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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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母のこと

平成14年12月18日(水)

 やはり、この欄で、母のことをお伝えしよう。
なぜなら、私は、母なくして存在せず、私の政治活動も、母なくしてないからである。

 母西村秀子(洗礼名 マリア)の歩んだ道のり

 母は、明治四十二年一月二十日に、東京の神田で生まれた。父は東儀哲三郎、母は東儀サイ。母は、三人兄弟の二女であった。
 母によれば、思い出の東京の、赤坂見附から溜池にかけては池があったし、靖国神社の鳥居のしたは階段であった。

 東儀家は、宮中の雅楽を伝える家であったが、父哲三郎は、明治維新の時代に生きて、西洋音楽を志し、母が生まれた頃には、上野の東京音楽学校でバイオリンを教えていた。
 この雰囲気のなかで、母はピアニストを志す。現代のように学校でピアノの先生がいないので、ドイツ人の音楽家を家庭教師に招き、一対一でピアノを学んだ。
 そして、父哲三郎はバイオリン、娘の母はピアノでベートーベンのクロイテェルソナタを演奏した。
 母の一家は西洋音楽を身につけた最初の世代の日本人といえる。

 関東大震災前に、一家は関西に移る。父哲三郎が、新しくできた宝塚歌劇団のオーケストラの指導を引き受けたからである。母も東京での洋服を着た仏英和(双葉の前身)での学校生活から未だ和服が主流の大阪の生活に移った。
 以後母は、音楽修行の為に単身東京で生活することがあっても、ほぼ関西で暮らす。

 戦前の母は、ピアノを演奏し、多くの人にピアノを教えた。
 そして、私の父西村栄一と結婚した。
 戦後、父栄一は、政治家の道を歩み始めた。従って、戦後の母も、政治家の妻であり、二.三年に一度の選挙では候補者の妻であり、多忙であった。この候補者の妻の多忙さは、夫である栄一が昭和四十六年四月に亡くなるまで続いた。

 私は、昭和二十三年、母の三十九歳の時に生まれた末っ子である。
 私の初めての記憶は、昭和二十年に小児麻痺として生まれた兄を支えて、家の近くの坂を駅の方に登っていく母と兄の後ろ姿である。

 兄は、母が空襲を逃れて移動する中で早産で生まれ、小児麻痺と診断された。
 兄は、高校生ぐらいから足の指に絵筆を挟んで絵を描き始めた。そして、足と口で絵筆を持つ芸術家で創る世界身障者芸術家協会の会員になり、太平洋画会の会員になった。
 兄としては、足で描こうが手で描こうが、どうでもいい、描いた絵が良いかどうかだ、と思っているので手で描く人の会である太平洋画会の会員になった事の方が嬉しかったであろう。

 兄は、障害が進み、十年前くらいから足で筆をもてなくなった。従って、今まで描いた兄の絵は、母と兄の合作である。
 母は、八十歳後半まで、この兄の世話をした。

 私は、二十一歳の時に父と死別したが、発憤することなく、かえってだらしなく、大学に居続けて、モラトリアム人間になってしまった。

 このことが如何に悩みの種として母をヤキモキさせたことか。

 母が少し安堵したのは、私が三十四歳で役所をやめて弁護士になる見通しをつけた頃からか。そのころ母は、既に七十歳をはるかに超えていた。

 昭和六十二年から六十三年にかけての四ヶ月間、私は思うところあって、ロンドン郊外に下宿していた。
 そして、思い定めて、
「僕は政治家になり、偉大になる」
と母に手紙を書いた。
 はるばるイギリスの田舎に送られてきた母の返事には、一言、
 「私は幸せです」と書かれていた。
 父が亡くなってから既に、十六年が経っていた。

 母は、八十台半ばまで兄の世話をした。
しかし、それが無理となって、二百メートルほど離れた私と共に住むようになった。そして、私と共に、また私の妻と共に、手を引かれて、兄の家まで散歩するのが日課になった。

 私と歩くときは、時々、
「私いくつになったんかなあ」と聞いた。
「九十歳だよ」と答えると、童女のように無邪気に笑って、「ヘー、いつの間に、九十になったんやろ」と言うのだった。

 毎年晩秋には、仁徳御陵の漆の木の葉が、真っ赤に紅葉する。母は、それを見て、「きれい」というのが常だった。しかし、今年の秋は、この紅葉を見ることが出来なかった。

 この秋は、拉致問題が最大の課題だった。
 母と散歩が出来なくなった事を気にしながら、十月二十七日に堺の自宅に帰ると、母はベットの中にいて再び立ち上がらなかった。

 ドクターに来てもらうと。「自然にしといて」と言った。
 僕が母の手を握っていると。「ありがとう」と言って、その手を頬に当てた。
 イチジクの半片を口に入れると、「おいしいけど、もうええわ」と言って食べなかった。

 十一月三日、病院で、母は、横にいる人につぎつぎと、「あんた、いくつになった」と聞いた。そして「後○○年がんばりや」と言うのだった。
 僕には、年を確認してから「あと三十年がんばりや」と言った。

 その日の夕刻、僕の顔を見て、「私は幸せやった」と言った。
それから目をつぶった。
 僕がそっと手を握っていると、目を開いて、「あんたの手はやさしいなあ」と言った。

 十一月八日、東京から帰り、病院に行くと、僕の手を頬に当てて、「長いこと生きてきた」と言った。
 「今度は火曜日に帰れるよ、おみやげをもってくるからな」と言うと、
 「今日は何曜日や、あんたが帰ってきてくれたらそれでいい、おみやげはええよ」と答えた。

 十一月十五日、帰宅して病院へ
 声をかけると「お帰り」と言う。
 十六日、声をかけると、気の毒そうに「忙しいのに」と答える。
 そして目をつぶる。

 十一月二十四日、眠り続ける。時々目を開けたとき、僕を見てほほえむ。そして目を閉じる。目を閉じながらうなずいている。
 目を開ける方向に花束を掲げていると、花を見て、本当に嬉しそうにほほえむ。
 もう何も話さない。ただ、ほほえむだけ。
 母と息子はうなずきあってこの日を過ごした。

 十一月二十九日、帰阪。市民会館で拉致日本人救出堺大集会。成功、二千名を超える参加者が同胞の救出を訴える。
 病院へ行く。酸素吸入が始まっている。二十九日、三十日、十二月一日泊まり込み。二日未明、病院へ。血圧低下。

 二日午後三時過ぎ、九十三歳十一ヶ月近くの一生の最後の息をする。
 同二十三分、生まれる前の世界に還っていく。

 母は、幼い頃、兄弟で一番病弱で弱く、お茶の水近くの大学病院の医師に、「この子は、ひびのはいった花瓶が自然に割れるように、育ちませんよ」と言われたという。
 祖母は母を負ぶって泣きながらお茶の水の堤を歩き家に帰ったという。明治末年頃のことか。

 しかし、母の姉は、両親より早く亡くなり、弟の東儀正博は、帝国陸軍航空隊に入り、後年自分の庭だといって単身飛び立ち、赤道直下のアンボン沖で墜落して死亡した。
 そして、育たないと言われた母が、明治、大正、昭和、平成と九十三歳まで生きたのだった。

 父が、感覚の鋭さに敬意を払ってそのアドバイスに耳を傾け、私ども子供より芸術的才能にはるかに優れた母、西村秀子(洗礼名 マリア)の最後の言葉は、
「ありがとう、幸せやった」だった。
この言葉、交響曲のように僕の五体を包み、母と僕は今まさに共にいる。
やっと僕は、歩行不自由になった母を残して永田町にいるという寂しさから解放された。

 母のこと、ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
 母は幸せに、還っていきました。
 私どもも、またいくことになります。
 その時まで、幸せであると決意して、がんばり抜きましょう。

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