八日と九日の二日間、富士山の麓にいた。
この二日間にわたって、富士山は翳りのない山容を青い空に浮かび上がらせてくれた。その姿が瞼に消えないので、富士山について述べたいと思う。
二日間にわたって翳りのない富士を眺めることができるのは、希有のことである。
私は、年に二百回近く東海道新幹線で大阪東京を往復している。しかし、車窓から雲に遮られることなき富士山を仰ぐことができるのは一年に2,3回しかない。速い新幹線の中から富士を仰ぐことができる時間は、ほんの数分である。その数分間の内でも、富士は瞬く間に雲に姿を隠すことがある。
富士山を仰ぐとき、いつも父のことを思い出す。
亡き父は末っ子に、仰ぎ見る富士山を教えてくれた。
東海道本線が、電化前で未だ蒸気機関車の特急が走っていた昭和二十年代の後半、私は父に連れられて東京に向かっていた。四歳になっていたかどうか、記憶は定かではない。
いつの間にか座席で眠っていた私を父が起こしてくれた。そして、父に連れられて最後尾にある展望車の屋外に出た。その時、父が指さした方向を見ると、紺碧の空に真白き富士の姿が、ドーンとあったのだ。
私は、息をのんで眺めていた。
あの父とともに展望車から眺めた富士山以上のすばらしい富士山を未だ見たことがない。それゆえ、今五十を過ぎても、富士山を眺めるたびに父が展望車のデッキから指さしてくれたあの富士山を思い出す。それはまさに、聖なる山、霊峰であった。
そして、いつの頃からか、父が私に遺産として残してくれたものは、富士のあの霊峰の姿なのだと思うようになったのである。
父は、西郷南洲を敬仰していた。
「幾たびか、辛酸を経て、志初めて堅し」ではじまる西郷の詩は、「自孫の為に美田を買わず」で終わっている。
父は、この詩を覚えておけよと中学一年生の私に言った。そして、その八年後に亡くなっていった。
さて、日本山岳史上、記録に残る登山の始まりは、天武朝四年(西暦六七五年)、役小角の大峰山脈開山である。
富士山の登山記録の始まりは、貞観十二年(八七〇年)である。八六四年の富士山大噴火の後、国司の命により氏名不詳のものが噴火口の様子を見るために登頂した。その報告書が登頂記録として残っている。
驚くべきことに、富士山の高度を上回る山岳の登頂記録は、
一五二三年まで世界的に見あたらないという。
ということは、日本人は一五二三年まで、世界最高高度到達記録を保持していたことになる。
さらに、一一四九年に登頂した末代上人は、富士修験の先駆者で生涯に数百回登頂している。そして、鎌倉期に富士修験は隆盛するが、戦国期に衰退する。
それに代わって、冨士講を興したのが藤原角行で一五七二年登頂して修行を開始している。この富士講は江戸期に大隆盛期を迎え、大衆の山岳信仰となった。
そして現在も、富士山ほど仰ぎ見られる霊峰はないであろう。
以上の通り、富士山は、太古から驚くほど多くの人々に登頂され、世界山岳史上、稀に見る山であることが分かる。
さらに富士山は、単に登頂の対象としての山に留まらず、その霊気のゆえか、万葉集の時代からから現在まで、多くの画家や詩人歌人という芸術家も、富士山に取り組んでいるのである。
まさに富士山は、日本一の山、日本国民の山なのである。
この度、この富士山とともに太古からある浅間神社の総代をはじめ、麓の富士山と共に生きる皆さんのお世話になりながら、初めて富士を仰いでお国のことを語り合うことができたのである。
よって、いささか異例ながら、この場で、富士山の麓に生きる皆さんに感謝しながら、我が敬仰する富士山のことを述べさせて頂いた。
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