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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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天皇さまが泣いてござった

平成28年5月1日(日)

 昨日の時事通信で、「昭和天皇実録」のなかで、
 天皇が「落涙」されたと記されている箇所は、
 天皇の十一歳の頃、
 崩御された明治天皇の御後を追って大正元年九月十三日に乃木希典大将が割腹して殉死したことを
 翌日十四日に知らされた時だけであると記した。

 しかし、「昭和天皇実録」ではないが、
 天皇が落涙された記録がある。
 それは、しらべ かんが著、「天皇さまが泣いてござった」(教育社)である。

 昭和天皇は、
 昭和二十一年から敗戦で疲弊した各地の国民を励ますために、全国巡幸を開始された。
 
 昭和二十二年三月、天皇が九州に巡幸され、
 佐賀県での第一番の行幸予定地が「因通寺洗心寮」と発表された。
 「因通寺洗心寮」とは、戦争被災児救護教養所で、
 その時、満州からの引き上げ孤児四十余名が収容されていた。

 五月二十四日朝八時五十分、
 天皇の御料車が因通寺のある基山町に入られ予定地に停車した。
 早朝から待機していた基山町のほとんど全人口と思われる人々から、
 自然に「天皇陛下万歳」の声が湧き上がった。

 天皇は因通寺の山門から参道の坂を登られ、さらに二十三段の石段を登られて境内に入られた。
 そして、待機していた県知事の挨拶を受けられ、
 激戦地から生還してきた若い住職の説明を受けられた。
 
 その時、天皇は、住職に歩み寄られ
 「親を失った子ども達は大変可哀想である。
 人の心の優しさが子ども達を救うことができると思う。
 預かっている沢山の子ども達が、
 立派な人になるように心から希望します。」
 と申された。
 
 緊張して身動きもせず聞いていた住職が、
 「これら天皇陛下の子供らを・・・」と申し上げると、
 天皇は、
 「仏の子ども達」
 と申された。
 住職は、竦むように立ち続けていた。

 それから天皇陛下は、引き上げ孤児のいる洗心第一寮と洗心第二寮に歩を進められた。
 各寮では、子ども達がそれぞれの部屋で陛下をお迎えすべくお待ち申し上げていた。
 陛下は、各部屋の前に立たれて子ども達に御会釈をなされ、
 そして、わが子に対するように、一人一人の子どもにお言葉をかけられた。
  
 「どこから」
    「満州から帰りました」、
    「北朝鮮から帰りました」

 「あ、そう」
 「おいくつ」
    「七つです」、「五つです」

 「立派にね。元気でね」
 
 陛下が次の部屋にお移りになられるとき、子ども達の口から
 「さようなら。さようなら」
 と自然に言葉が出た。
 すると陛下は、
 「さようならね。さようならね」
 と親しみを一杯に湛えたお顔で、挨拶をなさった。

 ところが、このように部屋の前で、
 陛下の方から子どもに話しかけられていたのに、ある部屋の前で、
 陛下は、直立不動といってよい姿勢で立ち止まられ
 一点を見つめて身動(みじろ)ぎもなさらなかった。
 陛下の後に続いて廊下にいた侍従長、宮内庁長官、県知事そして警察本部長達は、
 何事があったのかと足を止めて陛下を見つめた。

 その時陛下は、部屋の中の三人の女の子の真ん中の子が胸に抱きしめていた二つの位牌を
 じっと見つめられていたのだった
 そして、女の子に、静かな声でお尋ねになった。
 「お父さん。お母さん」
   「はい、これは父と母の位牌です」
 「どこで」
   「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。
    母は引き上げの途中病のため亡くなりました」
 「お一人で」
   「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。
    船に乗ったら船のおじさん達が親切にしてくださいました」
 「お淋しい」
   「いいえ、淋しいことはありません。
    私は仏の子です。
    仏の子は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にまいったら、
    きっともういちど会うことができるのです。
    お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいとおもうとき、
    私はみ仏さまの前に座ります。
    そして、そっとお父さんの名を呼びます。
    そっとお母さんの名を呼びます。
    すると、お父さんもお母さんも、
    私のそばにやってきて私をそっと抱いてくれるのです。
    私は淋しいことはありません。私は仏の子どもです」

 その時、陛下のお顔が変わったように随行の者は思えた。
 すると、陛下は、部屋の中に入られた。
 そして、右手に持たれていた帽子を左の手に持ちかえられ、
 右手をすっと伸ばされて
 位牌を抱えている女の子の頭をお撫でになった。何回も、何回も。
 そして、おっしゃった。
 「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」
 そのとき、天皇陛下のお目からはハタハタと数滴の涙がお眼鏡を通して畳のうえに落ちていった。

 因通寺の参道から県道までの道には沢山の人々が道の両側に座って陛下をお見送りしていた。
 陛下は、「戦死者遺族の席」と啓示してある前で足を止められ、遺族に対して、
 「戦争のために大変悲しいできごとが起こり、そのためにみんな悲しんでいるが、
 自分も皆さんを同じように悲しい」
 そして、一番前に座っている老婆に声をかけられた。
 「どなたが戦死されたのか」
   「息子でございます。たった一人の息子でございます」
 「うん、うん」
 「どこで戦死をされたのか」
   「ビルマでございます。烈しい戦いだったそうですが、
    息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。
    でも息子の遺骨はまだ帰って来ません。
    天皇陛下様、息子は今頃どこにおるのでしょうか。
    天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。
    息子の命のためにも、
    天皇陛下様、長生きしてください。ワーン・・・・」
 
 この老婆の言葉をお聞きになっている
 天皇陛下の両方の眼鏡から涙が頬につたわっていた。

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