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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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乃木希典夫妻の葬儀と軍司令官最後の報告

平成24年9月17日(月)

 この九月は、乃木希典夫妻殉死百年の月だ。
 今月三度目になるが、あえて、また、乃木さんのことを書いておきたい。明日九月十八日は、乃木夫妻の葬儀から百年の日だから。
 
 振り返れば、平成になってから、いつも乃木さんのことを思っていたように思う。その間、乃木坂の乃木邸近くに三年間住んだ。私にとって、心に何時も甦ってくる人は、
 乃木希典大将と西郷南洲翁だ。
 二人は時に、乃木さん、西郷さんとして親しく甦る。
 二人を思うと泣けるときがある。
 そして、この二人は、我が国が、運命のかかった時局に直面するときには、単に私の中に甦るのではなく、国家の中に甦る。

 思えば、この二人は、明治十年の西南の役で敵味方に分かれて戦っている。乃木は敵に軍旗を奪われた連隊長の陸軍少佐として、西郷は、薩摩反乱軍の総大将として。
 乃木の上官であり日露戦争の満州軍総司令官であった大山巌元帥も、十五歳年上の従兄である西郷を、兄貴とも父親とも思って敬仰していながら、西郷軍と戦った。
 そして、大山は城山での西郷の死後、西郷のように、兄さのようになろうと心に決め、後年、今西郷と呼ばれるようになった。
 乃木が西郷を如何に思っていたか確認していないが、今西郷の大山が、乃木について語った言葉が残っている。
 日露戦争において、旅順の要塞が陥落せず、大本営や総司令部で、乃木軍司令官更迭論が出た時だ。彼は更迭論を排して次のように言った。
「誰がなんと言っても、この困難な要塞攻撃の全将兵が、仰いで以って、『この人の下でなら』と敢闘を続けるような信頼をかけている将帥は、乃木大将のほかにはいない。」
 この大山巌元帥は、大正五年に七十四歳で亡くなる。
 その最後の時、彼はしきりに「兄さ、兄さ」とうわごとを言った。その時彼の妻が、「貴方、やっと西郷さんに会えたのですね」と語りかけたという。

 では、大山が言う「全将兵が、仰いで以って『この人の下でなら』と敢闘を続けるような信頼をかけている将帥」とは如何なる人なのか。
 それは、死地に赴く将兵を「国家の大義」と不可分に結びつける人である。死にゆく者に、犬死ではなく悠久の大義のなかに生きるとの確信を与え、鬼神に勝る勇戦奮闘をさせえる人である。
 明治三十七年十一月二十六日、乃木は旅順要塞に夜間突入する白襷隊三千名の将兵を前にして、隊列のなかを歩き、涙を流してただ、「死んでくれ」、「死んでくれ」、と言った。そして、彼らは死にに行った。
 この白襷隊を要塞にこもって機関銃で撃退したロシア側記録は、彼らの身の毛のよだつ鬼神のような攻撃を受けたときに、我らは精神的に屈服した、深刻な衝撃を与えられた、と記録している。このロシア側記録は、旅順はステッセルが降伏を乃木軍司令官に伝達した一九〇五年一月一日に降伏したのではなく、その前年の白襷隊の攻撃を受けた十一月二十六日に既に屈服したと書いているのだ。
 乃木希典とは、部下にこのような勇戦奮闘をさせ得る軍司令官だった。
 従って、この軍司令官の最後の務めとしての明治天皇への報告を次に掲載する。ここで乃木は、涙を流しながら、部下の死と国家の大義を不可分に結びつけている。

 第三軍司令官報告
      臣希典
 明治三十七年五月第三軍司令官たるの大命を拝し、旅順要塞の攻略に任じ、六月剣山を抜き、七月敵の逆襲を撃退し、次いでその前進陣地を攻略し、鳳凰山及び干大山の線に進み、敵を本防御線内に圧迫し、我が海軍の有力なる共同動作を相須ちて旅順要塞の公圍を確実にせり。
 八月大孤山及び高崎山等を陥し次いで強襲を行い東西盤龍山の三塁を奪ひ爾後正攻を以て攻撃を続行し、遂次要塞に肉薄し、十一月下旬より十二月上旬に亘り二〇三高地を力攻して遂にこれを奪取し、港内に蟄伏せる敵艦を撃沈せり。
 既にして攻撃作業の進捗に伴ひその正面の三大永久堡塁を占領し直ちに望台付近一帯の高地に進出し、将に要塞内部に突入せんとするに當たり、三十八年一月一日敵将降を請ひ茲に攻城作戦の終局を告げたり。
 時に北方に於ける彼我両軍の主力は沙河付近に相対し戦機正に熟し軍の北進を待つこと急なり。
 因りて一月中旬行進を起こし二月下旬遼陽平野に集中し、直ちに運動を開始して奉天付近の会戦に参與し、全軍の最左翼にありて繞囘運動を行い、遂次敵の右翼を撃破し奉天西方に邁進してその退路を遮り、連戦十余日尚敵を追躡して心臺子石佛寺の線に達し、一部を進めて昌圖及び金家屯付近を占領せしめたり。
 五月各軍と相連なりて金家屯康平の占め尋いで敵騎兵大集団我が左側背に来襲せしも之を駆逐し、茲に軍隊の整備を終わり機の塾せるを待ちし所、九月中旬休戦の命を拝するに至れり。
 之を要するに本軍の作戦目的を達するを得たるは、陛下の御稜威と上級統帥部の指導並びに友軍の協力による。

 而して作戦十六か月間、我が将卒の常に勁敵と健闘し忠勇義烈死を観ること帰するが如く、弾に斃れ剣に殪るる者皆陛下の万歳を歓呼して欣然として瞑目したるは、臣之を輻輳せざらんと欲するも能はず。
 然るに斯くの如き忠良の将卒を以てして、旅順の攻撃には半歳の長日月を要し、多大の犠牲を供し、奉天付近の会戦には、攻撃力の欠乏により退路遮断の任務を全うするに至らず、また騎兵大集団の我左側背に行動するに当たり之を撃砕する好機を獲ざりしかば、臣終生の遺憾にして恐懼措く能はざる所なり。

 今や闕下に凱旋し戦況を伏奏するの寵遇を担ひ、恭しく部下将卒と共に天恩の優渥なるを拝し、顧みて戦死病没者に此の光栄を分かつ能はざるを傷む。
 爰に作戦経過概要死傷一覧表並に休養及び衛生一班等を具し謹んで復命す。
 明治三十九年一月十四日
   第三軍司令官男爵 乃木希典

 この報告書に、「攻撃力の欠乏により退路遮断の任務を全うするに至らず」とある。これは武器弾薬が尽きていたということである。つまり、統帥部は、武器弾薬も渡さずに包囲殲滅の任務だけを与えたということだ。
 従って、後日責任を追及されかねないと懸念した軍事官僚たちは、乃木の報告のこの部分を公式記録から削除しているという。彼らは、自分たちの非は一切認めず、乃木愚将論を煽って責任逃れに走った。こういう人種は、今でも官僚組織の中にいる。
 そして、このような者たちが、昭和の敗戦への道を舗装したのだ。
 筆が激してくるので、ここでやめ、葬儀に移る。

 乃木希典夫妻の葬儀は、九月十八日、青山斎場で行われた。
 乃木邸から斎場に向かう夫妻の棺を、それまで行われた如何なる高位顕官の国葬よりも多くの人々が見送った。沿道に並ぶ人々の多さは、東京開市以来最大であった。
 葬列には学習院生徒と廃兵が加わっていた。
 沿道に並ぶ人々は、乃木大将の棺が近づくと、粛として声なく厳粛に稀代の忠臣を見送った。
 しかし、次に夫人の棺が近づいてくると、群衆は一変し、合掌礼拝し、嗚咽し、ことごとく涙を流したという。

 昭和の敗戦による自虐史観の中で、乃木希典を時代遅れの愚将とし乃木流が軍隊を堕落させたようにいう人々がいる。
 しかし逆だ。
 乃木希典を忘れたから堕落したのだ。
 乃木希典を忘れたから我が国は弱体化しているのだ。

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