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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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偶成・・・西郷、山岡そして山田方谷のこと

平成30年2月24日(土)

本日は、昨夜来、心に浮かんだことを書きたい。
時事通信、偶成である。

幕末の討幕派、戊辰の役の勝利者となった薩摩・長州・土佐・肥前の下級武士が、
維新後、俄に栄達して権勢を誇り、
東京と改められた江戸で、大邸宅に住み美妾を囲い贅沢な生活をしている様を
薩摩に帰っていた西郷隆盛が、帰省した弟の従道から聞いて、
維新の動乱のなかで、倒れていった者たちに、申し訳ない、と言って泣いた。
その後、
戊辰の役で、
西郷の指示の下に奥羽越列藩同盟の国々に攻め入った新政府軍に屈服した
庄内藩の藩士達が、
その降伏に際して寛大な処置を指示した西郷を敬仰し、
遙々庄内から西郷の話を聞くために薩摩にいる西郷を訪れた際、
西郷は彼らに、
政の大體は、
「文を興し、武を振るい、農を励ます」、
の三つに在り、と述べた。
そして、
万民の上に位する者の身の処し方を述べ、
下の人々が其の勤労を気の毒に思うほどにならなければ
政治は行われ難いと言った後で、
それと正反対の維新政府の顕官達の現状を嘆き、涙をポロポロと落とした。
それを、庄内藩士達は次のように書き留めた。
以下、西郷南洲遺訓より。
  ・・・然るに草創の始めに立ちながら、
  家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、
  維新の功業は遂げられまじく也。
  今となりては、
  戊辰の義戦も偏へに
  私を営みたる姿に成り行き、
  天下に対し戦死者に対して面目なきぞ、
  とて、頻りに涙を催されける。

このように、維新後に薩摩に戻った西郷は、新政府顕官の上京の催促に応じなかったが、
上京の勅命を受けては上京せざるをえず、
上京し、岩倉や大久保や木戸そして伊藤などが一年以上の「欧米視察」をしている間に、
維新創業の眼目である「廃藩置県」を断行した。
その間、新政府の最高位にありながら、粗衣粗食で通した。
この西郷が、
大久保や伊藤の帰国後の朝鮮を巡る意見対立で政府の地位を退き、
薩摩に帰郷するに際し、
勝海舟と共に江戸無血開城の幕府方当事者であった山岡鉄舟宅を訪問する。
明治六年一月である。
その時の西郷の様子を、
山岡の長男で後に子爵となった直記が次のように語っている。
  当時子供のこととて、玄関の間で戯れていると、
  あたかも怪物に似て、粗大な風体のものが門からやってくるから、
  ひそかに見ていると、
  右手に太い木杖を持ち、左手に徳利を持って竹の皮の笠をかむり、
  わらみのをつけ、みぞれの降る寒いなかを、
  素足で雪をふみわけて玄関までやってきた。
  見ると、すねを長くあらわし、わらじをはき、
  面相はまゆげが太く目が大きく、これに従って全面粗大で・・・
  「おとっさんは内にいるか、西郷がお伺いいたしたと言うてくれ」
  というた。

そして、山岡鉄舟と話をした西郷は、薩摩に帰り、
明治十年九月二十四日午前七時頃、城山で、
東方に向かい、天子、明治天皇に挨拶して死ぬまで上京しなかった。
このときの山岡との話の内容は、
山岡の未亡人英子(ふさこ)によると、
西郷と山岡が、
軍を朝鮮に出すことは下策(反対)である、という点で意見が一致したということだ。
今となっては、西郷が征韓論、
つまり、軍を率いて朝鮮に渡ると言い張ったことになっているが、
これは、その後栄達を遂げた伊藤などが、
西郷を悪役にして自分たちの悪評を避けようとしたからである。
西郷は、薩摩に去るに際し、
山岡にだけは真情を伝えておきたかったのだろう。

この西郷の、
朝敵となっていた佐幕派の庄内藩士達に見せた涙と語った心情、
そして、東京を離れる最後に、
幕臣山岡鉄舟に真情を打ち明けたこと、
これらを思えば、
西郷には戊辰の役の敵味方の区別は無く、
ただひたすら、近代国家に歩み始めた日本に遺したかったものは、
尊皇の至誠に満たされた「士魂」であった。
と、私は思う。
この戊辰の役の戦死者を思えば、何時も泣いた西郷が、
今を見れば、
未だに続く長州閥の恵みをうけた総理大臣が、
支那と朝鮮に気兼ねして
靖國神社の英霊に参拝しないことを如何に思うか。
まず、英霊を思い涙をこぼし、
「士魂」の欠落を嘆き悲しむであろう。

幕臣の山岡鉄舟と西郷との信頼関係を語った次に、
西郷が、佐幕派である彼の言動から学んだのではないかと思われる
幕末の卓越した実践者の言葉を紹介したい。
その人は、備中松山藩の山田方谷である。
この方の二つの言葉、
一つ、
  それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて、事の内に屈せず。
二つ、
  義を明らかにして利を図らず。

この山田方谷の二つの言葉は、共に理財論のなかで述べられている。
第一の言葉は、膨大な量に膨らんだ藩の財政を改革するために、
まず、文を興す、即ち教育を振興させる、
そして、武を振るう、即ち国防を充実させる、
このことを断行しようとするに際し、
反対する藩の財政専門家に言った言葉である。
そして、一挙に藩財政の赤字を解消した。
今もそうだが、
大蔵省の役人には赤字を解消する為に増税(消費税)のことしか考えない。
反対に増税するために赤字を口実に使う。
しかし、財政の赤字は解消しない。
その理由は、
「事の内に屈している」からだ。
この山田方谷の藩政改革の成功は幕末に行われた。
そして、維新後に、西郷が言った遺訓のなかにある言葉は、
この山田方谷の成功例を観て言ったと私には思われる。如何であろうか。
次に、第二の言葉であるが、
「義」と「利」を置き換えれば、今の政界の様になる。
即ち、今の政界は、
 利を明らかにして義を図らず
である。
選挙で「義」を明らかにした者は何処におる。
選挙で明らかにすべき「義」とは、
現在も、山田方谷と西郷南洲と同じ、
文を興し、武を振るい、農を励ます、ことだ。
教育費の増額と真の教育改革、歴史教科書の全面的書き換え、
優良教員の給与増額と不良教員の教育現場からの排除(これにはカネがかかる)
国軍の創設と軍備の増強そして
農業と物づくり・製造業の振興である。

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