大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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堺について

平成18年9月15日(金)

 本日(15日)の産経新聞朝刊で、大阪特派員の皿木喜久氏が、「明治維新は堺から始まった?」という一文を書かれている。まことに、我が郷里である堺のことを書いて頂いてありがたい。そこで、皿木氏のこの記事を切っ掛けにして、
以下、堺に生まれ育った者の視点から、我が国の歴史について述べてみたい。

 西暦1600年9月15日、関ヶ原に於いて島津義弘の部隊1000名は西軍にいた。そして、西軍の敗北が決定的になったときにはじめて動き出した。
 その動く先は、東軍の総大将徳川家康の本陣である。
 断固として動き出した島津の部隊は、家康本陣に迫り、
義弘と家康は、お互いの表情を認め合う距離まで接近する。この時、義弘が家康の首を取れと総攻撃を命じていたら家康は戦死したであろう。もちろん、島津も義弘以下全員玉砕である。
 しかし、義弘は、家康を十分に震え上がらせたうえで、家康本陣の前をそのまま通過して戦場から離脱していく。
目指す先は、堺。
つまり、島津義弘は「敵に向かって退却した」のである(この状況については、池宮彰一郎著「島津はしる」に詳しいので是非読まれたし)。
 以後、薩摩では徳川二百数十年が終わって昭和になっても、「関ヶ原を忘れるな」というかけ声とともに青少年の武道鍛錬教育が続けられるのである。

 そこで、何故、島津義弘は関ヶ原から堺を目指し、堺は主従数十名になってたどり着いた島津勢を徳川家康が天下人になったのを知りながら堂々と受け入れ、さらに舟を出して薩摩に帰還せしめたのかということである。
 この疑問をたどると、何故、西暦1543年に種子島に持ち込まれた鉄砲の量産が早くも数年後に堺で始まったのかという謎に行き着く。鉄砲は、門外不出の軍事機密であり薩摩で鉄砲製造の再現を命じられた鍛冶屋は監禁状態におかれた。
 従ってその鉄砲の量産が、堺で始まったということは薩摩と堺に特殊な関係があったとしか考えられない。そして、その関係は陸ではなく海によって結ばれていた。

 今の我々の地理感覚も「陸のルート」が主体になっている。しかし、徳川期以前の日本人は、今以上に「海のルート」を意識して各地との繋がりを捉えていたと考えられる。
 徳川期以降、急速に海の向こうが遠くなったが、16世紀までは堺の商人であるルソン助左右衛門がフィリピンに活動拠点を置き、キリシタン大名の高山右近がフィリピンに移住するのも、ベトナムやタイ、カンボジアの日本人町が繁盛していたことを考えると、別に「地の果て」に行ってしまったということではなかったのだろう。
 従って、関ヶ原から離脱して堺を目指す島津勢にとって、
堺は薩摩の「海の玄関」だった。堺に入れば、島津勢はほとんど薩摩に還ったように思えていたのではないか。

 そして、西暦1600年に関ヶ原の近くに堺という薩摩の「海の玄関」があって島津家の存続が確保され、268年後の明治維新は薩摩が主体になって成し遂げられたことを考えると、
明治維新は関ヶ原の合戦直後に「堺から始まった?」という今朝の産経の記事はまことに遠大で適切な歴史観であると思う。
 
 ところで、もう一つ。
 信長・秀吉・家康の時代、16世紀に我が国社会の近代の姿つまり現代の姿の起点が決定づけられた。それを決定づけたものは「鉄砲」である。その鉄砲の量産都市は堺であった。
またこの時期、我が国内の鉄砲の総量は、全ヨーロッパの鉄砲の量より遙かに多かったという。
 ということは、堺はこの時期、鉄砲製造の世界の中心で、単に薩摩藩の運命を左右するだけではなく、我が国近代を決定する鍵を握った世界的な都市であったということになる(自慢しすぎかな)。

 私が、我が国と海でつながるアジアという意味で
「海洋アジア」という言葉を使うのは、この堺と薩摩の海の繋がりをみて自然に生まれた地理感覚である。
既に16世紀に日本人が住んでいた地点である、インドから今のASEAN諸国と台湾を経て我が国と海でつながる国々が「海洋アジア」であり、21世紀にともに共存共栄関係を深めることができる地帯である。

 さらに堺に関して、明治維新期のことについても触れておきたい。それは、慶応4年(西暦1868年)に起きたいわゆる「堺事件」のことである。これは、堺でフランス水兵を殺害した責めを負って土佐藩士が切腹した事件である。
 
 同年2月15日、フランス軍艦が開港していない堺沖にきてフランス水兵が上陸し民家に勝手に入ったり、婦女子を侮辱するなどの狼藉を行った。つまり、彼らが他のアジア諸国で普通にやっていたことを堺でしたのである。しかし、堺警備に当たっていた土佐藩士がそのフランス兵11名を斬殺し射殺した。なお、フランス兵が先に発砲した。
 この事件に対して、フランス公使は新政府に土佐藩士20名の処刑と賠償金15万円の支払いを要求した。新政府は、その全てを受け入れて、2月23日に土佐藩士20名が堺の妙国寺で切腹することになった。
 切腹は、フランス軍艦長立ち会いの下で行われたが、切腹の凄惨さに艦長が中止を要請してその場から逃げ出したので、11名が切腹したところで終わった。
この事件は、悲壮な切腹の状況も含めて森鴎外の小説「堺事件」に詳述されているので読まれたし。

 さて、私がお伝えしたいのは、現在も切腹地の妙国寺に建つ慰霊碑のことだ。
 慰霊碑は、海の方向(西)に向けられた三基の石柱からなる。中央は「南無妙法蓮華経」と刻まれた2メートルを超える石と切腹して死んだ十一名の名が刻まれた台座である。そして、その左右の隣にはほぼ同じ高さで
 左に「土佐藩十一烈士之英霊」、
 右に「佛国遭難将兵慰霊碑」
の二基の石柱が建てられている。

 この慰霊碑は、堺警備にあたる者の任務を果たしながら切腹しなければならなかった土佐藩士を慰めるとともに、遙か故国を離れた堺で死んだフランス兵を同等に慰霊しているのである。ここに、日本人の慰霊における自然の情が形になって現れているといえる。
 そして、土佐藩士十一名は、靖国神社に祀られ、フランス水兵十一名は神戸市立外人墓地に埋葬されている。

 本年八月にも、また、戦犯が祀られた靖国神社に参拝するのはけしからんという議論があった。確かに、フランスからみれば、土佐藩士十一名は「戦犯」であろう。しかし、日本からみれば彼らは「英霊」である。そして、日本人は彼らと戦ったフランス兵を憎んでいるのではなく、同等に慰霊しているのである。

 例えば、中国などには、「敵」に対する憎しみを再生産するための博物館が多く建設されているという。ここでは、憎しみを忘れてはならない恨みを忘れてはならないという目的で全てが展示され、この感情を再生産するのが「記念館」や「慰霊碑」建設の目的であるらしい。
 もちろん、このような国の中に「敵」の墓地があり、公金によって整備されているとは聞いたことがない。しかし、我が国の「記念館」や「慰霊碑」に、敵に対する憎しみや恨みを再生産するためのものがあるだろうか。農村の日本人が、墜落して死んだB29の搭乗員の慰霊碑を建てていたという報道が先日あったが、憎しみを末永く伝える碑など聞いたことがない。

 ともかく、我々日本人が、慰霊に関してこのような素直な恩讐にこだわらない「情」をもっていることを感謝しよう。
 しかし仮に、中国政府などが我々日本人も、自分たちと同じように憎しみ恨みを再生産していると誤解しているなら、ほっておけばよいことながら、はなはだ片腹痛いことである。
 そこで、堺には、我々日本人の慰霊における自然な情をそのまま現した慰霊碑がひっそりと建てられているということを、
もっと知って頂きたいので、ここに記した次第である。

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