西村眞悟ホームページ
眞悟の時事通信バックナンバー
眞悟の時事通信バックナンバー
 印刷用ページ (テキストだけで構成した印刷しやすいページです)
日常のなかで、公を思うということ、地上の星を探せ
 七月に入ってから語り合った学生時代からの友人達との会話を思い起こしていると、「日常のなかで公を思うこと」という表題が浮かんできた。
 会ってしゃべっているときには、意識していなかったが、振り返ると、「そうだ、前の時代にはこれがあって、今の時代にはない、だから、今の我々の日常の会話は少し矮小化したのかな」、と思える。
 以下は、友人との会話である。もちろんビールで乾杯してから。十代のときには紅顔の美少年もいたのだが、昔の美少年に限って禿げているものだ。

(話題)日銀総裁は、辞めるべきかどうか。
 辞めるべきでない辞める必要もない、と西村がいうと、
辞めるべきだという意見も当然出る。
投資会社の社長をしている友人の辞めるべきだとの意見は、一番説得力がある。曰く、自分は社長になってから自らの利殖のために投資を考えてはならないと思い、一切自分の利殖から手を引いている。日銀総裁は、総裁になってからもそれを運用し儲けていた。これは、だめだ。
 西村がいう。村上君が無名の駆け出しのとき、彼の志を支援しようと総裁は千万円を提供した。この行為に何の問題もない。むしろ、若き起業家を支援するよき先輩ではないか。
次に、この村上君の事業が繁栄し始めて利益が出たので、配当も増えた。これにも何の問題もない。
 問題は、支援したやつが捕まったということではないか。
しかし、彼が駆け出しのときに平成十八年に捕まると予測するのは不可能だ。
 これはマスコミの自作自演だ。村上を称賛しているときには何も問題としない、その時は反対に総裁の先見性を讃えかねないだろう、しかし、捕まれば逆に鬼の首を取ったように問題化する。
捕まる前の称賛も、捕まってからのネガティブキャンペーンも、全てマスコミがやっていることだ。
 以上の通り、水掛け論が続いた後に、論点が変わって、次の日銀総裁は誰だという話になった。
その時西村はすかさず言った。「それは、石井や」。それから、
「エッ、石井て誰や」と石井が訊くので、
「石井て、お前やないか」。
という応答があって、そして、
「石井は、銀行業務に長年精通し、この中で、一番金融に詳しい、そやから、次の日銀総裁は石井や」という結論になった。

(話題)サッカー日本代表監督のこと
西村が以下の通りしゃべった。
「俺は、サッカー嫌いや。ゴールしたやつが喜んで転げ回る、あれはなんや。そいつが、ゴールする直前に倒れながらそいつにボールを渡したやつがいるやないか。全員のおかげでゴールできたんや。何にもないという顔しとけ。
 それから、年寄りでも、けつまずいたら、倒れんように、ガンバる。それが何や、あいつら。ちょっと足が引っかかっただけで、プールに飛び込むようなポーズをつくって倒れて、のたうち回って、ずるいやつらや。日本選手は、あまりしないからほっとするよ。
 少しは、ラクビーを見習え。ラグビーではなー、トライしても、倒されても、何にも演技せえへんぞ。
 俺は、サッカー見ていると、近隣諸国(国名はここでは書かない)の外交を見ているようでイヤや。(ついでに、柔道をオリンピック競技にしたのは間違いやった、柔道やなくシャモの喧嘩みたいな試合があると続くが、省略)」
 それから、また、マスコミについて、
「マスコミのサッカー中継はけしからん。弱いから負けたんやないか。それを、大本営発表みたいな、よいしょの解説ばっかりしやがって。はじめの試合を見て、ミッドウェー海戦を連想したよ。ボールを取られへんようになったら負けるのあたりまえや」
 
 次に話題は、日本代表の監督人事になった。
その時西村がまた言った。「それは、池上や」
「エッ、池上て、誰や」
「堺でなー、俺の子供に、サッカー教えてくれたコーチや。
外国ばっかり探しに行くな。
土曜と日曜を二十年間以上全て潰して、集まってきた子供にサッカーを教え、やる気を教え、チームを育ててる頭の下がる宝のような人材は、俺らの周りにいる。俺が知ってるのは池上や」

(以上、長々と会話を引用してしまいました。後半部分が大阪弁になっているのは、アルコールのおかげです。また、不適当な用語は修正してあります。)。

 さて、この二つの会話とも、人事の話で終わった。
つまり、次の日銀総裁は、次のサッカー日本代表監督は、という話しになった。そして、既に述べたように、具体的な名前が出て盛り上がったのであるが、考えてみれば、明治維新のときの人事とはこのようにして決まったのではないだろうか。

 現在の日銀総裁はかなり前から内部でプリンスと決めていて、そのプロセスを聖域としている。
サッカー日本代表監督も、外国に目を向けてもっともらしい解説をしているだけ(もっと、単純なものだと思うが)。いずれにしても、共に内部社会のルールで外部からはうかがい知れない事情により決められてゆく。
 考えてみれば、我々は、この人事の聖域化により、結局、公のことを自らの問題とする視点を知らず知らず失ってきたのではなかろうか。

 しかし、人材が豊富に湧出したように現れて近代化を担った明治維新からの変革期は、決してそうではない。
例えば、日銀総裁は誰にするというとき、「われらのなかで、金融に詳しいやつは誰じゃ、」という会話から始まって、縁をたぐって探し回るなかで決まっていったのだと思う。
 後の日銀総裁を経て名宰相といわれた高橋是清が大学南校の教授になるのも日銀に入るのも、全て今の基準では考えられないし、藩主島津斉彬が下級藩士西郷吉之助を登用するのも勝海舟が浪人坂本竜馬に海軍伝習所を任せるのもただ彼等の直感だった。
 また、私の師と仰いだ森信三先生が深く敬仰され無名の隠者として生涯を終えられた新井奥邃先生は、仙台藩士として函館に逃れて官軍と戦いお尋ね者になるが、明治三年、偶然に初代駐米公使として赴任する森有礼と出会いそのまま森に同行してアメリカに渡り、以後明治三十二年に帰国するまでアメリカで信仰に生きる生活をされた。
 明治初期の「人事」は、このような人と人の出会いの不思議に充ち満ちている。

 あの時には、これらの出会いと、これらの人事が、何故可能であったのか。もちろん、維新の草創期であったという時代の条件がある。しかし、人々の心に常に私情を超えた人材を探すという問題意識があり、その心が多くの人材湧出に繋がっていったことも確かである。
 昔の人は、人材は自分の周りにおり、公益のために、その人材を見つけ出すことが自分の大きな仕事だと思っていた。
 南洲遺訓には、得難き士を見つけたら、直ちに自分の地位を投げ出してその人と交代するつもりでなければならないとある。

 昔の人は、人材を現在のように空の上に求めようとはせず、自分たちの間に求めた。今の人は、空ばかり見ているが、昔の人は、公のために地上の星を探していたのだ。
 従って、我々も、日常のなかで、地上の星を探そう。
その問題意識は、きっと公に通じていく。
そして、ついには、我が国の活力にも祖国再興の大業にも通じていくと思う。
平成
1 8
年
7
月
8
日
(土 )
曜日
Copyright(C)2007 西村眞悟事務所