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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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國體から観た明治維新

平成30年2月14日(水)

我が國體から観た明治維新、
即ち、天皇の明治維新について、
この度、「月刊日本」に送稿した一文を次に記しておきたい。

・・・    ・・・    ・・・    ・・・    ・・・   

再び、明治百五十年に当たり指摘しておきたい。
まず、明治元年戊辰の年一月、
鳥羽伏見において薩摩長州の兵を中心とする新政府軍と旧幕府軍が衝突して始まった
戊辰戦争は、翌年六月、北海道函館において幕臣榎本武揚の降伏によって終結する。
これは、明治維新における内戦だ。
それ故、この戊辰戦争を、
フランス革命におけるブルボン王朝の前近代的体制(アンシャン・レジーム)を打倒する時の内戦や、ロシア革命における帝政ロシアを打倒してプロレタリア独裁を目指すボルシェビキの闘争と同様の革命期の内戦と同じように捉える歴史観が生まれる。
そして、この革命の構造を明治維新に当てはめ、
内戦に勝利した薩摩長州が正義だとする歴史観が生まれ、
これに対して、
徳川幕府と会津藩などの側から歴史観の修正を主張し、
近年は吉田松蔭や西郷隆盛はテロリストであるとする論調が生まれる。
しかし、我が国の明治維新は、
ブルジョア革命やプロレタリア革命とは全く異なる。
 
何故なら、我が国には天皇がおられる。
従って、討幕派の維新でも佐幕派の維新でもない
「天皇の明治維新」が変革の中心中核にあるのだ。
 
フランスやロシアは、王や皇帝、ルイ十六世やニコライ二世を殺し、
全く違う国家を目指して凄惨な内戦を遂行した。
しかし、我が国では、
戊辰戦争の前年暮れに徳川幕府から天皇に対する「大政奉還」があり
天皇の「王政復古の大号令」が為されていた。
従って、
新政府軍の西郷隆盛と
幕臣の勝海舟と山岡鉄舟による江戸無血開城が成ったのだ。
この江戸無血開城こそ、
明治維新の象徴的出来事であり、
フランスやロシアやその他の国の革命では起こりえないことである。
長州の、大村益次郎は、この江戸無血開城が成った後で、
上野に立て籠もった一部幕臣達を、
圧倒的に優秀な兵器であるアームストロング砲を駆使して一挙に粉砕した者である。
現在、靖國神社の一の鳥居と二の鳥居の中間の正中線上に、
この大村益次郎の銅像が建っている。
しかし、彼の銅像は、この場所にふさわしくない。
ここに建てるべき像は、正中線上を外して、
江戸無血開城を成し遂げた、
西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟
の三人の像である。
 
明治維新から六十八年後の昭和十一年初頭、
フランスからシベリア鉄道でユーラシアの東端に至り、
そこから船に乗って日本の東京に赴任してきた
フランス人記者ロベルト・ギランがいた。
この着任早々の二月二十六日の未明、
ギランは、陸軍皇道派の青年将校が約千五百名の兵を率いて
大蔵大臣高橋是清や内大臣斉藤実そして陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害した
226事件に遭遇する。
彼は記者であるから、さっそく霞ヶ関の官庁街に向かうが、
首相官邸などのある方向は封鎖されて入れない。
そこで彼は、そこに集まっていた一人の紳士に声をかけ、
「クーデターか」と尋ねた。
すると彼が振り向いて言った。
「天皇の国にクーデターはない」と。
もし、明治維新時にフランス人が、
日本の武士に、「これはフランス革命か」と尋ねたら、
彼らは「天皇の国にそんな野蛮な革命はない」と答えたであろう。
 
「天皇の明治維新」という本質を捉えれば、
維新後二十七年にして清国との日清戦争に勝利し、
その十年後にロシアとの日露戦争に勝利し得た
近代日本の力が何処から湧き出したのかが分かる。
日本の力の源泉はここにある。
従って、「天皇の明治維新」は過去のことではなく
未来に向けた国家再興のモデルなのだ。
確かに、明治維新以来、
薩摩や長州の連中が維新の元勲となり新政府の顕官となって
薩摩閥や長州閥をつくって政界を支配し、
軍人も薩摩や長州の出身でなければ昇進人事において不利であった。
現在の安倍総理も、その長州閥の恩恵を受けて育ったのだ。
こういう閥はいつの世も人間社会に生まれるものだ。
しかし、
天皇の立場から観れば、倒幕も佐幕もない。
維新後、幕臣の山岡鉄舟は駿府に退隠していたが、
朝廷に人物の必要があるとして召されて宮内省に出仕して忠勤を励んで、
若き明治天皇に真心を込めて親しく接し、
天皇と相撲を取って遠慮会釈なく天皇を投げ飛ばしたりした。
そして、山岡は明治二十一年に没するとき、
皇居に向かって結跏趺坐の姿勢で座ったまま息を引き取った。
盟友の西郷南洲が、明治十年九月二十四日、
城山で銃弾を受け東の皇居に向かって合掌して座り
別府晋介に首を打たせたのと同じ姿勢だ。
 
明治三十一年三月二日、
徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜は
皇居に参内して明治天皇と皇后に拝謁し、
皇后は御手ずから慶喜に酌をされた。
そして慶喜は天皇から銀製の花瓶や銀杯そして紅白の縮緬を頂いて辞去した。
翌日、慶喜は勝海舟邸を訪れ
天皇皇后両陛下への拝謁の報告をした。
すると、勝はうれし涙をこぼし、
   鎌倉にもとい開きしその末をまろかにむすぶ今日もあるかな
と歌を詠み、
おれの役目も、もうこれで終わった、
と周囲に語り、翌年に亡くなった。
また、昭和天皇の弟の秩父宮雍人親王の妃は
会津藩主で元京都守護職松平容保の孫の松平勢津子妃である。
このように、重臣達や臣民達に薩摩閥や長州閥があったとしても、
「天皇の明治維新」にそのような区別はなかった。
 
さて、この「天皇の明治維新」が、
昭和に引き継がれ現在に至っていることを示さねばならない。
それは、
天皇の詔書及び宸翰そしてお言葉を拝すれば明らかである。
我々の受けた戦後教育が、そのことを封印していたから気付かなかっただけだ。
 
明治元年に「五箇条の御誓文」が発せられたのと同時に、
「億兆安撫国威宣布の宸翰」が発せられた。
宸翰とは天皇の国民に対する手紙だ。今流にいえば「お言葉」である。
従って、明治の人々はこの宸翰をよく拝読した。
これは次の通り始まる。
  
  朕幼弱を以て猝(には)かに大統を紹き
  爾来何を以て万国に対立し列祖に事へ奉らんかと朝夕恐懼に堪えざるなり。

自らの若年故の不安を、
これほど赤裸々に国民に語る元首が他国にあろうか。
国民と一つの家族という思いがなければ語れるものではない。
さらに、宸翰は次のように続く。
  
  今般朝政一新の時膺(あた)りて天下億兆一人も其所を得ざるときは、
  皆朕が罪なれば、
  今日の事朕躬(みずか)ら身骨を労し、
  心志を苦しめ、
  艱難の先に立ち、
  古列祖の尽くさせ給ひし蹤(あと)を践(ふ)み、
  治績を勤めてこそ、
  始めてて天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし。

ここで天皇は、
国民の一人でも不幸な人がおれば、これは自分の罪だと言われている。
これほどの、国民の為を思う無私の情熱があろうか。
明治維新は「五箇条の御誓文」とこの「宸翰」から開始されたのだ。
そして、
それから七十八年後の昭和二十一年一月一日、
敗戦後に始めて迎える正月元旦において、
昭和天皇は「新日本建設の詔書」を発せられた。
その冒頭は、
  
  茲に新年を迎ふ。
  顧みれば明治天皇明治の初國是として五箇条の御誓文を下し給へり。

として五箇条を記された上で、
  
  叡旨公明正大、又何をか加へん。
  朕は茲に誓を新にして國運を開かんと欲す。

とされた。
我が国の戦後義務教育では、
この昭和天皇の「新日本建設の詔書」を
天皇の「人間宣言」と教えているが、
之れは、ウソである。
この詔書は、
昭和二十一年における
天皇の「明治維新の宣言」なのだ。
このように、「天皇の明治維新」においては、
明治と昭和そして戦前と戦後は断絶なく連続している。
さらに、昭和天皇は、この「新日本建設の詔書」を発せられた後に、
敗戦で荒廃した全国の津々浦々を巡幸され、
家族を励ますように国民を励まされ続け、
今上陛下もその全国巡幸を受け継がれた。
また、天皇皇后両陛下の慰霊の行幸は、
硫黄島から遙かサイパン、ペリリューそしてフィリピンにおよんだ。
そして、一昨年八月八日、
今上陛下はお言葉を発せられ御譲位のご意向を国民に伝えられた。
  
  既に八十を越え、これまでのように、
  全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、
  難しくなるのではないかと案じています。

このお言葉を拝したとき、
明治天皇の「国威宣布の宸翰」の冒頭を思った。
明治天皇は十六歳の幼弱故の不安を、
今上陛下は八十歳を越えた老齢故の不安を、
共に国民に正直に伝えられた。
これらは国民を家族と思う御心情から発せられたお言葉である。
太古から明治そして現在と、
天皇と国民の絆は不変である。

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