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日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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西村眞悟の時事通信
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いずれ書かねばならない「僕の自由党始末記」

平成15年8月8日(金)

自由党の解党が、七月二十三日に発表されてから、はや二週間。

「僕の自由党始末記」を発表したい、と思いつつ、日時が過ぎた。
 始末記は、いずれ発表できるとして、まずその前に、このたびの自由党解党という事態が、私の政治姿勢に、何か影響を与えるのか、を深思した。

結論は、何も影響なし、である。

 考えてみれば、私の今までの政治的実践は、私の所属政党によるものではなく、

「私に発するもの」であった。

 それゆえ、私の所属政党が、私の行動発言によって、「あの、西村のいる政党」として、特色付けをされることはあっても、「あの党だから、西村はあの行動をした」と説明されたことはなかったのだ。

 さはさりながら、苦難を覚悟で、あえて少数の自由党結成に参加した、私の思いは、

(既成政党が、与野党をとはず、戦後の特殊な空間のなか、つまり、戦後民主主義、もしくは、憲法9条的平和主義のなかだけでしか、思考しないのに対して)

 日本に初めて、戦後的な手かせ足かせを脱却して、国家の誇りと名誉を自覚し、国土と国民を守る覚悟と方策を明確に提示する民族的国民政党を出現させることであった。

「頭数という人数が問題なのではない。問題なのは、いかなる志を懐いているかである」

 この人間の志を見つめた自由党結党の決意に、小沢党首を含む誰もが賛同した。

 しかし、現実の歩みは、こうはならなかった。詳しくは、いずれ書くが、私の自由党路線の挫折であった。

 ここに、このたびの解党発表をきっかけとして、ボディーブローのような一種の寂寞が、私を襲った背景があるのだ。未明に目が開き、寂寥感に襲われた。

 そこで、また、一人になって考えた。
 一人、荒野にいる思いで、考えた。

 そして、冒頭のように、私の政治的言動は、所属する党を「引っ張っていく」ものではあっても、「党に引っ張られた」結果ではなかった、ことを確認した。
 さらに、党を失っても、私の政治信条は、今までのように一貫し、そこに何のぶれる要素も見出しえないことを確認した。

 また、超党派の、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための議員連盟でも明らかなように、いまや、党派を超えて、同じ思いを持ちえる若手議員が、我が国政界にいる。自民党と民主党には、ほぼ同数いるのだ。

 さらに、思い起こすと、かつて尖閣諸島に上陸視察した時、同じ政党内からも自民党からも賛否両論がでて、同志も両党から出た。

 核武装の議論は、しなければならないのではないか、4年前のこの提示に関して、与野党ビックリして腰を抜かし、自由党の幹事長は、NHKで「西村議員の考えと自由党の考えは、一切関係がありません」と顔を引きつらせたが、いまや、議論はあたりまえ、が大勢ではないか。

 政界が、斯くの如きである以上、自由党があろうがなくなろうが、「吾の前には道がない。吾の後に道が出来る」と、今までのように、これからも歩むことによって、使命を果たしつづけることが、僕の生き方だと改めて確信している。

以上、解党後の姿のつめが、両党間で今進んでいる流動的な状況なので、まず「わたしの確信」をお伝えすることにいたしました。

大切なのは、「志」だ。
志と誠があるところ、同志とともに、使命を果たせる。

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