思えば、平成九年から十年が経過した。
平成八年暮れ、今特定失踪者問題調査会を主宰している同じ民社党であった荒木和博氏が、十三歳の少女が北朝鮮に拉致されているらしいと言って我が事務所を訪れた。なんだとー、と愕然とした。
この拉致の情報は、韓国で北朝鮮の亡命工作員が語り、韓国警察当局は我が国の警察に既に照会しているという、しかし、我が国警察は何の反応もしていない、と荒木氏は説明した。
そして、この亡命工作員が語った拉致の状況と被害者の身上説明は、昭和五十二年十一月十五日に新潟で忽然と消息を絶った十三歳の中学一年生横田めぐみさんの失踪状況と彼女の家族構成にぴたりと符合している。
間違いない、新潟の十三歳の横田めぐみさんは、北朝鮮に拉致されていたのだ。と、我々は、確信した。
しかし、その確信の下で、我々を重い抑圧と焦燥が包んだ。
何故なら、韓国で亡命工作員が、横田めぐみ拉致を既に語っているのに、その情報に我が国が反応していないからである。このことは、北朝鮮が日本が関心を示す前に拉致の証拠を消去しようとする危険性が増大していることを意味する。
従って、日本が重大な関心を示すことによって、横田めぐみさんの安全を確保するようにしなければならない。いずれにしても、このまま日本人が無関心を打つ過ぎてはめぐみさんの命の危険が増大する。
年が明けて平成九年に入った。
新年に入り、横田めぐみさんのご両親が、実名で娘の拉致を取り上げることを諒承された。ハッキリと「横田めぐみ」という実名でこの残酷な拉致という北朝鮮の犯罪を取り上げていただきたい、めぐみを救出するために、と。
そこで、私は、政府に対して「質問主意書」を提出して、
「横田めぐみ」の実名を挙げ、彼女は北朝鮮に拉致されたのであるが、政府は如何に認識しているのかを糺した。
その時には、いつ予算委員会が開かれるのか、質問の機会があるのかも不明の時期であったので、国会における問題喚起の手段としては「質問主意書」の提出しかないと判断したのである。
ところが、天の意図の如く、翌月二月三日の衆議院予算委員会において、委員会室で質問する機会が訪れた。
私は、「横田めぐみ」の実名で質問させていただいた。
実は以後、私は重圧の下にあった。実名の質問がよかったのであろうかと。この質問をきっかけにして、めぐみさんの身に危険が及ぶようなことになったのではないかと。このような疑念はいつも私の心を重苦しく占拠した。
この重圧から解放されたのは、平成十六年十二月である。
大阪にいた私の携帯電話に母早紀江さんからの震えた声が響いた。
「北朝鮮がめぐみの遺骨だとして出してきた骨は偽物でした、めぐみの骨ではありません、他の人の骨でした」
「そうですか!早紀江さん、めぐみちゃんは、生きているんですよ!生きているんですよ!」
以上、十年の歳月が経ったことに、改めて気付き、回想した次第である。
そこで、本年本月の衆議院本会議における質疑であるが、拉致問題を取り上げたのは、与党の中川昭一議員であった。野党は取り上げていない。
このことは何を意味するのか。この十年、政治は拉致問題の本質を理解せずに打ちすぎてきたことを意味する。それとともに、拉致問題への取り組みは、政党単位ではなく、一人一人の議員の信念によって担われてきたということを示している。
安倍総理は、拉致議連のメンバーであったし、中川議員は拉致議連の前の会長であった。つまり、拉致問題は、政界の再編を促しているのだ。その意味で、今の内閣と与党の人物構成は、拉致問題にとってこの十年間の一番良い体制である。
もっとも、拉致問題を無視して北朝鮮と「対話」を続けることによって功名にありつこうとする大きな動きは今も存在し続けている。この動きは、二・三名の帰国という「功名」と引き換えに他の多くの拉致被害者を封印し葬り去り、その上で、金正日体制に超巨額の援助を与えるという相手の謀略に乗った驚愕すべき売国の動きである。この動きを担う内外の工作活動、これが真の意味の「抵抗勢力」である。
では、拉致問題の本質とは何か。
それは一言で言って、「国直し」である。
この問題に目をつぶって我が国の再興はありえない。国民の安泰もありえない。
この度の衆議院本会議場では、経済や税制や教育が多く語られた。
しかし、拉致問題を放置して、教育の改革もありえない。
拉致問題を放置して如何に経済が繁栄しようとも、それは猿に金を握らすのと変わらない。
拉致問題に関心を示さない党派や議員が、如何に人権・平和を語ろうとも、それは「これ即ち、猿の正義か」に過ぎない。
これが、十年を経た本会議場における私の感想の一端である。
最後に一言。柳沢厚生労働大臣の「失言問題」である。
確かに意味はよく分かるが表現は「不適切」だ。女性は子供を生む機械だとは露骨過ぎる。
しかし、柳沢さんの人格・人柄からみて、私は彼の弁明を素直に受け止めている。即ち、わかりやすく説明したつもりであったが申し訳なかった。女性蔑視などの感情からした発言ではない。
その通りである。そして、本人が直ちに表現を訂正し失言を詫びた以上、この「問題」は解消したと考える。
しかるに、柳沢さんに対する糾弾は、しつこく止まない。
結局、直ちに非を認めて訂正している人に対して、糾弾を止めない状況を見ていつも思い出すのは、聖書の中でキリストが言った言葉である。
即ち、一人の女を糾弾するために集まった人々に対して、一度も罪を犯したことのない者のみが、石を彼女に投げつけるがよい、とキリストが言ったとき、石を持った群集は一人去り二人去り、そしていなくなった。
政争の場においても、もう少し寛容の美徳を自覚しても良いのではないか。
言葉狩り的政治風土からは、建設的で豊かな果実は実らない。
|