大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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関行男大尉から熊本、天草へ

平成25年10月29日(火)

 昭和十九年十月二十五日、
 関行男海軍大尉ら五名はフィリピンのマバラカット基地から神風特別攻撃隊第一号として飛立ち、敵空母一隻撃沈、同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を挙げた(海軍省発表)。
 かねてより関大尉らの慰霊に参加したいと思っていたので、本年のこの日、関大尉の郷里である愛媛県西条市で行われる「神風特攻敷島隊五軍神・愛媛戦没者追悼式典」に出席予定でいたが、前日の二十四日、主宰者より台風二十七号接近のため追悼式中止の報を受けて愛媛行きを断念した。
 
 大阪から激しい風のなかを、四国に走るのを楽しみにしていたのに。
「鉄の暴風雨」の中を敵艦目がけて突っ込んだ関大尉らの追悼式を、「水の雨」が降るのを理由に止めるなよと思った。

 ここに、関大尉が漏らした本音とも言える最後の言葉を記しておきたい。
 関大尉、享年二十三歳。
 「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に五十番(五百キロ爆弾)を命中させる自信がある。」
「命令とあらばやむを得ない。僕は彼女(新妻)を護るために死ぬんだ。最愛の者の為に死ぬ。どうだ素晴らしいだろう!」
「僕は短い生涯だったが、とにかく幸福だった。しかし、列機の若い搭乗員は・・・」
「どうして自分が選ばれたのか、よく分からない」

 なお、関大尉ら五機は、同月二十一日に出撃するもルソン島南部に不時着し二十二日マバラカットに帰投、次の二十三日、二十四日にも出撃するも天候不良や敵艦を発見できずに基地に帰投した。
 この間、どんな気持ちだったろうか。思うだけでも胸が締め付けられる。
 そして遂に、二十五日に戻らぬ出撃をして敵艦に突っ込んだ。
 
 関大尉隊が、この出撃と帰投を繰り返した故に、
特攻第一号は、関大尉より四日前に出撃した久納好孚中尉となる。
 関大尉は海軍兵学校出身であるが、久納中尉は、愛知県生まれで大学出の予備学生出身であり、学生時代から学生飛行連盟のメンバーで、ピアノも巧みに弾き出撃前夜まで基地内の洋館のピアノを借りて「月光」などを引いていたという。
 久納中尉は、出撃に当たって「機関銃も無電も不要、外してゆく」と言って出撃していった。そして、掩護機も付かず戦果も確認されていない。
 しかし、この久納中尉が、特攻第一号なのである。
 以上、城山三郎著「指揮官達の特攻、幸福は花びらのごとく」より。

 とはいえ、どちらが一号か二号かよりも、二十二歳、二十三歳の長い猛訓練のなかで高度の技量を身につけた若者が、攻撃即戦死というただ一回の出撃で死んでいった。
 そして、この特攻出撃は、二十年八月十五日まで続き、数千名が突っ込んでいった。
 
 昭和二十年八月十五日夜、最後の特攻出撃をして戦死したのは、関大尉と兵学校同期の中津留達雄大尉である。
 彼は、第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将の八月十五日の正午過ぎの、即ち玉音放送後の、命令により、艦爆機彗星十一機を率いて宇垣長官を乗せ、夜、沖縄方面に突っ込んだのである。
 享年二十三歳。彼には新妻と幼子がいた。

 大西瀧次郎中将も阿南陸軍大臣も、一人で割腹してケジメをつけた。
 宇垣司令は、何故、中津留大尉らに道連れを命じたのか!

 改めて、特別攻撃隊として散華した多数の十代後半から二十代前半の若者のご冥福を祈り、
 彼らの熱い期待に応えて、誇りある祖国日本を再興するのが今生きている我らの使命であると心に決したい。
 
 二十五日の慰霊祭中止から今まで、特攻隊員のことが、心から、頭から、離れないのだ。

 次に翌二十六日から二十七日には、台風一過の故、かねての予定通り熊本から天草を訪れた。

 熊本空港に着き、友人の運転する車に乗せてもらい、阿蘇の狩尾にある合気道の木村道場にて木村先生からお教えをいただき(実は私はこの道場の門弟なんです)、その後、熊本市内の路上で、熊本に行幸されている天皇皇后両陛下の車列が通られるのを待って、同志二十名余と天皇陛下万歳を叫んだ。
 その後に天草に入った。
 そして翌二十七日、天草の本渡諏訪神社に参拝した。
 
 私が、議員として靖国神社に参拝してより、大変お世話になった靖国神社大野俊康宮司(第七代)は、この天草の本渡諏訪神社のご出身である。
 大野俊康宮司は、大正十一年に生まれ、学徒出陣で陸軍飛行学校に入校し、特別攻撃隊員となるも、終戦により陸軍少尉で復員し、本渡諏訪神社宮司から靖国神社宮司となり、
平成二十五年四月十六日帰幽された。享年九十二歳。

 神社では、息子さんの大野康孝宮司から、
お父上が英霊が祀られる靖国神社宮司になられるに際して、
天草から持参された菊池千本槍の短刀を見せていただいた。
 実にゾクッとする実戦用の短刀だった。
 短刀からは、靖国神社宮司御就任に際しての大野俊康大人命の決死と言うべき覚悟のほどが伝わってきた。
 もしものときの自決用として持参された短刀だと思う。
 この短刀と、本渡諏訪神社境内と天草を観て、靖国神社の松平宮司が、ご自分のつぎの宮司に大野俊康宮司を望まれた思いが実に分かった。
 本渡諏訪神社には、実に、尊皇愛国の気がみなぎる。

 さて、天草で、大野康孝宮司の導きにより、
 鈴木重成という真の侍に出会った。
 このような人物を生み出している日本の歴史を誇らしく思った。
 
 鈴木重成、捨身懸命の生涯。
 天正十六年(一五八八年)、三河国に生まれる。
 一六二八年、摂津、河内の堤奉行となり、
     大阪の陣戦没者供養のために長居に臨南寺を創建する。
 一六三七年、島原の乱に出陣する。
 一六四一年、天領となった天草の初代代官となる。
 一六五三年、天草の石高半減を幕府に訴えて自刃する。
 一六五九年、天草の「石高半減」が実現する。

 島原の乱は、次の通り、二五〇年後の西南の役の規模を遙かに超える日本史上最大の大内乱であった。
 西南の役、一八七七年(明治十年)
 動員兵力 官軍七万、西郷軍三万
 戦死者  官軍六四〇〇、西郷軍六八〇〇
 
 島原の乱、一六三七年~三八年(寛永十五、六年)
 動員兵力 幕府軍十二万五千八百、一揆軍三万七千
 戦死者  幕府軍八千(死傷)、一揆軍全滅

 そして島原の乱後、天草は疲弊し人心も荒廃した。
さらに、天草の年貢徴収の前提になる石高は、実際の石高の二倍の四千二百石とされ島民は重い年貢に苦しんでいた。
 
 天草初代代官鈴木重成公は、幕府に石高半減を嘆願した。
 鈴木代官は、重い年貢が、あの悲惨な島原の乱の根底になったと判断して、綿密な石高調査の結果を示して幕府勘定奉行に天草の石高半減を訴えたのである。
 しかし、当時の掟は、幕府への嘆願は、三度を超えれば切腹を覚悟しなければならない。
 よって、鈴木重成は、将軍への上表文を書き遺し、天草の民百姓の救済を願い、決然と割腹した。
 まさに捨身懸命である。享年六十六歳。
 
 之により、「石高半減」は聞き届けられ、天草は荒廃から復興に向かう。
 二百五十年後の西郷さんは、この鈴木重成公の事跡を知っていた。
 よって、「税を薄くして民を富させることが国を豊かにする道だ」と述べている(西郷南洲遺訓より、安倍晋三さん、分かるか。今からでも遅くはない。鈴木重成公と西郷さんにさらに学んでほしい)。
 
 その後、天草三十か村は、鈴木重成公を祀り、村人は本渡の丘陵に鈴木重成公の遺髪を埋めて祠を創った。
 その後、この祠は鈴木神社となった。
 我々は、二十七日の昼前、大野康孝宮司の案内で鈴木神社に参った。

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