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眞悟の時事通信バックナンバー
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教育基本法改正の動きについて
 この度、与党即ち自民党と公明党は,教育基本法改正案について合意したと報じられた。両党の論争の焦点と報道されていた「愛国心」に関して妥協が成立したという。

 そこで、本日朝八時から、この与党妥協案を前提にした教育基本法改正のための超党派の議員連盟(平沼赳夫会長)役員による検討会が行われた。
 配布された与党の最終報告をみれば、
なるほど、「教育の目標」の項の第五に
「伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」と書かれている。
この条文を以って「愛国心」が基本法に入ったと報道されているわけである。
 
 ちなみに、この項の第一は「知識と教養を身につけ真理を求める態度を養うこと」、第二は「個人の価値を尊重し・・・自立の精神を養い・・・勤労を重んじる態度を養うこと」,第三は「男女平等,公共の精神に基き・・・社会の形成に参加しその発展に寄与する態度を養うこと」、第四は「生命を尊び自然を大切にし環境の保全に寄与する態度を養うこと」であり、第五が「国と郷土を愛する・・・」である。

 そこで、今朝の役員会で出た意見は、全て「改正案は、まことに不充分な妥協である」という前提から発せられたものばかりであった。
 条文を読んで明らかな様に、この「教育の目標」では、各項に「態度を養う」という文言が羅列されている。
しかし、「真理を求める態度を養う」とか「国を愛する態度を養う」とかの表現は奇妙ではないか。これでは、「教育の目標」とは,そういう「態度」をさせることであって「心」とは別物だということにならないか。
 例えば,卒業式で左翼教師が生徒に国旗・国歌を尊重する「態度」をとらせるが、平素は国旗・国歌を無視する「心」を教え続けることも,「教育の目標」に適合することになるではないか。
 また、「教育の目標」に掲げられた五つの項目の中で「国を愛する態度を養う」が何故一番後に位置付けられるのかという疑問も提起された。
 
 他に,この度の与党合意案では、従来から一定の政治勢力が教育現場を排他的に支配するための有力な方便に使われた極めて政治的で曖昧な文言もそのまま踏襲されている。
 それは,第十条の「教育は,不当な支配に服することなく・・・」という文言である。この文言を楯にして、例えば左翼的偏向教育も,それを是正しようとする意見は「不当な支配」として排除して続けることができたのである。

 さて、私の意見であるが、
 私は、今朝意見が出た「教育の目標」の項の前に位置する「教育の目的」に注目して、ここに問題があると考えた。
 この改正案における「目的」と「目標」の関係であるが,改正案は「目的」を実現する為に達成すべきものを「目標」として前記のとおり五つ掲げているというものである。
 従って、「目的」が不充分ならその「目的」を実現する為の「目標」達成にいくら努力しても不充分に終わらざるをえないという構造になっているのである。

 そこで、改正案は「教育の目的」を如何に規定しているのか,以下、その全文である。
「教育は,人格の完成を目指し,平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた,心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」

 何とも無色透明で無国籍の文書ではないか。他国ではなくこの日本に生まれた者の教育という具体的な問題意識は感じられない。
私は,この「教育の目的」を読んで、「国を愛する」ことが、次の「教育の目標」において最後尾に位置付けられていることや、「心・精神」ではなく国を愛する「態度」を作ることが目標とされていることの理由がわかったような気がした。
 
 私の考えている国の教育つまり国民教育の目的とは、単に「心身とも健康な国民」を育成することに止まるのではなく、それによって,
「日本という祖国の安泰と永続と繁栄を期する」ことにある。
 つまり、改正案の「教育の目的」から、「国家」・「お国」が抜けているのだ。これでは、お国のことなど考えず関心もないホリエモン的生き方をする国民の育成も,この「教育の目的」の範囲内となってしまうではないか。
 
 よって,国家の担う国民教育の目的は,国家の存立と不可分であり、教育勅語に述べられたとおり、人間愛をもって生業に励み学業に励みながら、国家の危急時には率先して義勇を以って国家を守る国民を育成することによって「天壌無窮の皇運を扶翼する」、つまり世界に二つとない我々の誇りある祖国の限りなき繁栄に奉仕することにある。
 
 改正案は、この教育と国家の運命との不可分の関係を押さえていないので,教育における「国を愛する心」の位置付けができていないのである。

 さらに、この「国を愛する心」は他の人間愛の中で如何に位置付けられるべきであろうか。
 二千年前のローマの政治家にして文筆家であったキケロの考えがそのまま今も通用する。そして、このキケロの考えは、我が国の教育勅語の中で述べられている人間愛の体系と同じなのである。
 即ち、キケロは夫婦愛や友情という多くの人間愛の中で,
「祖国への愛」を中心的な最高の価値ある人間愛とする。
そして彼は言う。友情や親子の愛や夫婦の愛が大切なことは我々は知っている。しかし、「祖国への愛」がなければ,それら大切な人間愛も結局は無意味なものとなる。ローマに危機が迫ったときに祖国の為に命を投げ出すことをためらうローマ市民は一人もいない。

 我々も、人間愛の中で愛国心つまり祖国への愛が如何に位置付けられるか考えなければならないと思う。例えば、いくら恋人を愛していても、祖国に危機が迫るときに、我関せずと逃げていれば、恋人を守ることも放棄することになり、結局キケロのいうように恋人への愛も無意味となる。祖国への愛を果たしてこそ、他の人間愛も維持されて尊いものとなるのである。
 従って,現在の我が国においても、「祖国への愛」は他の全ての人間愛を包含する崇高な愛として把握されなければならないと思う。

 この度の教育基本法改正案の検討者と起案者は、
祖国と不可分の「人間愛の体系」を持っていなかった。
 従って、教育の目的も的確に表現できず、
教育における国を愛することの位置付けもできていない。
平成
1 8
年
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1 4
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