原因と結果

No.229 平成18年 6月 6日(火)

 この世で生起する問題は、原因と結果のあざなえる縄である。
 ところが、我々は、意外にこの原因と結果の点検を怠り、今生じている現象にのみ関心を集中させ右往左往しがちである。特に我が国の政治には、この傾向が強いのではないか。
 
 何故、我が国政治に右往左往の傾向が強いのか。それは、現在の我が国の政治が包み込まれている「戦後の風潮」のなせることであろう。
その風潮とは、自国の歴史を他国に迎合して変容させて、果ては、悪いのは皆日本だといういわゆる自虐史観をもって、国際政治と国内政治に対処することが主流となった状態である。
 この風潮は、祖先の真実の血の通った歴史を自国民に教えることができないので、ついに歴史を失って亡国に至る重大疾患である。従って、外国がこの風潮を我が国に煽るということは、核攻撃に匹敵する悪意をわが国に対して秘めているということである。
 また、歴史を教訓の宝庫として現在の課題に対処して未来を誤らしめない為の英知を汲み取るという知的作業は、自虐史観からは生まれない。従って自虐史観は、政治から英知の源を奪い、日々の重大な国益の喪失に繋がるのである。
 次に、このことに関連して最近気付いたことを述べたい。

一、七月のモスクワでのサミットに関して
 最近になって、ロシアのプーチン大統領はモスクワでのサミットにおいて日露の領土問題を取り上げる意思は毛頭ないという意向であると報じられている。
 そこでまた、プーチンはケシカランだとか、日本外交は何をしているとかの論調がこれからサミットにかけて増えてくるのである。
 しかし、私に言わせれば、このプーチン大統領の意向は一つの「結果」であり、この「原因」のタネは日本が撒いているのである。
従って、日本はその結果を摘み取らねばならないめぐり合わせにある、と指摘しておきたい。

 まず、サミットとは何か。
それは、もともと、ソビエトを盟主とする社会主義陣営に対する自由主義陣営の「サミット」である。従って、この西側のサミットに、ロシアが入ってくるときに、我が国外交には、
「ロシアがサミットに加入する為には、一つの『清算』が必要である。それは、日露の領土問題の解決である。ソビエトをロシアが継承したというならば、ソビエトが不法占拠し続けてきた我が国の北方領土をロシアは我が国に返還すべきだ」
と、サミット参加国にアピールしてサミット参加国の意思として北方領土返還がロシアのサミット参加の前提であるという体制を作り上げる任務があった。
 我が国外交は、その努力をしたのか。否である。
 我が国外交に、その意思はあったのか。少なくとも、そのアピールすら聞かなかった。

 次に、モスクワでサミットをすると決まったのは、平成十四年(02年)のカナダのカナナスキスサミットである。
この時に、出席した小泉総理は、一言啖呵を切ったのか。
「ロシアが、我が国領土の不法占拠を止めればモスクワでサミットをしてもよい」と。
 こういう発言をする使命感も外交感覚も、なかったのではないか。
 では、モスクワサミットにおいて、領土問題を取り上げるつもりはないというプーチンがケシカランと今になって激昂しても仕方がない。
 勝負は、今ではなくそれ以前にあったのだ。
 
 プーチンがモスクワサミット開催にたどりつく前のプロセスの節目節目に、日露の領土問題という課題を提起すべき小泉氏が提起しなかったのであるから、現在のプーチンの意向ができあがっているのである。
 例えば、障害物競争と覚悟して走ったが何の障害もなくゴールに着いた者がいる。そのゴールについた者に、やはり今から障害物を飛べと言えるだろうか。仮に言ったとしても、「馬鹿を言え」と言われるだけである。障害物を置かずにその者を走らせた者こそ自らを点検すべきだ。

二、中国大陸内にある毒ガス弾処理について
 このごろようやく、中国大陸内にある毒ガス弾処理を、我が国が巨額の金を費やしてやっていることに対する疑問の声がマスコミにも出始めている。そして、見出しを見ると、中国は日本による毒ガス弾処理を第二のODAとして位置付けて、巨額の金を日本から巻き上げようとしているとある。

  だが、何故あの時、我が国の人士は気付かない振りをして、中国に言われるままに打ち過ぎてきたのであろうか。
 戦前も戦後も何時も何時も、誰も責任をとらずに、また、責任者が判らずに、我が国政治は重大な罠に嵌っていく。

 この中国大陸にある毒ガス弾の日本による処理は、
謝罪決議と謝罪談話を発表した村山富市総理大臣と河野洋平外務大臣のコンビが先導したものである。
 この毒ガス弾の数を中国政府は、日本軍が放置したものであり、その数二百万発と言ったり七十万発と言ったりしていた。そして、村山内閣は、中国大陸にある毒ガス弾を日本軍のものとしたのである。
 しかし、以前、この時事通信でも指摘したように、中国大陸にある毒ガス弾は日本軍が放置したのではなく中国軍が放置したものである。
 
 また、政治家と外交担当者に次の知識があれば、中国政府がいかにべらぼうな膨大な数の毒ガス弾を日本に処理させようとしているのか、直ちに気付いたであろう。
 即ち、日本軍は何発の砲弾を用意して戦闘に臨むことになっていたかである。この数字は、当時の軍関係者が知っており、また、当時の軍事予算からも正確に割り出せる。
私は、陸士五十六期の郷里堺在住の米田政次郎氏からお教え頂いたが、
戦闘に向う帝国陸軍の準備した砲弾数は、
「一個師団、一会戦、四五〇〇発」である。
 すると、終戦時に中国大陸には日本軍二十八個師団が展開していたとして、その準備している砲弾数は、
一会戦で28師団×4500発=126000発となる。

 私は、この「一個師団、一会戦、四五〇〇発」という数字を聞いて、帝国陸軍とは、何と慎ましい倹約しなければやっていけない軍隊ではないかと思った。
 今の自衛隊でも「たまに撃つ、弾が無いのが、たまにキズ」というほど、弾が用意されていないが、帝国陸軍とは、戦時下にあっても、弾が無かったのではないかと思ったほどだった。

 そこで、この砲弾数のなかに毒ガス弾が入っているのであるが、ほとんど使わない毒ガス弾の割合は、微々たるものであろう。
 よって、中国政府が言う、日本軍の遺棄した毒ガス弾の数が、二百万発とか七十万発とかの数字は、いかに出鱈目な数字であるかが判るであろう。
 毒ガス弾を七十万発も保持していたとしたら、通常砲弾の数は天文学的数字に上り、帝国陸軍は世界を相手にしても勝っているほどの物量豊富な軍隊であったであろう。

 これも、今の結果にだけ気を奪われるのではなく、この原因は何処にありやと探求すれば、歴史を失った政治家による知識の不足と愚劣な判断のなせること、さらに政治家に一番必要な祖国に対する忠誠と愛の欠落、と得心できるのである。
 これこそ、真の歴史の教訓であろう。

三、福岡市で申したこと
 福岡市内で友人の結婚式に出席した。
新郎の水城四郎君は福岡市議会議員であったので、福岡市長が挨拶し、福岡オリンピックへの希望を語った。
 この新郎と私の共通点は、ミャンマーとの縁、尖閣諸島への関心、そして、北朝鮮による日本人拉致問題への取り組みである。
 そこで私は、次のように挨拶した(もちろんお祝いの言葉を述べたあとで)。
「新郎と私の共通の関心地域は、ミャンマーであり尖閣諸島である。
この二つの地域に中国の覇権が押し寄せている。ミャンマーからアセアンの西の入り口のインド洋アンダマン海を押さえることが出きるし、台湾と尖閣諸島からは東の日本に至る海を押さえることができる。これらの海を中国に押さえられれば、日本と海洋アジアは中国の覇権に屈服する危機に陥る。
 そして、これらの海は福岡の港から始まっているのである。
 従って、福岡オリンピックの開催推進には、この福岡からはじまる海の平穏をいかに確保するかという日本としての戦略的関心がなければならない」

 福岡港に入る船の安全が確保できない状態になっては、福岡オリンピックどころか、日本経済の繁栄もあり得ない。
 しかし、そのようになりうる種を日本政治自らが撒いてきたことを幾人の政治家が痛恨の思いを持って噛み締めているのであろうか。
 貢物のようにODAとして差し出した我が国の金が、中国の核大国化に如何に貢献したか、媚中派は、北京政府から国家最高勲章を授与されてしかるべきではないか。
 平穏に見えるときに、現にある危機を指摘することも必要と考え述べたのであるが、新郎も同じ考えの若き同志であり福岡市議会議員であるから、決して場違いな挨拶ではなく、披露宴に集う人々は拍手喝さいしてくれた。

 以上、結果に吃驚したり、結果に不満を言うだけでは、同じことを繰返すだけで、何の前進もない。
 いろいろな事例に接してその原因を摘出し、それを改める英知と気力と復元力が我が国政治に必要であると言う問題意識から、最近の事例と体験に関連して述べた。

 なお、博多から熊本経由(六月四日)で東京に戻ってきたが、熊本においても、拉致被害者救出の同志と心強くあい会することができた。
 国家再興に関して、九州は、再び熱いという感じがする。
 
 ところで、熊本の西南戦争における薩摩軍砲座跡がある花岡山には、陸軍墓地と「明治九年神風連之変軍官民戦死者追福碑」があり招魂社が建てられているが、そこに「乃木大将娘の墓」がひっそりとあるのである。
 小さな、卵の形をした墓石が草に覆われていた。
 乃木さんに、娘さんがおられたのかと草を掻き分けて確かめると、
明治十八年五月に乃木さんは、熊本旅団長として熊本に赴任している。そして、翌明治十九年に、この娘さんの墓が立てられている。
おそらく小さな時に亡くなった娘さんであろう。
墓石の横に建てられた木柱に説明書きがあり、娘さんのお名前は、
恒子と書いてあった。
 乃木さん一族の墓は、私の宿舎の近くの青山墓地に集められているので、熊本の草深い山に幼い娘さんが一人だけいて寂しそうな気がしたが、それは、この世の墓石のことで、
今や小さな恒子さんは二人の兄さんとも両親とも一緒にいるんだと思い、肩くらいの高さの草の中で掌を合わせた。


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