大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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只今、百十二年前の、奉天会戦の日々

平成29年3月6日(月)

三月に入った日、まず最初に思い浮かんだのは、
明治三十八年の日露戦争における我が国の存亡をかけた世界最大の陸上戦闘、
奉天の会戦における総攻撃は、
今日の三月一日から開始されたということだった。

参加兵力は、日本軍二十四万九千八〇〇名、ロシア兵三〇万九六〇〇名
砲数は、日本軍九九〇門、ロシア軍一二〇〇門
日本軍は、
この少数兵力ではるかに優勢な奉天に陣取るロシア軍を
包囲して殲滅しようとし、
大山巌元帥は、三月一日の総攻撃開始を下命し、
日本軍は、
不眠不休で全前線にわたって兵力と砲数に優るロシア軍に肉薄して前進を続けた。
そして、三月七日、
日本軍最左翼の乃木第三軍が、
苦闘の末に、遂にロシア軍右翼に進出し包囲の体勢が整い始めた。
それを確認したロシア軍総司令官クロパトキンは、包囲されるのを恐れ退却を命じた。
ロシア軍が奉天に引き上げ始めたのを観た日本軍は、
全戦線にわたって追撃に移ったが、
兵力と機動力に勝るロシア軍を包囲することはできなかった。
また退却と守りに入ったロシア軍の守備は堅く、
悠々と退却してゆくロシア軍をいかんともできなかった。乃木第三軍からは、
ロシア兵を満載した列車が三〇分おきに奉天から北上していくのが眺められたが、
砲弾がなく、退路を断ち切ることができなかった。
三月十日午後二時、
ロシア軍正面の奧第二軍は、奉天偵察のために将校斥候を放った。
午後三時、将校斥候は「奉天城内に敵影なし」との報告をもたらした。
午後五時、奧第二軍隷下の第四師団(大阪)の
大阪歩兵第三十七連隊第二大隊(現、陸上自衛隊三十七連隊、信太山駐屯)が
奉天城に入城し、各門に小隊を配備して日の丸を掲げ、城内中央に進み、
第二大隊長河村義男少佐が、奉天将軍増祺と面会し
「城内のロシア敗残兵掃討の要あり。我が軍を以て宮殿および官衙を保護せん」
と奉天占領を申し入れ、増祺の了承を得る。
同日、大山巌元帥総司令官は、奉天会戦の勝利を宣言する。
日本軍  戦死者一万六五五三名、負傷五万三四七五名、捕虜四〇四名
ロシア軍 戦死者八七〇五名、負傷五万一三八八名、失踪二万九三三〇名

この奉天会戦の勝利をもたらした最大のものは、
乃木第三軍の左翼からの迂回攻撃であった。
ロシア軍から見れば右翼に現れた旅順を陥落させた乃木軍が悪霊に見えたのではないか。
旅順を陥落させ、直ちに北上してロシア軍と対峙した第三軍将兵は、
「我らは、旅順を陥落させた第三軍なるぞ」とロシア語で叫んで突撃した。
すると、ロシア兵は、旅順を陥落させた乃木が来たと恐れたと伝えられている。

以上が、今や百十二年の昔になった奉天大会戦の概要であるが、
この会戦に負ければ、我らは日本人として生まれなかっただろう。
また、この会戦に勝っても、
五月二十七日のバルチック艦隊との日本海海戦に負ければ、
我らは日本人として生まれてはいない。
従って、歴史の回復とは、
奉天会戦勝利の日の三月十日を「陸軍記念日」とし、
日本海海戦勝利の日の五月二十七日を「海軍記念日」として復活させることである。

最後に、この戦いを戦った兵士の姿を思はねばならない。
彼らは、血も涙もある我らの先祖であり同胞である。

三月十一日は、東日本大震災から六年が経つ日だ。
我らは、今でも、その災害による二万人を超える死者行方不明者の多さと
今も嘆き悲しむ彼らの遺族を思い、胸張り裂ける思いである。
この同じ思いを以て奉天会戦や旅順攻防戦を見れば、
戦死者は、それぞれ一万六五五三名、一万五四〇〇名、総て二十歳台の男子である。

先の時事通信で、昭和十七年二月十四日、インドネシアのパレンバンに落下傘降下して
少数で飛行場と製油施設を制圧し、「空の神兵」といわれた男たちのことを、
実戦の降下部隊小隊長であった
奥本 實中尉が記した「パレンバン落下傘部隊戦記」を紹介した。
そのなかの、飛行場を制圧して作戦目的を達した後に
夕食をとる兵の情景を記した次の一節を読んだとき、
目頭が熱くなった。鬼神も退く勇者達も泣くんだと。
「戦死した戦友の勇敢な働きを思う浮かべて、不覚にも泣き出す兵。
 ずっと前進していた部隊が、一旦停止すると、必ず感傷が襲うのである。」

次に、日露戦争における次の情景を述べたい。
「荒涼たる満州の草原には、累々たる戦死体が横たわっていた。
ロシア軍砲弾の直撃をあび、弾片で身体と軍服を裂かれ、
戦場に遺棄された日本兵の軍服のポケットから、
ちぎれてはみ出した軍事郵便が、戦場を渡る強風にあおられ、
草原の秋草の間を転々と舞った。
戦場に斃れた兵士に、最後まで寄り添ったもの・・・・・・、
それは、家族からの軍事郵便だったのである」(鈴木荘一著「日露戦争と日本人」より)

第二軍司令部の石光真清少佐が、
騎馬で戦場を視察した時の手記「望郷の歌」より、
「この日(三月十日)は未明から南風が強く、
文字通りの黄塵万丈、太陽の光も覆われて見えず、
天地暗澹として三、四間先も見えないほどであった。・・・
 傷ついて力尽きた将兵達は黄塵を浴びて随所に群がり横たわっており、
死屍もまた黄塵に半ば埋もれて識別困難であった。・・・・・
『教官殿ではありませんか。川上素一であります。
大山総司令官の副官川上大尉であります。
元帥閣下から命を受けて戦線を視察いたしております。』
『いつも戦線を巡って感じますことは、
このような戦闘は、命令や督戦ではできないということです。
命令されなくとも、教えられなくとも、
兵士の一人一人が、勝たなければ国が亡びるということを、
はっきり知って、自分で死地に赴いております。
この勝利は天佑でもなく、陛下の御稜威でもございません。
兵士一人一人の力によるものであります・・・・・
さように考えることは、教官殿、けしからぬことでしょうか』
『いやいや・・・その通り、僕もそう思っているよ。
天佑とか御稜威とかいうのは、あれは君、陛下に報告するときの文章だよ。
 しかし川上君、兵士の一人一人が、このように戦ったのは、
小隊長も中隊長も大隊長も、いや連隊長までが抜刀して、
いつも先頭に立って進んだからだよ。
だが・・・・つくづく思うねえ、両軍の間にこんなに兵器の優劣の差があって、
よくもまあ、ここまで来つるものかなとね・・・・』」

 以上、三月一日より奉天の会戦のことを思っていたので記した。
これから直面する我が国の国難は、
この過去の英霊との連続性のなかでこそ克服できる。
従って、我らは、英霊の慰霊を怠らず、
英霊との一体感のなかで生き抜かねばならない。
本日(三月六日)、午前、
北朝鮮がミサイルを日本海に向けて打ち上げたと伝えられる。
まさに、米韓合同演習の最中である。
トランプ大統領に、
ただで済まされるな、先制自衛・限定爆撃を開始されよと申したい。
そこで、我が国世情は、
大阪の森友学園のことや東京の豊洲のことを
連日繰り返し報道し馬鹿野党と共演状態。
これを「亡国を知らざればこれ即ち亡国」(田中正造)という。
しかし、
世情は斯くの如くでも、
我らは、春風を楽しみ、英霊の甦りと日本の再興を確信して、前進しましょう。

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