|
六日は、京都で行われた丹羽春喜先生の経済講演を聴講した。その前に、幕末に京都守護職となった会津本陣のおかれた黒谷、金戒光明寺を訪ね、会津藩士の墓と岡本經忠中尉とご両親の墓に参った。黒谷の三重塔から北に延びる細い墓に囲まれた道の脇にこれらの墓はある。この道は学生時代よく通っていた道だ。 初めて此処を通ったのは二十歳か十九歳の頃だったろうか。 陸軍歩兵中尉従七位勲六等功五級岡本經忠之墓 この墓石の裏に書かれていた、京都中学に学んだ同中尉が日露戦争に従軍し二十六歳で旅順で戦死するまでの簡潔な碑文(乃木大将筆)を読んだ。印象に残り忘れがたかった。 数年前、この忘れがたかった岡本中尉の墓を訪れた。墓は変わらず、ご両親とともにあった。 あらためて碑文を読み返し、またご両親の墓をよく見た。 岡本中尉の碑文の末文は次の通り。「・・・終戦死干清國盛京省旅順小東溝附近時年二十六明治三十七年八月二十日也」 その南隣にご両親の墓がある。 「經邦昭和二年四月二十三日没行年八十八」 「鶴江昭和八年五月四日没行年八十三」 この簡潔な碑文の中に、明治三十七年に二十六歳の息子を失い、昭和まで生きて、それぞれ八十八歳と八十三歳で亡くなった親の悲しみが滲み出ているように思えた。 そして、六日に訪れた時も、岡本中尉親子の二つの墓標は吹雪のなかに立っていた。
また、学生の頃、黒谷から東南に三キロほど行ったところにある坂本龍馬と長岡慎太郎そして長州藩士の墓のある東山霊山もよく歩いていた。現在、この霊山は観光地になっている。黒谷は、昔と変わらず苔むしたままだ。 京都守護職となった主君とともに御所を守り戦死した会津藩士の墓を訪れる人は少なく、御所を目がけて砲撃し、御所に攻め入った長州藩士の墓は観光地だ。 先年、産経新聞の産経抄に、会津若松の高校生が京都に修学旅行くる、その時、黒谷の会津藩士の墓を掃除していると書かれていた。これを読んだとき、ほんとうに嬉しかった。会津士魂を忘れなければ、日本は大丈夫だと思っているからだ。
さて、明治維新の日本人の苦闘は、我が国が開国して帝国主義の弱肉強食の国際環境の中に放り出される中で行われた。 黒谷と霊山に眠る会津と長州の藩士達もその中で死んだ。 そして、我が国の国家と国民は、列強に食われるよりも戦うことを選んだ。厳しい国際環境の中にある明治の国民にとって、近代国民国家とは、まさに国家のために死ぬことを要求するものだった。 会津藩士の南約八十メートルに眠る京都中学に学んだ岡本經忠中尉も、まさにその国家の要請に応えて戦死した。
では、岡本中尉の戦死した戦争は何故起こったのか。それは、朝鮮がロシアの支配下に入ったからである。 その十年前の日清戦争に日本が勝利したことにより、朝鮮は韓国として清国から独立した。しかし、朝鮮の朝廷李朝は、三国干渉で日本を屈服せしめたロシアを朝鮮半島に誘い込み、ロシア公使館に逃げ込んだ。朝鮮半島をロシアに支配されれば、次に日本はロシアに征服される。日本は朝鮮半島からロシアを駆逐する為に戦争を決断した。これが日露戦争である。 明治三十八年(西暦一九〇五年)日本はロシアに勝った。
そして、勝者に残された課題は、朝鮮半島を如何にするかであった。振り返れば、日清戦争は朝鮮半島をめぐって起こった。 清国は朝鮮は自らの属国であると言い、日本は朝鮮は清国のものではない、独立国だと言いあった。 そして、日本が勝ち、朝鮮は独立国となった。 しかし、朝鮮は独立国になったとたんに、強いロシアの懐に入り侮日感情を丸出しにしてロシア軍を朝鮮半島に入れた。 よって、日露戦争が始まった。 此処にいたって、日露戦争後の朝鮮の独立はあり得ない。いずれかの勝者の管理下におかれる以外に朝鮮は存在できない。
日露戦争に勝った日本は、五年後の一九一〇年、日韓併合条約によって韓国を併合した。伊藤博文は、日韓併合に反対的だった。疲弊した朝鮮を抱え込む財政的余裕がないからだ。 しかし、ハルピンで伊藤が暗殺されてから一挙に日韓併合に動いた。以後、三六年間、朝鮮は日本となる。
本年はこの日韓併合から百年になるのを記念して、民主党の小沢幹事長などは、天皇陛下の韓国ご訪問に意欲を示しているようだ。各所で行事が企画されている。 しかし、彼らが、日本が朝鮮を植民地にしたという歴史認識であるならば、完全に事実に反して間違っていると指摘しておかねばならない。村山富市談話もそうであるから、この談話を信奉する与野党は、日本は朝鮮を植民地にしたと思い込んでいる。 しかし、日本は日韓併合条約によって、朝鮮を併合したのであって植民地にしたのではない。 アメリカは、最初は東部十三州の国であった。次に一八四五年にテキサスを併合し、一八四八年にはカリフォルニアとアリゾナを併合し、一八六七年にはアラスカを併合した。 イギリスは、イングランド、スコットランド、ウェールズそして北アイルランドからなる連合王国(UK)である。 アメリカの中西部の各州が東部十三州の植民地ではなく、スコットランドや北アイルランドがイングランドの植民地でないように、朝鮮は日本の植民地ではない。
日本と韓国は、併合条約により合併したのである。 条約であるから当事者が存在する。韓国側は総理大臣の李完用である。 そして、李とともに韓国内で併合を推進した最大の国民的組織が一進会である。この一進会は韓国を憂い愛する団体であった。 あの時の国際環境の中で国を憂うる韓国人の立場に立ってみれば分かる。 西には老大国の清があり朝鮮を属国とみなしている、北にはどう猛なロシアがいる、国内には国民を収奪し清に取り入りロシアに取り入る腐敗して祖国を裏切る支配者李朝がいる。 この内外の状況のなかで朝鮮を存続させるためには、海を隔てた東の日本と組むしかないではないか。
そして、日本は、この一進会の期待に応えた。 道議なき近代の国際状況のなかで、他国を併合して他国の為にこれほど尽力した国家は、日本以外にありえないのではないか。 以下事実だけを記す。 日韓併合の三十六年間で韓国は如何に変化したのか。 人口は、九百八十万人が二千五百万人に増加した。 平均寿命は、二十四歳が四十八歳になった(日本人と同じ)。 小学校の数。併合時全朝鮮で小学校は四校しかなかった。 しかし、併合後、一村一校を目標にして小学校がつくられていった。大正十三年には二千五百校になった。そして、遂に昭和十一年、朝鮮全土の全村に小学校が建設された。 (以上、若狭和朋著 「日本人が知ってはならない歴史」より)
日韓併合百年は、日本人が誇りをもって歴史を見直す時がきたことを告げている。 黒谷に眠る会津藩士、岡本中尉、そして霊山の長州藩士と坂本龍馬らの志士。無量の英霊。 彼らは、等しく、今を生きる我々に、 誇りをもって歴史を見直せと告げている。
|