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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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暑さの中、しきりに思うこと・・・処刑された戦犯

平成16年8月9日(月)

 八月にはいると、例年マスコミの関心は「原爆の日」に向かう。
そして、八月十五日がくる。
 この中で、私がしきりに思っていることは、戦後の占領中にいわゆる「戦犯」として処刑された方々のことだ。アメリカ軍は、戦犯にA級、B級、C級という等級をつけ、我が国は現在までその等級に従っているが、このような等級は本質とは無関係である。
 平和が訪れたと教えられた時代に、報道が完全に管制されたなかで、千名を越す方々が「戦犯」として処刑された。
 占領軍兵士による報道されない殺人や強盗や暴行が頻発する中で、米兵を刺殺した十八歳の少年も処刑された。

 さて、ご縁あって、ここを訪れてくれた皆さんに読んでいただきたい「陳述書」をご紹介したい。
 それは、向井敏明元少尉の長女エミコ・クーパーさんの平成十六年四月十九日、東京地方裁判所「百人斬り訴訟」第5回口頭弁論における陳述である。

 この「百人斬り訴訟」は、東京日々新聞(現毎日新聞)が、昭和十二年、南京攻防戦に際して、百人斬り競争があったと報道した結果、その報道が真実であるとして戦後南京で百人斬りの犯人として戦犯処刑された向井、野田両少尉の名誉を回復する訴訟である。
 
 この百人斬り報道は、戦犯裁判で真実とされて向井、野田の二人の命を奪ったただけではなく、後に朝日新聞記者の本多勝一氏の著書によっても真実であるという前提で広く伝えられている。
 そしていまや、向井と野田の元少尉の写真は、日本による虐殺の象徴として南京でまた書物に掲げられているのである。

 南京の戦犯裁判は、東京日々新聞の記事を唯一の根拠として百人斬り競争が真実であると認定した。この記事を書いた浅海記者も裁判で「嘘でした」とは言い切っていない。
 
 しかし、百人斬り競争は、真実ではない。
 (日中戦争といえども近代戦であり、「300メートル先の敵を撃つ戦争で、チャンバラはありえない」〔従軍カメラマンの証言〕)
 従って、向井、野田両少尉の名誉は回復されるべきである。
 よって、まさにこのための訴訟が、今行われているのだ。

 この「百人斬り訴訟」の担当弁護士は、私の畏友稲田朋美弁護士である。
 私は、神々しい業を見る思いをもって稲田朋美さんの活躍を眺めている。
 この厚く垂れ込めた「戦犯の国」の虚妄の暗雲を、彼女は払いのけようと立ち向かっているのだ。
 
 西欧の歴史にてらせば、彼女の行為はジャンヌ・ダルクのようだと言ってもよい。
 我が国の歴史にてらせば、このような女性は弟橘媛(おとたちばなひめ)をはじめとして危機においてその姿をあらわしてくる。
 現在は、美智子皇后陛下、そして横田早紀江、稲田朋美・・・。

 以下の陳述書は、稲田朋美弁護士のお父上である椿原泰夫先生の編集される雑誌「無窮」に掲載され、椿原先生より私にお送りいただいたものである。
 本年四月十九日に、公開の法廷で陳述されたものであるゆえ、ここに公開させていただくことにする。
 読まれれば、戦犯の家族の思いは、長年無視されてきた北朝鮮に拉致された同胞の家族の思いと底で繋がっていることを感じられるであろう。これが、「戦後」という時代だったのだ。

 本訴訟は、四月十九日の第5回の口頭弁論を経て、七月十二日の第6回で、現在南京などの反日施設で掲げられている向井、野田両少尉の写真を撮影したカメラマン(91歳)の証人尋問を行い、次回の第7回口頭弁論は九月六日午後1時半からの予定である。


        陳述書
            原告 向井敏明長女エミコ・クーパー
           
            記

 毎日新聞社へ

 毎日新聞社は、「百人斬り」記事について、責任感と良心に欠けている態度をとり続け現在に至っています。それが世界中の誤解、誤信、曲解を招き、そのうえ現在においても、まだ無視、無言を保ち続けることが私および千恵子の父向井敏明と野田毅氏の命や面目を無視し、二人の命を若くして失わせ、各々の遺族の心と人生に、絶え間なく治ることのない深い傷を負わせ、無念の涙にくれる過去半世紀あまりの厳しいいばらの人生を歩かせたことに、重大な責任があると信じます。
 米国のタブロイド紙のようなものと比べたくもない日本を代表するメディアであれば、日本という国を代表する責任と良心ある誠実な態度で、過去の自らの過ちを認め、ことを正してから前進すべきだと信じます。
 先日、ニューヨークタイムズ紙が若いレポーターに取った行動は正しいもので、たとえ同じでなくとも似たような行動を、毎日新聞社は何故浅海一男記者にもとり、社の面目を保つべきではなかったか、と考えます。
 1947年の南京軍事裁判は、故向井敏明と故野田毅にたいするデタラメな裁判は、今では世界中の多くの人々に知られています。
 「百人斬り」の記事と、二人が並んだ写真が唯一の証拠で死刑判決が言い渡されましたが、二人は「二つの命の灯火」が燃え続けられるか消されるかの別れ道に立ち、「溺れるものワラをもつかむ」の思いで浅海氏に「あれは、私のフィクションでした」という言葉を待ちました。しかし、浅海氏からの言葉は実に賢い言い方で、「私が見たことではありません・・・」でした。
 二人は命の綱と頼んだ浅海氏の言葉にそういう形で裏切られ、軽視されたまま1948年1月28日、南京市雨花台の地上には雪が見られる寒さの中、沢山の中国兵に囲まれ、幌もないトラックで拘置所から刑場まで運ばれた事実は、今日も写真に残り、中国の人々の目にさらされ続けています。
 そのときの父は、きっと寒さなど感じてはいなかったことでしょう。それよりも、わずか数分後に自分の人生が終わるという現実も信じられず、一方で病身の年老いた母や、既に母を失っている娘二人の養育や将来など、わずか36歳の父には最高に辛いことだったはずです。
 私たちが、父の処刑を知ったのは、数日後の朝日新聞の5センチ四方の小さい記事でした。
 そのとき私は、12歳でしたが、それから今日までの道程は、言葉では表現できぬほど厳しく冷たく残酷な道でした。

 1997年だったかアイリスチャンの本「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」の出版の際、いつものようにABCテレビの「グッド・モーニング・アメリカ」を見始めたとき、全く予期していなかった「百人斬り」の記事に囲まれた父と野田氏の写真がテレビ画面にいっぱいに出てきて、驚きとショックで危うくひっくり返るところでした。
 方々探して2ヶ月かかりその本を手にいれ読みました。
 父たちの事に関しては、何一つ新しいことはありませんでした。
 昨年他の州に住む友達達は「コンピューターのウェブサイトにあなたのお父さんのことが出ている」と知らせてくれ、私の息子も「知らない人(父のこと)でも、あれを見ると感情的になる」とウェブサイトに掲載されている事柄について言っています。
 私は、過去55年余りの間、繰り返し何度も何度も味合わされた胸中をわしづかみにされ引き裂かれる、とでもいう痛みと苦しみ、悲しみと怒り、無念さから逃げられないでいます。
 また、いくつもある歴史だけのチャンネルのインターナショナルのものの一つで「ワールド・ジャスティス」という番組もあり、私は偶然にアイリスチャン自身の司会の「レイプ・オブ・ナンキン」を見ました。
 見たくないが、ある一方見ておかなくてはならないという気持ちも強く、苦痛を我慢して見ました。これも「百人斬り」の記事と写真でした。記事の上には「東京日々新聞」とはっきり読めるのは何を語っているのでしょうか。
 もし、あの記事と写真がこの地上になかったら・・・。
父達が、一方的な裁判で裁かれ、公衆の面前で射殺され、雨花台の地に掘られた穴に投げ込まれ、今はその場所さえ不明ということが、遺族達にとってどういうものか真に理解できる人が何人いるでしょうか。「死人に口なし」をよいことに、日本人でありながら、個々自らの想像で事を判じ、想像に想像を重ね他の人々の事と混ぜ合わせて、事実からはるかに遠い想像を繰り返してきた人々が日本にいることを、私は1973年以来知っています。私にはこの人々の神経も精神状態も全く分かりません。
 
 「百人斬り」の記事と写真で回り始めた「車」は、どんどん大きくなり、スピードを増し、私たちの手では止める事が不可能な現在の状態で、「事実でなかったこと」が「歴史の一片」として伝えられ残される事は日本自身にも害になっても有利ではないと私は信じます。
 最近私が知った事は、父達は日本の見も知らぬ小学生に「バカヤロー」や「日本の恥だ」と言われていることで、全く理解に苦しみます。
 どんなに努力しても、私たちの55年間の苦痛、悲しみ、怒り、無念さを数片の紙面に書く事は無理です。そして、現在の物差しで66年前の日本や日本人達を計る方が間違いで、正しい答えが出るはずもないでしょう。
 しかし、「百人斬り」がこのまま世の人々に真実であると信じられ、教えられることは、私たち遺族には耐えられないことです。
 毎日新聞社のどの方にも個人的な感情はありませんが、新聞社としての責任はあるでしょう。
 どうか日本の小学生に、父達は「バカヤロー」でも「日本の恥」でのない事を教えてやってください。
 私は、今も父をよく覚えています。親孝行で良い父でした。

 
 本多勝一氏へ
 
 私が本多氏の名前を耳にし、目にしたのは1972年の初めでした。
 当時まだ軍にいた夫がベトナムより帰米し、「最低3年は在日できる」と大喜びで神奈川県座間にある米軍基地に向かったときです。
 私は、日本の中で日本人同士が「百人斬り」のことで論争しているとは夢にも思わなかったから、大きな驚きと激しい痛み、悲しみに続いてどうしようもない怒りと悔しさに潰されました。
 寝耳に水と昔のことわざがありますが、そのときの私にはそんな優しいものではありませんでした。「寝ているところを野球のバットでぶん殴られた・・・」とでもいうほうが近いでしょうか。

 戦後一ヶ月もたたない一九四五年九月十日に、私(当時9歳)と4歳の妹千恵子は母を失いました。その後2年半で父を36歳の若さで失いました。
 私たち姉妹は孤児となり、人生、世の中の荒波に放り出されました。幼い妹は、年老いて病身であっても精神面ではまだしっかりしていた祖母に母代わりをしてもらい、私はまだ10台の半ばであったにもかかわらず、何とかして一人で歩かなくてはと、明日の事も見えず考えられないのにがむしゃらに、悲しみ、苦しみ、不安、おそれ、心の痛み総てを押しのけながら歩き始めました。
 それはコンパス(父母)を持たない小さな小船(私)が、荒波の太平洋に浮き沈みしているようなものでした。そういう世の中の荒波にあって、常に私の心を支えてくれたものの第一は、亡き父母達が残してくれた言葉でした。
 自らの死を悟って母は、死の4日前、「目に見えなくても、何時も一緒にいますよ」と言いました。大人になっても「そう信じていたい」と思いました。母が残した書き物には、私が生まれる前からのものもあり、母の人柄がありありと分かります。
 父の言葉は、5年生だった私に、「何も悪い事はしていないからすぐに戻れるだろう。心配するな。おばあちゃんの手助けをして、千恵子をかわいがって、良い子で待っていなさい。」そう言って二人の私服の刑事さんたちと汽車で東京へ向かった。それが、私が最後に父の生きている姿、顔を目にしたときのことでした。
 父の書いたものもわずかですが、父の人柄を忍ぶことができます。その一つに中国で「兵隊達に感謝する、みんなよくやってくれる」云々と、陰でノートに書き残しています。また同じ頃父は、自分の父親が亡くなったことを知り、中国人の食堂の二階をかりて、一人思いっきり泣いたとか。その後父は、中国戦地にいる弟に、どのように父の死を知らせようかと悩んでいる事も書き綴られています。父の人柄の一片一片が父の書いたもののなかから私には伝わってきます。

 一見して、本多氏および彼等が書かれた種々のものとは、無関係のようなこのようなことを書きましたのは、すくなくとも過去30年余にわたり、本多氏が数々のもので、私の父を「父」とは全く違って「大きな冷血の化け物」に想像や曲解や他の人々の書いたものと混ぜ合わせて、本多氏の勝手な想像での「大悪人」に作り上げ、世にさも真実であり、「真の父の人柄」であるかのように報道し、現在では日本だけでなく、中国始め世界の多くの人々に信じ込ませ、「レイプ・オブ・ナンキン」を書いたアイリスチャンのような人にも利用されて、アメリカのウェブサイトでは誰でも自由に見る事ができる「資料」の一つになり世の中に残り続けようとしているからです。

 私は短い間ではあっても、父を良く知っていますし、この年になっても良く覚えています。父も母もまだ30台の若さのまま、私の胸の中に生き続け、辛酸の人生を歩んできた私の支えになってくれましたし、今も見守ってくれています。
 父は数々の思い出を作り残してくれました。亡き祖父母達には一番の親孝行でしたし、2人の伯父たちにとっては、思いやりのある優しい兄でした。私には良い父でした。それだけに、父を知る者の心は痛んでやみません。
 こういう父が、何故に見も知らぬ本多氏に死後もムチ打たれ続けなくてはならないのでしょうか。そして、間違った事を信じ込まされた少女に「バカヤロー」と呼ばれ「日本の恥」と言われなくてはならないのでしょうか。父はさぞ無念で,死んでも死に切れないはずです。

 本当の「日本の恥」は、日本人でありながら、自らの国や同国人たちの悪口を真偽をとはず、自らの想像で海外にまで撒き散らすものたちのことでしょう。一体その理由は何なのでしょうか。また、こういうことを平気でし続ける人の人柄や良心、責任感等はどういうものなのでしょう。死者達のみで終わらず、遺族まで平気で何十年も苦しませている事は「残酷」でなくて何といえるでしょうか。

 私は、1972年の始めに日本を訪れて、「3年在日」どころか一年で帰米しました。
 本多氏に作り上げられた父の本当の姿とはまったく別人の「化け物」のために、あんなに喜んだ在日は「悪夢」に変わり、それらより逃れるため1973年早々にアメリカに戻りました。その後20年間、私は日本の土を踏みませんでした。
 その間も次々と止むことのない日本での「百人斬り」に関しての論争は、そのたびに古傷は鮮血を噴出し、私はどこに行ってよいのか、行き場のない痛み、悲しみ怒り無念さに苦しみ、現在も続いています。
 アメリカに戻ったからと言って「百人斬り」の事から逃れた訳ではありませんでした。アイリスチャンの「レイプ・オブ・ナンキン」では、本多氏や鈴木氏のことが出ており、明らかに敵味方の使い分けをしているのが分かります。これは私にとっては、刃物で心臓を刺されるような痛みを感じないではおれませんでした。

 現在ではコンピューターを通じて父たちのことが世界中に広がっていると、私の友人知人たちから知らされます。
 本多氏の「南京大虐殺13のウソ」では、「据え物きり」ですか。どこでそのようなことが行われたのでしょうか。いつどこで、父が本多氏の言うような行動が取れたのでしょうか。一人の日本兵に目撃される事もなく返り血一滴のシミもなく。全く不思議な事があるものです。
 私は父が「南京進軍中に負傷したという傷」を見ています。父が終戦後にステテコ姿のときに話してくれた事がありました。

 長い間の事を数枚の紙上で書ききれるわけではありませんが、日本を遠く離れていても、日夜今もって苦悩し、涙している者がいることを忘れないでください。
 そして、過去の「価値のない意地っ張りや面目」などを捨てて、良心に恥ずかしくないよい仕事を始めてください。
 尊い人命のことなど全く頭におかず、良心もない鵜野氏が書いたものと父や野田氏のことを混同したり、比べたりすることも止めていただきたいものです。
 鵜野氏のかかれたことが本当にあったことであり、彼の行動であったのなら、彼のような人こそ、冷血で残酷な人間であり、戦犯として処刑されるべき人でした。私は旧日本軍や南京全体のことの弁護をするわけにはいきませんし、私には出来ないことです。

 今生きていれば90歳を越した父であっても、私の心の中は、わずか35歳の最後に見た父です。懐かしく忍びながら、また時には幼い日の私に戻り、一人大声で泣いたりします。
 何年もの間、日本人の顔は見ませんし、日本語も口にするのは妹との電話くらい、日本語で文章を書く事も思うようにはかどらなくなりました。

 最後のもう一度、「どうか死者をムチ打ち続ける事をやめて、静かに安らかに眠らせてやってください」、そして、「真実」を求め、誠意をもって、「日本を愛する日本人らしい」仕事をしてください。
 昭和は遠く去っていくようです。
以上

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