お健やかに、新春をお迎えになったことと、お喜び申し上げます。本年の皆様のご活躍とご健勝を祈り申し上げます。
また、本年もよろしくお願い申し上げます。
昨年末来の私の逮捕と拘留という事態で、ずいぶんご心配をおかけし、ご迷惑をおかけしました。
私の不徳の致すところです。まことに申し訳ございません。
事件のことについては、今後公判廷で申し上げることとなりますから、この場ではひかえさせて頂きますので、このことご理解頂きますようにお願い申し上げます。
昨年来、私は「反省と感謝の日々」を過ごしてきました。
では、反省は分かるとしても、「感謝」とは何か。
それは、やせ我慢ではなく、天に対する感謝です。
何故なら、「逆境は天の恩寵」であるからです。
さらに、暖かい多くの方々の励ましに対して、心より感謝申し上げる日々です。お手紙で電話で、また、街頭で新幹線内で「がんばれよ」と声をかけて頂いてきました。
苦しいときの皆様のお励ましは、生涯忘れることはありません。心より、お礼申し上げます。
ありがとうございます。
さて、本日、本年初めてこの時事通信に入力できます。
それは、昨日(1月26日)やっと押収されていた自宅のコンピューターが大阪検察庁から戻されてきたからです。戻されたのは自宅だけで、東京事務所などの器機は未だ押収されたままですが、私の使い慣れた器機が一つ戻されたことは、実に嬉しいので、遅れましたけれども、先ず、この場からの新年のご挨拶をさせていただいた次第です。
〜至誠の人、塩田晋先生を偲ぶ〜
さて、新年のご挨拶に続いて、お伝えしたいことがあります。
それは、昨年十二月十一日に亡くなられた
前衆議院議員 塩田 晋先生のことです。
塩田晋先生は、私と同じ「民社党」出身の大先輩です。
先生と私は、民社党解党と新進党結成、新進党解党と自由党結成と歩みを共にしてきました。そして、自由党と民主党合併の平成十五年に塩田先生は政界を引退されたのです。
ところで、私たちの出身政党である「民社党」とは何か。
それは、「勤労の同志」、「愛国の同志」を結集して誇りある祖国日本を建設しようと志した政党であり、国防や国家の基本問題に関しては自民党より遙かに「右」といわれた政党です。
私たちの出身政党は、この「民社党」なのです。
私は、塩田先生が、十二月十一日に七十九歳で亡くなられたということを、大阪拘置所内で接見に来てくれた弁護士から十二月十三日の朝に教えられ、先生が最後まで西村のことを心配し、議員を辞めたらいかんと言われていたことを知らされたのです。
翌日独房内で、追悼文を書きました。
そして、保釈を許された十二月三十日に加古川市の塩田先生の自宅で、仏壇の先生の写真に向かって、その追悼文を読み上げさせて頂いたのです。
次に、この追悼文を記載しますので、真の至誠の人であった塩田先生の事績の一端を知り、共に偲んで頂きたいと存じます。
私はノートに、次の独白を書いてから追悼文に続けました。
「昨日の弁護士接見で、塩田先生が亡くなったことを知らされた。今朝、夢のなかで塩田先生を思った。そして、先生の期待を受けた身を感じた。塩田先生、ご心配なく、任務は果たさせて頂きます。速く此処から出てご挨拶にいきたい。」
『獄中より、謹んで塩田晋先生の霊に捧げる』
平成17年12月14日
衆議院議員 西村眞悟
塩田晋先生は、大先輩として終始私を指導して下さり、民社党以来の同志として、政治的行動をともにして下さった。
先生の憂国の至誠と志は、我国の現状がますます混乱に向かう中で、いよいよ堅固に、また明確に打ち出され、かの外国人参政権法案を廃案に持ち込んだのは、大きな与野党の功ではなく、一人塩田理事の存在にかかっていたのである。
公職選挙法特別委員会で、この法案の本会議上提を決する理事会に臨む、自民・公明の与党と民主の野党は、ともに外国人参政権法案賛成にしてそれを提出した与党であり、またそれに賛成の党決定をした野党であった。この情況下で、しかも所属する自由党の党代表が、韓国大統領に外国人参政権賛成推進を明言した中で、本法案を廃案にまで持ち込んだ者は、一人塩田晋先生だったのである。
その時塩田先生は、単に議会内の一議員としてではなく、日本の伝統と民族の正氣を体現して、議会に存在していた。そう考えなければ、この理事会内の構造の中で、唯一人で本法案を廃案にし得た原動力を到底説明できないのだ。
その後、自由党解党と民主党との合併の話を、平成15年7月に党代表が突然表明する。私はその時、グランドパレス市ヶ谷で自由党のパーティーをしていた。自由党のパーティーの最中に、自由党解党の話が飛び込んできたのだ。
塩田先生は、その時既に引退を表明しておられたが、この事態に接し西村が新党を結成して真正保守の道を進むならば、喜んでともに進み、5名の議員確保による新党結成のためにがんばろうと申し出てくれたのである。しかし、突然の解党合併の話であった。新党の意と熱は燃えるようにあるもその勢は伴わず、断念せざるを得なかったのである。先生も、いかばかり心残りか。小生も2〜3ヶ月、静座して心身をたて直しつつ、苦悶したほどであった。
思い残すことは、先生が衆議院安全保障委員長であり、西村が理事の時のことであった。この時、当委員会で尖閣諸島視察の話が出て、西村は自民・民主はもちろん共産党にも異議なしの言質を取ったのである。よって、ついに当委員会での尖閣諸島視察にこぎつけることができたと、思わず、心の中で万歳を叫んだ。
ところが、土日曜日と東京から目を離した2日間のうちに、どこからの巻き返しか(外務省と防衛庁内局、官邸などか?)、事態逆転し、尖閣視察断念に追い込まれていたのである。
塩田委員長も極めて残念であられたと思う。しかし、委員長の立場上、視察は実施されなければならず、結局国境の島である対馬のレーダー基地視察が実施された。
しかし、私は尖閣視察がつぶれた後で、フテくされて、対馬視察に参加しなかったのだ。今となれば、先生と公務を国境の島である対馬でともにできる唯一の機会を放棄してしまった。これが悔やまれてならない。
先生は、本年満79歳になられたと思う。本年9月の総選挙に際し、加古川の仲間と陣中見舞いに堺まで来て下さった。
先生は議員を引退されても、その至誠と志は決して衰えず、むしろ壮者を凌いだ。
先生は老いて、老いられていなかった。
真人であられた。そして、何よりも、真の日本人であられた。
先生、ありがとうございます。安らかにお眠り下さい。
|