西村眞悟ホームページ
眞悟の時事通信バックナンバー
眞悟の時事通信バックナンバー
 印刷用ページ (テキストだけで構成した印刷しやすいページです)
横田滋さん訪韓が垣間見せた朝鮮半島の情況、と、近代日本の苦闘を語る親子の墓
 韓国が、奇妙な現政権のもとで北朝鮮に吸い込まれつつある。
 これまで、南北朝鮮の将来を、ベルリンの壁崩壊から始まった東西ドイツの統合と同じように論じることが度々あった。
 ところが、南北朝鮮の情況は、東西ドイツと全く違うということがいよいよ明らかになってきた。昨日夕刻に帰国した拉致被害者の会会長の横田滋さんの韓国訪問がこのことをさらに明確にした。
 したがって、日本国内における南北朝鮮つまり民団と総連の和解の演出を「仲良くすることは良いことだ」と手放しで評価するのではなく、警戒して観察しておかねばならない。

 では、南北朝鮮即ち朝鮮半島の動きを何故警戒すべきなのか。
 その理由の第一は、東西ドイツは、繁栄する自由陣営の西ドイツが疲弊した社会主義の東ドイツを吸収したのに対し、
南北朝鮮は、繁栄する自由陣営の韓国が疲弊した独裁体制の北朝鮮に吸収されつつあるということにつきる。全く今も昔と変わらない奇妙な朝鮮半島である。
 理由の第二は、東西ドイツの統合(一九九〇年)は、東ドイツの東隣の巨大な圧力をもつ支配者である社会主義ソビエトが崩壊していく(一九九一年)というヨーロッパにおける社会主義独裁体制の終焉と冷戦の終結という時代背景のなかで起ったのに対し、
南北朝鮮の統合への動きは、朝鮮半島の北に位置して北朝鮮に重大な影響力をもつ共産中国の経済的繁栄と軍事大国化による覇権拡張のなかで始まっていることである。つまり、ヨーロッパとはまさに正反対の情況である。
 
 よって、以上二つの理由を総合すれば、それこそ、東西ドイツと全く正逆の将来が朝鮮半島と東アジアの大陸側に想定されるのである。
 ドイツでは、自由を求める民衆の動きがベルリンの壁を崩壊させて東ドイツの社会主義体制を崩壊させて、全ドイツに自由な体制が及んだ。しかも、かつてハンガリーやチェコスロバキアで自由な体制が誕生するのを武力で潰してきたソビエト自身も崩壊しつつあったが故に、
ドイツのみならず社会主義地域全域に自由な政治体制が生まれ諸国民は独裁体制のくびきから解放されて初めて自由を謳歌することができた。
 広場に集まって喜びの涙を流すヨーロッパの旧社会主義圏の老若男女の姿を我々はまだ記憶している。
 
 しかし、朝鮮半島で今動いている流れは、独裁体制の崩壊どころか、独裁体制に吸引される流れなのであるから、独裁体制強化の流れであると共に、韓国をその独裁体制に組み込んで全朝鮮半島を独裁下におく流れである。
 しかも、ソビエトに対比される北隣の共産中国は、衰弱どころか、
ますます覇権を朝鮮半島全域に伸張させることができるようになる。
 これを民衆の「自由」という観点から眺めると、朝鮮半島がドイツ統合と正逆になるのは明らかである。
 自由を喜ぶ民衆の姿は、朝鮮半島では皆無であろう。マスゲームに象徴される権力者の演出は派手に行われるだけである。反対に、抑圧された民衆の悲劇はますます大規模に隠蔽されることになる。
 このなかで、中国大陸に二十世紀半ばに建設された共産主義的、権威主義的、軍国主義的独裁体制が、北朝鮮でさらに純化され強化されて朝鮮半島全域に及んでくることになる(これを朝鮮半島で特有な小中華現象という)。
即ち、現在の北朝鮮の民衆が自由を享受できていないように、北の体制に組み込まれる現在の韓国の民衆も自由を剥奪されるのである。つまり、東西ドイツの統合は、民衆の自由を拡大したのに対し、今現われつつある南北朝鮮の統合は、民衆の自由を窒息させる。北朝鮮を主体とする民族統一は、直ちに幻想と判明するであろう。
 
 そして、東アジアの国際環境も、ヨーロッパと正逆になる。
即ち、ヨーロッパではソビエト崩壊により「冷戦」が終結し平穏が訪れたが、アジアでは南北朝鮮の統合と中国の覇権強化と軍事大国化によって、覇権主義的独裁体制と自由主義的海洋勢力との「冷戦」がかつてのヨーロッパ以上に厳しさを増すことになる。

 昨日十七日、拉致被害者家族会の会長である横田滋さんや増元事務局長が韓国訪問から帰国した。この訪問の情況は、現在韓国で起っていることをまざまざと見せてくれた。
 韓国の拉致被害者と国民は、日本の拉致被害者家族の訪問に強い関心と同情を示した。昨夜帰国した増元さんに聞いたが、韓国における拉致問題に対するマスコミの関心は極めて高かったということである。国民の関心の高まりは、被害者救出の大きな力であることは日韓とも同じである。その意味で、この連休前後の横田さんご夫妻らのアメリカ訪問と韓国訪問は、国際的関心の喚起という大きな成果をあげた。
 しかし、韓国政府は日韓の拉致被害者を無視したのである。
 何故、無視したのか。北朝鮮の独裁者が拉致は解決済みと強弁しているからである。そして、韓国政府はその北朝鮮の嘘に従っている。
 これは、民衆の自由確保とは逆の動きに韓国政府が乗っているということの証左である。さらに、このことは、現在韓国で起っている動きを主導しているのは北朝鮮であることを示している。
 したがって、日本国内における民団と総連の和解の動きも、その北朝鮮主導の一環であるから警戒せよと冒頭述べたわけである。

 さて、現在東アジアで進行している共産中国の繁栄と軍事大国化、
また、朝鮮半島の統合への動きを、文明論的に概観すれば、
明治以来の我が国の国家存立のための苦闘が水泡に帰しつつあるといえるのである。
 
 まず、百十年前の日清戦争において我が国が実現したものは、下関条約第一条の「朝鮮の独立」である。即ち、それまで朝鮮半島を支配していた清国を排除することが戦争の目的であった。
 さらに、百年まえの日露戦争も朝鮮半島からロシアの支配を排除するために戦われたのである。そして、その後の日韓併合もまさに朝鮮半島に不安定な政治的空白が生まれないようにするためであった。
 事実上、地政学的に、朝鮮半島は我が国の国防に重大な影響を与える位置に存在するということである。
 よって、国家存立と独立自尊を確保せんとした明治の政府は、
そのために朝鮮半島を大陸勢力に渡さずに海洋勢力に組み込むことを血で実現してきた。
 その後、我が国が大東亜戦争に敗れてからも、大陸の共産主義の独裁者がし掛けた朝鮮戦争を戦ったアメリカが肩代わりして、韓国という形で海洋勢力圏が朝鮮半島に存在しつづけてきた。

 しかしながら、その韓国の政府自らが、北朝鮮に接近して北朝鮮に拉致された自国民を無視するに至っている。その流れは、北朝鮮というより朝鮮半島は自分の物と思い込んでいる共産中国が主導している。
 と言うことは、近い将来、明治維新後の日本が国家存立上最も警戒した状況が、朝鮮半島に出現しかねないのである。それは,大陸の覇権国家の影響下・支配下にある朝鮮半島である。
 そしてこの事態は、近代国家として我が国が初めて直面することである。
 覚悟しなければならない。
 如何に覚悟するか。それは、国防体制を如何にするかである。
 これこそ真の「公」の課題であり、この「公」の観点から観るならば、小泉氏得意の「構造改革」また「官から民」などは、「私」の技術的領域に過ぎない。また、拉致被害者救出は、「公」の領域にある内閣の重大任務であり、かつ、内閣は重大な決断の場面に直面してきた。しかし、特にここ一年半、内閣は決断を回避し続けている。無念である。
 
 以上の通り、東アジアの大きな転換点に直面しつつあるこの機会に、
学生時代から気になっていた次の無名の墓の主のことを紹介したい。
 この墓に眠る人々がいたからこそ我々の今の日本がある。
 亡くなった人を忘れて政(まつりごと)はない。
 歴史観には、暖かい血が通っていなければならない。

 私は、京都大学在学中、京阪三条駅と銀閣寺近くの海の星学生寮の間をよく歩いていた。そのコースは、三条から平安神宮を経て黒谷に出て山門を入り、墓地の階段を塔まで登って北におれて吉田山山麓を銀閣寺の方に北東に下って住んでいた学生寮にたどり着く、というものであった。学生時代は、昼間も深夜も、黒谷の墓地のなかを歩いていたのだ。
 その黒谷の墓地の塔から北に五十メートルほどのところに西を向いた墓がある。若くして旅順の戦いで散華した京都中学出身の士官の墓であった。
 それ以来今まで、よく歩いたあの黒谷の道と、この墓と墓碑銘のことが忘れがたかったが、このたび、およそ三十五年ぶりに黒谷を訪れて、この墓に対面し墓碑銘を確認することができた。
 連休が終わった五月八日の夕方のことであった。
 
 墓の主は、「岡本經忠」という二十六歳で戦没した陸軍中尉である。彼は次男であり父親が墓を建てている。そして、彼の墓の南隣に両親の墓が建っている。この両親の墓は經忠の兄が建てたと推測されるが、この二つの墓に近親者が参った形跡もなく、附近に縁者の墓もない。
ただ黒谷に明治三十七年に戦死した息子の墓と昭和二年まで生きた父と八年まで生きた母の墓が佇むのみである。
 なお、この墓から北に少し上ったところにあったと記憶する海保青陵の小さな墓はなくなっていた。また、維新期には会津藩の本陣がおかれた黒谷の山門からの風情も変貌して、二十歳の頃に、ここを歩いていた自分の足音は掻き消されていた。
しかし、忘れ得なかった岡本中尉とその両親の墓はそこにあった。
 
 次に、「父經邦建之」とある岡本中尉の墓に刻まれた文字を原文のまま記すのでお読みいただきたい。墓の左面に「碑面乃木大将筆」とあるから、乃木さんが書かれた碑文である。

「陸軍歩兵中尉従七位勲六等功五級岡本經忠之墓」

「君賀茂懸主岡本經邦君次子也資質剛毅夙修京都中学業尋
 入士官黌業成任陸軍歩兵少尉補第二聨隊附及征露役起直
 從軍奮戦激闘屡奏偉功因進中尉辱叙勲之恩命終戦死干清
 國盛京省旅順小東溝附近時年二六明治三七年八月二十日也」

 そして、この墓の横の両親の墓には、次のように刻まれている。
「從七位岡本經邦 
  妻 岡本鶴江 之墓」
「經邦 昭和二年四月二十三日没 行年八十八
 鶴江 昭和八年五月四日没   行年八十三」


 ・・・   ・・・   ・・・   ・・・
 
 全く別のことですので、ここに記すか否か迷ったが、誤解が広がってはかなわんので、記しておきます。
 
 私は、小さい頃に小児喘息とアトピー性湿疹を患ったことがあるが、大きくなるにつれて治まった。しかし、三〇歳を過ぎてからまたアトピー性湿疹が現われた。そして、それも治まったと思っていた頃、三年くらい前から花粉の季節になるといわゆる花粉症が現われ、アトピー性の土台があるからか時々顔が赤くなるようになった。
 そこで、「衆議院本会議場にいる西村眞悟の顔が赤いのは、昼間から酒を飲んでいるからだ」と誤解した人がいるらしい。そして、この頃では、西村は酒を飲んで本会議場にいるという話が主に議員の中で噂となっているという。

 しかし、アトピー性体質と花粉症の説明のとおり、この噂がもしあるとすれば全くの誤解であります。私は、酒を飲んで本会議場にいたことは一度もありません。私の顔が赤いのは、よく歩いて日焼けしたからであり、もしくは、アトピー性湿疹に花粉症が加わったからです。いずれにしても、酒を飲んだからではありません。
 以上、誤解にもとづく噂があるということですので、ここに場違いではありますが、そうではないということを書かせていただきました。
 お読み頂いてありがとうございます。

 
平成
1 8
年
5
月
1 8
日
(木 )
曜日
Copyright(C)2007 西村眞悟事務所