ベテラン機長の殉職

No.278 平成19年 4月 1日(日)

 報道によると、陸上自衛隊第101飛行隊のCH47機が、
急患輸送任務に出動中、徳之島の天城岳に激突し、
機長の建村善知少佐(三等陸佐)ら隊員が殉職した。
 建村少佐は、回転翼(ヘリコプター)の操縦にかけては陸自でも指折りのベテランだったという。しかし、墜落当時は、濃霧中の夜間飛行で高度判断を誤り標高533メートルの天城岳に激突したらしい。

 陸自第101飛行隊は、那覇に本拠があり年間300回を超える救急患者輸送に出動し、離島における国民の命を守る任務を遂行していたという。そして、殉職した建村少佐は、その飛行隊に所属していたのだ。
 いうまでもなく、急患輸送とは緊急出動であり、何時出動することになるかわからない。ということは、如何なる気象条件であっても飛ぶということである。
 事故当時は、夜間で濃霧であった。そのなかを、建村少佐等は飛び立っていったのだ。

 毎年参加することにしている富士の陸上自衛隊総合火力演習においては、演習場へのジェット戦闘機の来援や隊員の落下傘降下が、「雲(霧)があり視界が悪いので中止します」とのアナウンスで中止されることが度々ある。そのたびに、
「戦争は晴れの時だけではないぞ、雲があろうと霧があろうと、槍が降ろうと、やれ、中止するな。」とヤジっていた。平和ボケの象徴のような間の抜けたアナウンスと思えたからだ。

 しかし、これは二万人ほどの観客が地上にびっしりと詰めかけている「演習」でのことだった。この度の建村少佐等の殉職の報に接して、やはり、部隊は霧があろうと雨が降ろうと槍が降ろうと、黙々と出動していたのだと、改めて思った。夜間・濃霧時に那覇から海を越えて徳之島への緊急出動。ベテラン建村少佐の出番であったであろう。
 その建村少佐は、定年直前であった。あと二回の勤務で定年であったという。しかし、平素、「この仕事は何時命を落とすかわからない」と言っていたという。それがまさに、定年直前に起こった。

 ここに、謹んで、悪天候のなかで黙々と任務を遂行しつつ殉職した建村少佐等殉職自衛官の御霊に感謝しご冥福を祈る。

 そして、私事ながらどうしても甦ってきた母の弟の東儀正博のことに触れたい。彼も、操縦士であり墜落して死んだからである。

 東儀正博は、大正初年生まれで陸軍航空隊に入り、満州上空を我が庭として実戦経験を重ねて、日華事変後は何度も重慶上空で戦った。墜落する南郷中佐の決別の無電も空で傍受したと言っていた。
 彼は戦後も飛行機を離れる氣はなく操縦桿を握り続けた。そして、超ベテラン操縦士として全日空などの操縦士を養成していた。しかし、自分は大きな旅客機などには乗らず、小さな飛行機を操縦し、姉(私の母)には「俺の棺桶はこの操縦席だ」と言っていたという。
 そして、その言葉通り、昭和43年に小型飛行機でオーストラリアに向かう途中、インドネシアのアンボン島沖で墜落して消息を絶った。空で戦死した戦友に遅れること23年であった。

 作家の石川達三は度々東儀の飛行機に乗っていたらしく、
東儀が消息を絶ってから、「空に消えた面影」という一文を書かれた。
 石川達三は、昭和13年の武漢作戦の時から軍用機にも乗っていて、以来延べ400時間くらい飛んでいると書いておられる。
 その中に、この度のCH47の遭難を思わせる体験が次のように書かれている。それは、英国国王戴冠式の報道のため東京からロンドンに飛んでイギリスで英雄的な歓迎を受けた飯沼飛行士と塚越機関士の名コンビの飛行で上海から羽田まで飛んだときのことである。
「東シナ海から東方、羽田に至るまで、梅雨期の雲が満々と地上をおおっていて、ずっと低空で飛んできたが、沼津から箱根にさしかかって、どうしても箱根を超えられない。雲一杯で山の姿が見えないのだ。深い谷の上で三度も旋回してやり直したが、杉の梢が翼に触れそうに見えて、なるほど飛行機とはこのようにして遭難するものかと思った」
 ロンドンに飛んだ飯沼飛行士も雲が立ちこめる箱根の山を越えるのに苦労するのだ。濃霧中の夜間飛行を敢行中のCH47の建村少佐もその怖さを知り尽くしていたであろう。

 石川は、続ける。「あの時の飯沼飛行士はプノンペンで戦死。塚越機関士は昭和18年頃・・・ナチス・ドイツとの連絡の使命を帯びて飛び立ったまま、消息を絶ったと聞いている。船乗りは海で死ぬ。飛行機乗りは空で死ぬ。
・・・東儀正博君は飯沼、塚越の後輩であった。・・・東儀君は背丈のある重厚な感じの中年男で、洒落た髭を生やしていた。・・・静かな、思慮深い口調で話す男だった。冷静で沈着で決断力のある、そして自信に満ちた、如何にも頼もしい男だった。それは、永年にわたって空を飛んできた体験から作り上げられた人格であったかもしれない。」
 「二度目に東儀君の飛行機に乗ったのは、小牧空港から羽田までだった。・・・東儀君ははっきりと御岳山ー諏訪湖の線を予定して飛んでいた。その諏訪湖の上で翼を振って、直角に曲がった。すると真っ正面に富士が来た。その富士が10秒毎に大きくなって迫ってくる。・・・私たちはこのまま富士の六合目のど真ん中に突きささってしまうのではないかという気がした。あんな大きな、あれほど壮大な富士を観たことはない。富士が私を圧倒した。東儀君が左に旋回してくれなかったら、私はほとんど恐怖に叫ぶところだった。」

 そして、後年東儀が消息を絶って捜索が打ち切られたとの報に接し、石川は次のように書いてくれた。
「その時彼はどうしたか。私はそれを考えずにいられなかった。恐らく極めて短い時間のあいだに、ありとあらゆる知能を振り絞って体力を尽くして、墜落と闘ったにちがいないのだ。・・・何十年の航空生活ののちに、彼はたった一度の墜落を経験した。常に彼につきまとっていた恐怖が、この時はじめて現実となった。・・・彼らの後輩の東儀君も、彼らの後を追った。・・・男が生涯をかけた仕事は、男の命を奪う仕事でもある。船乗りは海で死ぬ。飛行士は空で死ぬ。東儀君にとっては、本望であったかも知れない。」

 以上、長々と叔父のことを引用させて頂いた。何故か、建村少佐の遭難の報に接してから東儀正博操縦士のことが思い出されて仕方がなかったからである。
 二人は、ともに、ベテランであり、ともに、空で死ぬ予感をもっていた。ともに、軍人であった。そして、その通り、空で死んだ。

 建村少佐は、「何時命を落とすか分からない」数十年の航空生活の最後の極めて短い時間に、何を思い、どうしたのだろうか。
 改めて、黙々と命をかけた仕事に携わり、その職務のなかで亡くなられた建村少佐ら隊員に敬意を表し、ご冥福を祈り申し上げます。


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