宣言、グスドールが反ハルとで全イスラムをまとめ始めたこと、そして副司令官人事でウィラントが陸軍を外したこと、の三つがスハルトの神経を圧迫した結果だと多くのマスコミや識者が見ていた。
東チモール問題
さて、グスドールとの会見と海軍省訪問をセットしてくれたのは、グスドールに近いジャカルタの新聞社オーナーであったが、この意見の記録に値する。彼女は夫を従え、こう言った。「ウィラントは九〇%以上副大統領になる。アテェ、東チモール、アンボンの問題は当分解決しない。東チモール問題は、アメリカと中国の対決問題であるとともに、欧米またオーストラリアの石油資源への執念の問題である。ベトナム戦争とソ連冷戦の中で、アメリカは東チモールをソ連の渡してはならないと、ポルトガルからの独立とインドネシアへの帰属を支援した。しかし、ソ連崩壊でアメリカは興味を失っていた。ところが中国の軍拡でアメリカは再び興味を回復した。また、アメリカのメジャーが出てきて、石油資源と天然ガスへの関心を暗示している。アメリカはいつも変わる。けれども、一旦石油とガスという資源に関心が生まれればそれを放さない。一九七〇年にアメリカに石油ボーリングを許可した。その期限が今年で切れる。イリアンの銅鉱山の開発許可についてはどういう訳か、ギナンジャールが早々に三十年延長を決めてしまった。アメリカは大きな資源は手放さない。東チモールの独立ということは、あの海域の石油・ガス資源を西欧人に渡すことを意味するのだ。つまり欧米とその出店のオーストラリアは、独立させて獲ろうとしているのだ。そのために欧米はノーベル平和賞を道具として使うのだ」
ノーベル平和賞というもの
日本では、ミャンマーのアウン・サン・スーチー女史であれ、東チモールのカトッリク指導者グスマンであれ、ノーベル平和賞をもらえば、とたんに自由と人権と民主主義に生きる輝けるような偉い人物になってしまう。そして、もはや国際政治の実相は見えなくなる。しかし、ノーベル平和賞の最近の実態は、はっきり言うが、欧米の内政干渉の道具である。アメリカやイギリスは、ノーベル平和賞さえ渡せば、以後いかなる内政干渉も可能だと思っている。その政治上の目的は現地の現体制打倒であるが、その背後に石油資源の獲得等の新しい帝国主義的野望がある。このことがピンとこないと言うならば、何故北アイルランド独立運動者にノーベル平和賞が行かないのかを考えればよい。アジアと同じように独立を目指し、イギリスからの自由を目指し、自らの国を建てようとしているのではないか。同じようなことはスペインのバスク地方にもカナダのケベック州にもある。またソ連の侵攻に抵抗したアフガンゲリラの指導者も大したものではないか。
ノーベル平和賞は、近年ますますアングロサクソンの内政干渉の道具になってきた。彼らはその賞をうま味のあるところに渡す。うま味のないところ、また逆にやっかいになるところには渡さない。ノーベル平和賞は、彼らの価値観に基づき彼らの利害で決まっている。その彼らは、五十年前には現地の民主主義も人権も自由も認めようとしない、植民地支配であったのだ。果たして彼らにノーベル平和賞を渡す資格があるのか。物理学や生物学と言う客観的で純粋な科学においても、ノーベル賞決定には政治的な配慮が働くと言われているのだ。まして客観的に基準のない平和賞においておや、ということを我々は再確認すべきであろう。ホテルで、東チモールからの人とイリアンからの人に出会った。彼らに独立問題を聞いてみた。「ハイクラスは独立であるが庶民は独立反対だ」という簡単な答えが返ってきた。独立派の顔は、ポルトガル人の顔をしている。彼らは、つい二十年前の植民地時代では大農園主であったり政府の要人であったりした。つまり彼らにとって独立とは、植民地時代の白人の特権回復なのだ。
意見交換

さて、インドネシア内政について、彼女の話が続く。「スハルト時代の病理は、長すぎたゆえの腐敗だ。スハルト自身は、愛国者であることは確かだ。ハビビはエゴイストだ。彼の事業は総て失敗で、国の財産を食い潰してきた。今回、通貨危機から経済危機、そして政治危機へと進んできた。この推移を今研究している。政治改革が第一歩だ。これがないと再び悪がはこびる。政治改革とは、法治主義への道だ。今回の危機では、シナ人が金を持って国外に逃げたことが大打撃だった。経済をシナ人に握らせては駄目なのだ。では、シナ人の替わりに誰がやるのか。我々は今魅力的な外資法を研究し準備している。IMFとは何か。これはヤフデ(ユダヤ人)の国際戦略の中で動いている。このたびは香港華僑が、IMFの手足となって動き一番儲けた。大きな銀行を皆彼らに獲られた。
日本は知的な分野でも協力して欲しい。ミヤザワプランに皆喜んだ。しかし、巨額な金がどこに行ったか分からない。誰にも使えるようにしてほしい。また、将来に向けた投資にも使われなければならない。メガワティーの陣営には経済専門家が少ない。だから有能なシンクタンクを作らなければならない。メガワティーのスタッフとして日本人(大蔵省の前榊原財務官のことらしい)を推薦してくれれば、我々は直接頼みに行くつもりだ。」
以上が、メガワティーとグスドールに近い女性実業家の話である。彼女は、インドネシアにとって日本の援助が如何に巨額で役に立っているかを理解している。が、その援助がスハルト政権下でヤミからヤミに消え、スハルト一族や政商華僑の懐に入り、リム・スイリョン(林紹良)などの世界的富豪を作り出したことから、ともすれば援助自体を、ああせよこうせよと日本人である私に強調することがあった。
そこで私が、「援助を要求しながらヤミからヤミに消えるからいけないと、日本人にいうのは間違っている。インドネシアは独立国であり、受けた援助をどうするかはインドネシアの問題ではないか。それとも貴女は、日本が再び軍政を布いた、日本から派遣された軍政官がインドネシアの行政を握り、援助物資の配分に不法がないようにしてくれと言うのか」と指摘した。また彼女が、台湾の重要性に触れ、「日本が中国に配慮しすぎで消極的だ」と言うので、私は「日本がまとまって怒ればどういうエネルギーを発揮するかインドネシア人はよく分かっているはずだ」と答えた。そして、「貴女方は大戦中のことでの中国の言われなき日本非難を否定せずにいるではないか、そうしておいて中国ではなく、日本のみに援助を期待するのはおかしい」と言った。これらの私の発言が、彼女に伝わるたびにその大きな目が更に大きくなり私を見た。そして大きくうなずいた。
それにしても、ハビビはちょっとかわいそうな男である。彼はドイツ留学組みで現インドネシア政府の中では最も西欧的センスを身につけ、IMFと国連の意向に添うように努力している。経済も破局を免れ、自動車の販売数も上昇に転じている。しかし、彼はスハルトの腹心であった。スハルト体制の中で昇進した。しかし、スハルト体制のもとで彼が手がけた事業は、総て赤字であった。そして父親から離れてようやく一人立ちしてこの一年奮闘したとはいえ、スハルとあってのハビビであって、スハルとなき後でのハビビ一人では存在を許されないのであろうか。
国民は、ハビビをスハルト亜流としか見ない。スハルトという巨大な体制の中で安楽に生きた者の宿命と見るほかない。

グスドールの話

グスドールは六十歳は越えているが、目が不自由で見えているのか見えていないのか分からない。右目は顔の正面ではなく右斜めの角度は少し見えるようである。街角のどこにでもいるような風体で、一見して得体が知れない。しかし、彼はイスラム指導者であるとともに総選挙での第三党の総裁であるとして、大統領選に向けた政局に日々重みを増してきた。つまり自分は大統領になるつもりはないが、大統領になろうとする者はグスドールの支援を受けねばならない立場にある。その立場にたって、グスドールは現在潜ったままイスラムを中心とした全宗教組織(イスラム教)の糾合に動いていると言われている。それで次に第一の問いを発した。「貴方の動向は、インドネシアの将来にとって大切だと思うが、インドネシアをどうして行くつもりか」「私は、インドネシアよりも女房にとって大切なだけだ」そしてグスドールの独白のような話が始まった。「ようこそ私の事務所へ来てくれました。今お待たせしたのは、ウィラントの使いと会っていたからだ。現在は重要な時期だ。近代化とデモクラシーを進めねばならない。ハビビもメガワティーも絶対多数ではない。大統領にどっちがなってもこの近代化とデモクラシーの原則を進めさせるつもりだ。スハルトもハビビもメガワティーもアーミン・ライスも、近代化の点では意見が一致している。私は、夕方にメガワティーに会う。また近いうちにアーミン・ライスやイスラム指導者やメガワティーとともに十一月のことで(新大統領選出)ハビビ大統領の家でトップ会談をするつもりだ」「ハビビの家でトップ会談をするということは、ハビビ続投を前提にしているのか」汚職や公金横領の問題は、法に従って進める。『五賢人会』というものを作って進めるつもりだ。現在ハビビは大統領だ。彼を無視して何ができるのか。悪いのは何もスハルトだけではない。スハルトやハビビには、『公金横領を素直に認め、金を国庫に返せ』と言っている。しかし肝心の問題は、これからどうするかだ」「ハビビとメガワティーとどちらを選ぶのか」「私はあらゆる新聞に、メガワティーを支持すると述べている。アーミン・ライスが来て、応援を頼むと言ってきたが、今はメガワティーの応援が先決と答えた。国会の状況を見つめて行かねばならないが、アーミン・ライスにメガワティー応援を頼むと言ったらニヤリとしていた」「ハビビの家で、ハビビに降りろと言うのか」「直接にはいわない。
ところで、日本はまだギナンジャールを信用しているのか。インドネシアをよくも悪くするのも若人の教育次第だ。ナフダトール・ウラマ党としては、日本で若者を訓練したい。このことを大使館に通じ、また民間を通じて頼みたい。中国と話をしているが、南シナ海の南沙や西沙諸島に対する中国の行動は大きな問題だ。それでメガワティーが応援を求めてきた時、中国ではなく『台湾を重要視せよ』と言っておいた。バランスが必要なんだ。シンガポールで周辺諸国と意見交換をした時、ベトナムがシンガポールを華僑の国で中国ばかりを向いていると非難していた。台湾と日本が積極的に、シンガポールにでもアジアの金融センターを設置してくれたらどうか」
グスドールは、昔も自民党の三木武吉のような雰囲気がある。彼はスハルトもハビビもまだ国軍のほとんどを握り、与党ゴルカルも第二党であることを知っている。従って、彼はイスラムを糾合し、メガワティーとアーミン・ライスを引っ付けて、真綿で首を絞めるようにハビビの首を絞めようとしているのではないか。学生のように直接的にスハルト・ハビビ体制を追いつめれば、手負いの獅子が何をするか危険なことを熟知している。「メガワティーは、グスドールの意見をよく聞いている。メガワティーは今グスドールの言うがままに動いている」と、ジャカルタの識者の言っていることが裏付けられたようだ
そこで、グストールが応援を求めてきたメガワティーに「中国を重視するな」と忠告したことは重要な点である。彼の世代は、メガワティーの父であるスカルノが中国を重視した結果、逆に利用されて失脚したことを知っているからだ。つまり、一九六五年の「九・三〇事件」である。この事件は中国派になったスカルノの下で勢力を伸ばしたPKI(インドネシア共産党)に中国共産党が武装峰起を指令したことがきっかけである。周恩来は「九・三〇事件」の翌日の十月一日、国慶節を祝う天安門上でインドネシア共産政権発足の宣言を行うつもりであったと言われている。この事件による争乱で、百万人とも言われる国民が死んだ。そしてスカルノが失脚し、昨年まで在位したスハルト大統領が誕生したのである。

海軍司令部での対話

グストールとの会見を終え、朝から同行してくれている大きな目の社長の薦めで国軍司令部の中の海軍省に向かった。それなジャカルタ郊外の広大な敷地のあった。その海軍省の玄関を入った天井の高いホールの正面の壁一面に、インドネシアの歩んだ歴史が刻まれたブロンズのレリーフが揚げられていた。それはまず左端にポルトガルかオランダらしき帆船が島にきている図があり、その直ぐ右には植民地であろう、現地人が白人に跪いている。
その次は、日本軍の上陸と白人の逃亡、日本軍政と日本軍によるインドネシア人の軍事訓練の様子、日本軍の降伏、重なるようにスカルノとハッタによるインドネシア独立宣言、白人の再上陸とインドネシア独立戦争、そして右端は独立戦争の勝利の図で終わったいた。
あいにくウイドド大将は不在で、スチプト海軍参謀次長が出てきた。率直ではっきり物を言う人物であった。話しているうちにその風貌から日本のどこかの漁連のオッサンと話しているのではないかという錯覚にとらわれた。以下のことを話した。「我々のインドネシアは、広い海にまたがる群島国家である。マラッカやロンボク、そしてスンダ海峡の安全を確保するのは経済危機のこの国の財政では大変だ。これらの海峡には、中国人やいろいろな国の海賊船が横行し始め、我々はその取り締りに苦労している。海賊船は性能がよく、速いスピードを出す。しかし、この海賊は日本のシーレーンで我々は日本に石油が安全に着くように苦労していることになる。
日本は知らんふりをせずに、我々の海峡の安全のために協力してくれ。四十から五十ノットのスピードが出せるボートが必要だが、財政危機の我が国では今そろえるのは無理なんだ。このボートが欲しい。それと、日本の若いレジャー客が、たくさん我が国の海で潜るが、彼らのレスキューにも多大な金がかかるんだ。日本は、この我々の苦境にもっとも理解を示し海軍にも援助をして欲しい。
十年前までは、インドネシアから日本海軍に学び行っていた。横須賀でよい勉強と訓練をさせてもらったのだ。しかし、この十年間、日本は呼んでくれない。日本海軍は、我々から見て巨大な大海軍なのだ。この日本とインドネシアの海軍同士の交流を復活させて欲しい。
更に中国は、インドネシアの近くまで中国の領土だと言って出てきている。この中国を日本の海軍でとっちめてくれ。日本海軍をもってすれば、今の中国海軍などは一撃で始末できるではないか」
このように、あまりに素直にあっけらかんと話をする。そこに日本と日露戦争以来の日本海軍に対する尊敬の念が見える。軽んずるような気配は少しもない。そこで私は次のように言った。「日本の若者の潜水は、山に行くようなもので、危険を承知で潜っているのだ。知識も訓練もなく潜る奴は死ぬのが当たり前だ。あまり責任だと思ってくれるな。
ところで、日本に援助しろと言うが、日本は昔からインドネシアに対する最大の援助国なのだ。インドネシアの問題は、まずインドネシアで解決しようとしてくれ。インドネシアには、スハルトやハビビやリム・スイリョンなどの、日本人では想像できない大金持ちがいるではないか。彼らにまず頼んだらどうか」「あんな奴らに頼んでも何もしないし、できないのはとっくに分かっている」
会見の部屋には、大統領ハビビの写真が揚げられている。一年前にはスハルトの写真が揚げられていたのであろう。その写真の下で、現職の海軍参謀次長が、スハルトやハビビを「あんな奴ら」と表現したのである。この発言に対し、同席した少将や大佐連中は当たり前だというような顔をして聞いていた。インドネシアは今動乱の真只中なのだ。
この視察で、十九日と二十日に陸軍と海軍の現職幹部から話を聞いたが、申し合わせたように意識が一致している。この二人の発言から国軍の総てを理解しては危険だが、スハルト入院の原因が、国軍の中の基盤が危うくなってきたからという説の裏付けにはなる供述である。

ボゴールを再び訪ねて

さて、視察最後の日の二十一日、私はまたボゴールを訪れた。ジャカルタから高速道路を一時間ほど走った丘陵にある街がボゴールだ。そこは、オランダ風の建物が多く残り、中心部には広大な植物園の中に独立後は大統領宮殿となったオランダ総督の官邸がある。シンガポールを拓いたイギリス人ラッフルズの妻の墓もある。
しかし、私の関心は、この地がPETA(独立義勇軍)の発祥地であり、スハルトがここで猛訓練を受け、「九・三〇事件」後に、スカルノが大統領権限をそのスハルトに委譲した地であるということにある。その時スカルノが、ボゴール宮殿に引きこもっていたが、その宮殿を学生の大群衆が囲んでいるのを見て、大統領辞任を決意したのである。ボゴールは、ある意味では因縁の地なのだ。
PETAの訓練所跡は、現在も陸軍の訓練所であり、スハルト達が宿泊した隊舎はそのまま国軍の若い兵隊の隊舎として使われていた。案内の女性が、スハルトはあそこの建物に泊まっていたと指さした。その建物の向こうに若い兵隊がトラックに満載されて移動していた。
案内板はなかったが、訓練所跡は表の道路を走っていて直ぐに分かった。建物の中央のアーチ型のトンネルの向こうに日本陸軍の将校服を着て日本刀を左手にもった大きな銅像が建てられているからである。これがPETAの将校の服装である。
銅像の下にはプレートがあり、銅像の主を、「DaidanchoSoedirman」と刻んであった。スハルトのサインが彫り込まれ、彼がPETA創設の記念として、これを一九九七年に建てたと示していた。この年はスハルト辞任一年前である。
スハルトが、自分の上官であったであろうダイダンチョウ・ソエディルマンの像を、初めて軍事訓練を受けた忘れ得ないボゴールの地に建てたということは、彼に何かの予感、または回想があったのであろう。
スハルトが、自らの政権の終わりを具体的に予感した晩に、自分は果たして何をもってインドネシアに記憶されるべきなのであろうかと、ふと自省して、独立義勇者に身を投じた青春のボゴールへ行き着いたとすれば、いつしか安楽に生きながらえた孤独な老権力者の過ぎ去った若き戦いに日々への心の回帰を見る思いがするのである。
館内は訪れる人はいないが、PETAの歴史の説明とその展示がしてあり武器もおいてあった。日本軍の一四年式拳銃や重機関銃また三八式歩兵銃などである。また、指揮官の階級章と軍服を着せた人形が並べてあったが、総て表の銅像と同じ日本の軍服であった。
階級呼称は上位から順に、大団長、中団長、小団長と日本語で呼んでいた。その表示は、日本語をそのままローマ字で、「DAIDANCHO」、「CHUDANCHO」、「SHODANCHO」と書いてあった。
植物園から外に出ると、赤い旗をなびかせて若者を満載したトラックが何台も列を作って走っていた。メガワティー支持の街頭運動だ。街の壁には「メガワティーを大統領に」というスローガンとともに白い布が何十メートルにもわたって貼られ、そこに市民が自由に自分の思いを、書いている。中国のは読むだけの壁新聞だったが、ここは市民が思い思いに紙面を作る壁新聞だ。その白い布が街のあちこちに貼られ長短様々な文章が何人もの人々によって書かれている。この道路や壁面の大規模な街頭行動を見て、これは統制されたのもではなく、自然発生的に思い思いのやり方が現されているのだと感じた。ただトラック部隊は学生によって相互に連絡が取られ、リーダーがいるらしい。
私は昨年と同様に、自分の学生時代の大学紛争時の雰囲気を思い出した。エネルギーは同じ学生だから似たものがある。ただ日本の学生運動は、一年後に一般家庭の市民が参加するような広がりをもつにいたる普遍性と重層的なエネルギーがなかったのである。それがここインドネシアにはあるのだ。
三十数年前の一九六六年三月十一日にボゴール宮殿で、学生がどのようにしてスカルノを追いつめたのか分からないが、赤い旗をなびかせて走り抜ける学生の車の列を眺めていると、ボゴールはやはりこの国の大統領の運命に関して因縁の地だと思わざるを得なかった。
帰路についてジャカルタ市内に入ると、ここでも赤い地に黒い猛牛を描いたメガワティーの旗をなびかせたトラックが学生を満載して走っていた。このボゴールとジャカルタの符号を見て、やっと今日はメガワティー派の都市部での一斉街頭キャンペーンの日であることが分かった。
ホテルに寄ると、朝のタムリン通りで反ハビビの旗を振って集会をやっていた兄ちゃんが、何食わぬ顔をして駐車係をやっていた。ホテルの従業員だったのである。スハルと入院が伝えられた翌日のジャカルタは、「セナン・スカリ(愉快だ)」の声が満ちていて、「気の毒に」の声は一人からしか聞けなかった。
アセアン最大のインドネシアという国家の地位、そして親日的な国民。インドネシアは海洋国家日本にとって最重要の国である。この国が、経済危機の中で選挙の最終結果が出る八月末を経て十一月の新大統領選出に向かおうとしている。
我が国にとって、中国大陸の状況以上に目が離せないのがインドネシアである。

(完)
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