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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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日本人が日本人である限り七生報国は真実となる

平成29年4月25日(火)

四月二十五日、午前十一時から、楠公研究会の皆さんと共に、
楠木正成と夫人そして一族を祀る湊川神社に参拝した。

参拝に先立ち、湊川神社の正門の東の
元禄五年(一六九二年)、
水戸藩藩主徳川光圀が建てた
「嗚呼忠臣楠子之墓」
にお参りし、
参拝後に、本殿の西奥にある正成と弟の正季そして郎党たちが、
「七度生まれて朝敵を滅ぼさばや」
と誓って自裁した地に頭を垂れた。
すると、帰路、神社の鳥居に向かう新緑の楠の若葉が茂る道で、
二十一日に、横須賀の戦艦「三笠」を訪れた時と同じ思いに包まれた。
戦艦「三笠」に日本の運命を決した瞬間が凝縮されて留まっているように、
「湊川」にも日本の運命を決した瞬間の思いが留まっている。

 そこで、その留魂の系譜を振り返る。

文永十一年(一二七四年)十月五日、
 対馬の小茂田浜に上陸した数千の蒙古軍に対して、
 対馬守護代宗助国以下八十四騎の武士は、
 山岳地帯での五時間の勇戦奮闘により多数の蒙古兵を射殺し斬殺した後、
 微笑みながら蒙古軍に突撃して全員戦死する。
 蒙古の大将は、
 「自分はいろいろな国の敵と戦ってきたが、
 このような恐ろしい敵に出会ったのは初めてだ」
 と言い残している。
 この宗助国ら八十四騎玉砕の報に接し、
 日本は執権北条時宗以下、初めて一丸となって奮い立つ。

元弘元年(一三三一年)九月、
 楠木正成、後醍醐天皇に初めて拝謁するや、いきなり次のように申し上げた。
 「正成一人、いまだ生きてありと聞こしめし候はば、
 聖運つひに開かるべしと、おぼしめされ候らへ」(太平記)
 その後、正成は、少人数で千早赤坂の山岳地帯においてゲリラ戦を展開し、
 現地に入ってきた数十万の鎌倉軍のみならず、
 遥か関東の鎌倉幕府を疲弊させて建武の中興への道を開く。

建武三年(一三三六年)五月二十五日、
 楠木正成は、七百名の軍勢で湊川に向かい
 数十万の足利軍を迎撃して、
 奮闘の後に弟正季や郎党とともに全員自決する。
 彼らの誓いは、七度生まれ変わって朝敵を滅ぼす、
 つまり「七生報国」。

正平三年(一三四八年)一月五日、
 大阪河内の四条畷において、正成の子の正行と正時は、
 数において圧倒的に優勢な足利の高師直の軍勢と戦い、
 敗れて父の正成兄弟と同じように、
 子の正行兄弟も刺し違えて自決する。
 
 以後、正成没後百年を超えても、正成一族の足利への蜂起が続き
 多くの正成の子孫たちは足利に首を刎ねられてゆく。
 これを「挙族殉皇」と呼ぶ。
 その結果、明治維新後に南朝の忠臣たちの子孫が
 新政府によって探し出されて顕彰された際にも、
 正成の子孫だけは、探し出すのが困難だったといわれている。
 大阪に南木隆治という我らの同志がおられる。
 この「南木」という苗字は、「楠」を「南」と「木」に分解した苗字で、
 南木先生は楠木一族である。
 また、秋田の横手出身で「アラビア太郎」という異名をもつ
 実業家の故山下太郎氏も楠木一族である。

元禄五年(一六九二年)、徳川光圀が湊川に
 「嗚呼忠臣楠子之墓」
 を建てる(湊川建碑)

元禄十五年(一七〇二年)十二月十四日の
 赤穂の大石内蔵助以下四十七士たちは、楠木正成を思い吉良邸に討ち入った。
 この事件の衝撃を、時代の人々は
 「楠の いま大石と なりにけり なほも朽ちせぬ 忠孝をなす」
 と歌った。
 つまり、湊川建碑によって、広く庶民に至るまで、
 楠木正成の尊王の生涯の尊さが知れ渡り、
 人々は足利家の本家筋の吉良家の上野介の首をとった大石内蔵助を
 足利と戦った楠木正成の生まれ変わりと歌ったのだ。

嘉永四年(一八五一年)、二十二歳の吉田松陰は、湊川に来て
 「嗚呼忠臣楠子之墓」に参って泣いた。

嘉永六年(一八五三年)、ペリーが浦賀に来航して
 幕末という「時代の嵐」が始まると、
 およそ、「志士」といわれた男子で、
 楠木正成を思わない者はなかった。

慶応四年(明治元年)四月二十一日、
 明治天皇は、
 楠公の忠義を後世に伝えるために、神社創祀の御沙汰書を下され、
 明治五年五月二十四日、
 楠公の御墓所と御殉節地を含む約七千六百坪を境内とする
 湊川神社が創建された。

明治十年秋の末、西南の役において、
 西郷隆盛も官軍も、楠木正成を思って戦った。
   敵も味方も諸ともに、刃の下に死すべきぞ、
   大和魂あるものの、死すべき時は今なるぞ、
   人に遅れて恥じかくな(軍歌抜刀隊)

そして、日清日露の明治の戦役を経て昭和の大東亜戦争に至るまで、
従軍する軍人は、
将官から初年兵に至るまで楠木正成を知らない者はなく、
死地に臨んでは、楠木正成のように死のうとした。

我が郷里の連隊である陸上自衛隊歩兵第三七連隊は、
日露戦争の奉天大会戦において、
明治三十八年(一九〇五年)三月十日午後五時、
第二大隊が、奉天城内に突入して
奉天城中央に「日の丸」を掲げた殊勲の連隊であるが、
その「連隊の紋」は「菊水」、
即ち、楠木正成公の「家紋」である。
さらに、大東亜戦争において、
絶体絶命の死地に赴くことを命じられた部隊の指揮官には、
命令者に対して、
「つまり、閣下は、私に、『湊川をせよ』と言われるのですな」
と言い残し、
得心して死地に向かっていった人がいると聞く。
また、多くの若き特攻隊員たちは、
日露戦争の旅順港閉塞作戦の広瀬武夫中佐のように、
楠木正成の誓い「七生報国」を大書して死に向かっていった。

このように、
楠木正成は、
日本人が日本人であるかぎり、
事ある時に、甦り顕れてくる。
楠木正成の、
湊川における「七生報国」の誓いは、
日本が日本である限り、
日本の歴史の中で、
本当に繰り返し実現している。

なお、留魂の冒頭に、
千早赤坂の楠木正成に先立つこと五十七年前の蒙古襲来において、
初めて遭遇する元の数千の軍勢に
八十四騎で立ち向かって微笑みながら突撃した
宗助国らの玉砕を挙げた理由は、
宗助国の戦った対馬の小茂田浜と
楠木正成の戦った千早赤坂の地形が同じなのを確認し、
楠木正成は、宗助国の行った
少人数で多数の敵に打撃を与える戦い方を知っていて、
それを千早赤坂で実施したと確信したからだ。
我々が、七十数年前の大東亜戦争の戦いを知っているように、
武人である楠木正成は、
我々よりももっと熱心に、
先人の多数の強敵に対する戦い方を調べ上げ、
五十数年前の宗助国の戦いを知り尽くし、
それを千早赤坂で実践したのだ。
宗助国と楠木正成は、武人の魂において連なっている。

さて、冒頭に述べた、
二十一日に戦艦「三笠」を訪れたときに浮かんだ思いと
二十五日に湊川神社に参拝したときに浮かんだ同質の思いとは、何か。

それは、
戦艦「三笠」に留まる日本人の武人の魂と同じように、
湊川に留まる楠木正成が、
また、
甦る時が迫ってきているということだ。

それは湊川神社を創建された
明治天皇の御製そのものである
 しきしまの大和心のををしさはことある時ぞあらわれにける

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